百一回目、俺はメモを取ることにした
また、朝だ。
背中から来る。石の冷たさが服越しに這い上がってきて、脊椎を一本ずつ叩き起こしていく。仙骨から、腰椎から、胸椎から——最後に後頭部がじんわりと冷えて、意識が戻ってくる。
俺は目を開けた。灰色の空。夜明け前の藍色が薄れかけている空。遠くの屋根のシルエット。鳥がどこかで一声鳴いた。
三段目。七段の石段の、三段目。
百一回目の朝だ。
起き上がる前に、俺は手を動かした。上着のポケットを探った。指に紙の感触があった。
ある。紙がある。
ポケットの奥をさらに探った。鉛筆も、ある。試験の前日——というかループを跨ぐ前の「前の俺」——が、翌朝のために仕込んでいったやつだ。百回目の夜に「次のループのために情報を残したい」と思って、眠りにつく前にポケットに入れておいた。
「よし」と俺は声に出した。「書き残そう」
昨夜の、というかループで言う「前の自分」の記憶はまだ鮮明だ。鉛筆を構えた。何を書くべきか——まずベルさんの「百回目か」という言葉。次に焼き菓子の屋台がなかったこと。実技試験の壁の位置。銀髪の受験者の顔。世界線ズレの具体的な変化の記録。
俺は紙を広げようとした。
そして止まった。
「……あ」
引き継がれない。
物は引き継がれない。
それは百回のループで確かめてきたことだった。石段で目覚める「俺」は、前のループで持っていたものを何も持っていない。身体はリセットされる。着ている服は「リセット時点での普通の服」に戻る。前のループで書いた紙も、前のループで買った何かも、全部消える。
今俺のポケットにある紙と鉛筆は——「この百一回目のループが始まった時点から、最初からあったもの」だ。前の俺が入れていったわけじゃない。単に、試験の日に備えてポケットに入れていた習慣のものが、リセット後にもそこにある——それだけのことだ。
俺がここに書いたとしても。
次のループの俺は、この紙を持っていない。
「……そりゃ、そうか」
分かっていた。知っていた。でも今朝は反射的にメモを取ろうとしていた。百回目で衝撃的なことが起きたせいで、「それを記録しなければ」という焦りが理性より先に手を動かした。
鉛筆を指の間で転がした。ポケットに戻した。紙もポケットに戻した。
俺は立ち上がった。手を石段について重心を前に移し、膝を伸ばす。いつも通りの動作。百一回目でも、この動きは変わらない。
「笑えない話だな」と俺はつぶやいた。
本当は少し笑えた。自分の詰めの甘さに、百一回目にしてなお驚かされることへの、苦い笑いだ。
空が少し明るくなっていた。夜の藍が空の端に追い出されて、東の方角から白みが差し込んでくる。石段の七段を上から数えた。一、二、三——三段目の色が薄い。四、五、六、七。七段。変わっていない。
壁のシミを見た。昨日は鳥に見えた形が、今日は——また少し違う形になっている気がした。俺の目が慣れていないのか、あるいは本当に変わり続けているのか、今日のところは判断保留にした。
――――――――――
「また来たのか」
試験館の入口の右横に、ベルさんが立っていた。
くすんだ青色の警備員の制服。腰から鍵の束をぶら下げている。ほぼ白になった短髪、笑いジワの深いシワ、外に立ち続けているせいで赤みがかった鼻——昨日と同じ顔だ。いや、昨日は「百回目か」を言った後の顔をしていた。あの目の奥にあった光が、今日はない。
今日のベルさんは、何も知らない。初対面の顔だ。
「……ええ、また来ました」と俺は答えた。
「根性あるな」とベルさんが笑った。
鍵の束がじゃらりと音を立てた。ベルさんが体重を片足に移す動きに合わせて、鍵が揺れた。その音が、朝の冷えた空気の中で妙に大きく聞こえた。
根性。そうですね。百一回目を根性と呼ぶかどうかは分かりませんが。
俺はベルさんの顔を見ながら、昨日の「百回目か」を頭の中で再生した。あの声の質。あの目の奥の光。今日のベルさんとは別人みたいに違う——いや、顔は同じだ。顔も声も同じ。でも「知っているベルさん」と「知らないベルさん」が、同じ身体に別々に宿っている感じがした。
「……今日も、よろしくお願いします」
俺は言った。
ベルさんが少し首を傾けた。「ん? ああ、頑張れよ」
それだけ言って、ベルさんはゆっくり歩いていった。鍵の束の音が遠ざかっていく。俺はその背中が試験館の角を曲がって消えるまで、じっと見ていた。
知っているベルさんと、知らないベルさんが、同じ身体にいる。
あるいは。
昨日だけ、何かが「別の声」を借りて喋った?
分からない。分からないまま、今日の朝が始まった。
――――――――――
今日の作戦は「能動的にループを活かす」だ。
物は引き継げない。でも頭の中には百一回分の記憶が詰まっている。それを使わない手はない。
筆記試験の出題傾向は全部分かっている。実技試験の「壁」の位置も分かっている。今日もどうせ壁は越えられないだろうが、壁の手前で「何かを掴む」ことはできるかもしれない。
あとは——キャラの行動パターンを今日は意識的に確認してみる。百回で「なんとなく分かっている」ものを、一度きちんと言語化してみる。
待合室に入った。
石の廊下を抜けると、木の扉の向こうに部屋が広がる。昨日と同じ待合室。長椅子が三列。壁には貼り紙。試験機構の規則を書いた古いものと、新しいものが混在している。松明型の壁灯が二本、天井近くの壁に固定されていて、炎が揺れるたびに椅子の影が動く。昼間でも薄暗い部屋だ。
受験者が数人、すでに座っていた。参考書を開いている者、目を閉じて集中している者、ひそひそと隣の人間に話しかけている者。誰もが多かれ少なかれ、緊張した顔をしている。
俺は入口から見渡した。
「セナさんは——約二分後に右の扉から来る」と俺は頭の中で確認した。「カバンを両手で胸に抱えて、一歩入ってから立ち止まり、部屋を見渡してから端の席を選ぶ。話しかけるのはタイミングによる——俺が視野に入る場所にいれば来る」
「ポムさんは——俺がセナさんと話し始めて三分ほど後に来る。弁当を持ってくる。入口で『今回こそ受かる気がするっすよ!』と言う。『左の扉から』入ってくる」
俺は真ん中の列の端の椅子に座った。右の扉に向けて少し角度を取っている位置。ここからだと待合室の大半が見渡せる。
一分経った。右の扉を見た。
二分経った。
右の扉が、開かない。
代わりに——「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!!」
待合室の左側で、声が炸裂した。
俺が振り向いた。
入口の左。待合室の左の扉。その扉が勢いよく開いていた。そこから大きな体が入ってきていた。大柄で肩幅が広い、茶色い短髪の男。橙色の服——布巾でしっかり縛られた弁当箱を右手に持っている。
ポムさんだ。
左の扉から来た。
「……そちらから来たんですか」と俺は言った。
ポムさんが俺を見た。「いつもこっちっすよ? 何か問題っすか?」
いつもこっち。
俺の頭の中の記憶では「左の扉から来る」ことになっている。確かに、そう記憶している。でも今この瞬間まで「右の扉」を見張っていた。完全に混乱していた。
「いや。ちょっと確認していただけです」
「何を確認してたんっすか? 俺が来る前からここにいたんっすよね?」
「ええ」
「待ってたんっすか? 俺のこと?」
ポムさんが少し嬉しそうな顔をした。丸い顔の目元がさらに垂れ目になって、垂れ目が笑顔に変わっている。
「……違います」と俺は言った。
「じゃあ誰かを?」
「誰も待っていません」
「でも入口見てたっすよね?」
「見ていません」
「嘘っすよ絶対」
ポムさんが俺の正面の椅子を引いて座った。他に椅子はたくさんあるのに、真正面に。前のめりの姿勢で俺の顔を覗き込んでくる。額に汗がうっすらある——試験の日は常に緊張している男だ。
「弁当持ってきたっすよ! 今日は卵焼きじゃなくて肉まんっすよ! 母の特製っすよ!」
「いりません」
「まだ見てもないのに!?」
「いりません」
「……何でそんなに断るのが早いんっすか」
「個人的な理由があります」
ポムさんが傷ついた顔をした。本当に傷ついている顔だ——悪意があって断っているわけではないことは伝わっているはずだが、それでも傷つく。純粋さがある人間だ、とループを重ねるごとに思う。
俺はポムさんの顔を見ながら、内心で別のことを考えていた。今日の弁当は肉まんだ、と。九十九回分の記憶の中で、ポムさんが肉まんを持ってきたのは——三回ある。六十三回目、七十七回目、そして今日。数えていたわけではないが、なんとなく覚えている。肉まんの日は珍しいから目に留まっていた。
俺が「個人的な理由があります」と断り続けていた間も、ポムさんは俺の隣の席に座ってきた。なぜ今度は隣に。正面ではなく隣に来た。
右の扉が開いた。
栗色のショートカット。大きなカバンを胸に抱えた女が、一歩入ってから立ち止まった。部屋を見渡す——その視線が俺の方向で止まった。
「……あ」とセナさんが言った。「こんにちは」
「あ! 彼女っすよ!」ポムさんが叫んだ。椅子から半分立ち上がりそうな勢いで声を上げた。
「違います」と俺は言った。
「なんで断言できるんっすか! まだ一言しか聞いてないっすよ!」
「初対面なので」
「俺とも初対面っすよ!? それは関係ないっすよ!」
「……あの」とセナさんが、俺とポムさんを交互に見ながら言った。榛色の目が困惑で少し丸くなっていた。「初対面、ですよね? なんで喧嘩してるんですか?」
「喧嘩じゃないっすよ! これは会話っすよ!」
「……そうですね」と俺は言った。
五十五回目の会話だ。
セナさんが困ったように微笑んだ。口の両端がゆっくり上がって、目が細くなる。「なんかお二人、初対面っぽくないですね」と言って、俺の隣のさらに隣の椅子に腰を下ろした。カバンを膝の上に置いて、背筋を伸ばす。
ポムさんが「弁当食べますか?」とセナさんに差し向けた。セナさんが「いただきます」と言って、肉まんを一つ受け取った。ポムさんが「美味しいっすよ!」と言って、俺の方を見た。俺は無言で首を横に振った。ポムさんが「このノリが分からない人っすよ……」と小声で言った。
今日は肉まんの日なので、俺がもらっても死なない。でも断る習慣がついてしまっているので、肉まんでも断ってしまう。これは完全に俺の問題だ。
――――――――――
ガルド試験官が現れたのは、待合室が八割ほど埋まった頃だった。
石の廊下を歩いてくる足音が扉の向こうから近づいてきて——重心が前気味で、床を踏みしめる、あの特徴的な歩き方——扉が内側から押し開けられた。
白と黒が混じった短髪。立派な四角い口髭。腹が少し出ているが背筋は軍人のように真っ直ぐ。銀縁の眼鏡。試験機構の紺色の制服——金ボタン六つ、袖口の金ライン——が、今日もシワひとつなく着こなされている。
待合室の空気が締まった。
受験者たちが参考書を閉じた。話し声が消えた。椅子のきしみが止まった。ガルドさんが前に出るだけで、こうなる。規則を体現したような人間の存在感というのがある。
「受験者全員に告げる」
ガルドさんの声は太く、よく通る。石の壁に反響してさらに大きく聞こえる。俺は壁際に寄って立ち、ガルドさんの話を半分聞きながら、別の半分で今日の死因の予想をしていた。昨日は石段の継ぎ目で転倒した。今日はそこを気をつける。出窓は——今日の帰り道に外縁区で何かが落ちてくるかもしれない。なるべく建物から離れて歩くことにする。
「受験規則第一条により、本試験は——」
ガルドさんが続けた。筆記試験の注意事項。実技試験の流れ。口頭試問の概要。全部頭に入っている。百回聞いた。
「筆記試験においては用紙の表裏を必ず確認すること。実技試験においては審査官の指示に従い、みだりに動かないこと。口頭試問においては——」
俺は半分意識を別のところに置いたまま、もう半分で空気を読んでいた。
ガルドさんの説明のペースが少しだけ変わった瞬間があった。
「——なお、毎回来るやつは落ちる、という話があるが」
俺が止まった。
心の中で止まった。表情は動かしていない。でも頭の中で何かが——弾けた。小さく、確かに。
「毎回」。
いつもは「毎年」だ。「毎年来るやつは落ちる、という話があるが、そういうことはないので安心してほしい」という決まり文句がある。俺はその文句を百回聞いた。いつも「毎年」だった。今日は「毎回」だった。
聞き間違いか。
俺は耳に注意を集めた。ガルドさんはそのまま続けていた。「……そういうことはないので安心してほしい」と同じように言って、次の説明に移っていた。「毎回」に引っかかった様子はない。自分が何と言ったか、おそらく意識していない。
無意識に出た言葉だ。
「毎年」と言うべき場面で「毎回」が出た。それは無意識が「毎回」という感覚を持っているということになる。
ガルドさんの中に、何かが溜まっている。
百回以上、同じ受験者を見てきた——という蓄積が、意識の届かない場所に積もっている可能性がある。本人は気づいていない。でも言葉が滑った。
「——以上だ。質問は?」
誰も手を挙げない。いつも通りの沈黙が続いた。
ガルドさんが書類を整えて歩いていった。ポケットの鉛筆で何かを書きながら、廊下の向こうへ消えた。
一点だけ変わっていた。その一点が、今日の「いつもと違う」だった。
――――――――――
筆記試験の会場は二階の大きな部屋だ。
長机が横一列。向かい合わせにならない配置。細長い窓から朝の光が斜めに差し込んで、机の表面に光の帯ができている。俺は光の帯の端の席に座った。
問題用紙が配られた。俺は受け取るなり素早く表裏を確認して、正しい面から書き始めた。
左隣の受験者が「あれ、こっちが裏じゃ……」とこそこそ言っている。右隣の受験者も少し経ってから気づいて、がさがさと用紙をひっくり返した。三分後には俺の周囲だけ静かに解いているゾーンができていた——今日も同じだ、と思いながら俺は鉛筆を動かした。
問題を解きながら、俺は頭の一部で「毎回」という言葉を転がしていた。
ガルドさんの「毎回」。昨日のベルさんの「百回目か」。二つが今頭の中に並んでいる。
ベルさんは「知っている」と俺に思わせる言葉を言った。ガルドさんは「知らないのに言ってしまう」言葉を言った。この違いは何を意味するのか。ベルさんはリセットを超えた何かを持っている。ガルドさんは意識のレベルでは気づいていないが、何かが体に刻まれている——というふうに見える。
同じ「知っている」でも、質が違う。
一方は「意識的に知っている」。もう一方は「無意識が知っている」。
なぜ違うのか。何がそうさせるのか。
「時間切れです、鉛筆を置いてください」という声が聞こえた。
俺は鉛筆を置いた。全問回答していた。
ポムさんが残り三分のところで用紙をひっくり返す音が聞こえた。毎回のことだ、と俺は思った。
筆記試験は通過した。
――――――――――
実技試験の中庭へ移動する廊下を歩きながら、俺はくしゃみのタイミングを頭で計算していた。
ガルドさんのくしゃみは、試験の節目で来る。具体的には「筆記試験を終えて実技試験の説明をする際」に来やすい。鼻の頭が赤くなって、目が細くなって、上唇が微妙にめくれる——それが来たら傘を出す。
前回は完璧だった。今日は「0.5秒ほど早めに出す」と昨日と同じ精度で防げる——いや待て。昨日は完璧に防いだが、今日は「0.5秒ズレる」という情報はどこから来るのか。頭の中の百回分の記憶を改めて整理すると、くしゃみの周期には毎回少しばらつきがある。昨日がたまたま完璧だっただけで、今日の「完璧なタイミング」は保証されていない。
俺は念のため傘をポケットから出して、折り畳んだまま手に持っておくことにした。
廊下の先から、ガルドさんが歩いてきた。
書類を抱えて、廊下を歩いてくる。実技試験の会場への案内のためだ。俺はガルドさんの顔を見た。鼻の頭は——まだ赤くなっていない。来ない。
受験者の列が実技試験の中庭への扉の前で止まった。
ガルドさんが列の前に立って、説明を始めた。「実技試験は四つのゾーンに分かれており——」
鼻の頭が赤みを帯び始めた。
俺は傘を構えた。開く準備をした。
ガルドさんが続けた。「——審査官の合図があるまでは移動を——」
目が細くなった。上唇がわずかにめくれ始めた。
来る、と俺は判断した。傘を開いた。
「あ……あ……」
ガルドさんの肩が上がった。上体が前に傾いた——
「……ふぅ」
出なかった。
俺の開いた傘が、廊下の中で独り立ちしていた。
「……なんで傘」とポムさんが隣で言った。「屋内っすよ?」
「……なんとなく」
「なんとなくで傘を開く人を初めて見たっすよ!」
ガルドさんが「——以上だ」と言って説明を終えた。傘のことについては何も言わなかった。他の受験者が俺の傘を怪訝そうに見ていた。
ガルドさんが扉の方に向かって歩き始めた。その直後——
「ぁっはくしょん!!」
廊下に爆発した。
ガルドさんが歩きながら、前のめりになってくしゃみをした。書類を持った手ごと、全体が前に倒れるような勢いだった。
俺は間に合わなかった。傘を畳んでポケットに入れた直後だった。
しかし被害は少なかった。ガルドさんが廊下の先を向いて歩きながらしたので、ベクトルが前方だった。その前方には俺ではなく廊下の壁があった。
「……失礼」とガルドさんが言った。なかったことのように歩き続けた。
ポムさんが「あ……ぎりぎり免れたっすよ」と言いながら服を確認していた。
今日は0.5秒の「ズレ」があった。
昨日と同じ試験日でも、微妙に違う。この世界は、毎回完全に同じではない。同じように見えて、細部が少しずつ違う。
「細部が変わり続けている」という感覚が、また一つ積み重なった。
――――――――――
実技試験の中庭に出た。
四方を石の壁に囲まれた屋根のない空間。上だけが開いて、朝の空が四角く切り取られている。石畳の地面に仕切り線が入っていて、審査官が各ゾーンに一人ずつ座っている——背もたれのない丸椅子に、木製のクリップボードを膝に置いて。
俺は自分のゾーンに入った。
審査官が俺を見た。筆記試験の採点基準を読むような目——それが、実技試験における審査官の「見ている目」だ。
課題が始まった。
俺は指示通りに動いた。第一段階の基礎測定——これは毎回クリアできる。体の動かし方、反応速度、判断の速さ。百回分の積み重ねがある。無駄なく動けている。
第二段階。
「こなす」「こなす」「こなす」——そして来た。
審査官の目が切り替わった。
「見ている」から「見ていない」へ。電灯のスイッチのような、一瞬の切り替え。その瞬間、俺は今日も同じ場所にいた。同じ「壁」の手前に。
今日は昨日より一つだけ注意して観察したことがある。
壁が来る直前——審査官の視線が「手元」から「全体」に切り替わる瞬間がある。次にその瞬間が来たとき、俺は自分の動きのどこを「全体で見た場合」の評価基準として見せているのかを確認した。
腕の位置か。重心か。目線か。
答えは出なかった。でも「手元→全体→OFF」という視線の動きのパターンは確認できた。一歩分だけ、壁の構造が分かった。
「次の方」と審査官が言った。
俺は退いた。今日も越えられなかった。でも今日は昨日より、一ミリだけ前に進んだ気がした。
――――――――――
試験が終わった。
廊下から中庭の外に出ると、夕方の光が傾き始めていた。試験の時間は長い。朝から始まって、各段階に時間がかかる。今日の結果は実技で止まった。口頭試問の列には並べなかった。
試験館の出口のところで、ポムさんが待っていた。
大きな体を入口の脇に寄せて、腕を組んで立っていた。弁当箱は布巾ごと腕に引っかけている。俺が出てくるのを見て、すぐに表情を明るくした。
「また次回っすよ! 次こそっすよ!」
ポムさんが言った。声が少し大きい。元気を出そうとしているのか、元から元気なのか、判断がつかない。多分両方だ。
「……そうですね」
「落ち込まないっすよ!」ポムさんが続けた。「俺なんか十五回落ちてるっすよ! でも諦めないっすよ! 継続は力っすよ!」
「十五回」と俺は繰り返した。
ポムさんが誇らしそうに頷いた。「そうっすよ! 毎回来てるっすよ! 絶対いつか受かるっすよ!」
俺は「毎回」という言葉を、今日二度目に聞いた。
ガルドさんから、ポムさんから。同じ「毎回」という言葉が。
でもポムさんの場合は、単純に「毎回の試験に来ている」という意味で言っている。特別な含意はない。ポムさんの「毎回」は純粋だ。
「それは」と俺は言いかけて、止めた。
俺は百一回来ている。あなたの十五回の上に、さらに積み重ねたら。でも言えない。言っても意味がない。ループしているという話は、誰かに信じてもらえる話ではない。信じてもらえたとしても、それが次のループに引き継がれない。
「頑張りましょうね」とポムさんは言った。
「そうですね」と俺は答えた。
ポムさんが手を上げた。「また次回っすよ!」と言って、広場の方へ歩いていった。大きな体が遠ざかっていく。橙色の服が夕暮れの光の中で揺れている。弁当箱が腕に揺れている。
俺はその背中を見ていた。
今日のポムさんは、明日のポムさんには届かない。
明日の試験日、ポムさんがまた左の扉から「今回こそ受かる気がするっすよ!」と入ってきたとしても、それは今日俺と話したポムさんじゃない。新しい初対面の彼だ。今日弁当を断ったことも、一緒にガルドさんのくしゃみを見たことも、この会話も——次のポムさんには何もない。
ポムさんの十五回は、ポムさんにとっての全部だ。
でも俺の百一回は、ポムさんには一度も見えていない。
橙色の背中が人混みに消えた。
俺はその場に立ったまま、もう少しの間だけ、消えた方向を見ていた。
――――――――――
帰り道は夕暮れだった。
試験場通りを抜けて、中央区の大通りを歩く。石畳の質がいい。均一に敷かれた平らな石が続く。街灯が等間隔に並んで、夕暮れの光を補っている。中央区は明るい。
外縁区への分岐点を過ぎると、石畳が変わる。古い、欠けた石。隙間が広い。踏むたびにわずかにぐらつく石がある。子どもの頃から歩いてきた石畳だ。
今日一日の「いつもと違うもの」を整理した。
ガルドさんの「毎年→毎回」。くしゃみのタイミングが0.5秒ズレていた。ポムさんが左の扉から入ってきたこと——これは毎回のことで、今日に限ったことではない。俺が確認を怠っていただけだ。
「ズレ」は昨日と違う形で来た。昨日はベルさんの一言という大きな衝撃だった。今日はガルドさんの一語という小さな違和感だった。毎回同じ大きさで来るわけじゃない。小さいズレも、大きいズレも、混ざって来る。
「次は何を変えるか」と俺は独り言を言いながら歩いた。
メモは取れない。物は引き継げない。でも頭の中には百一回分が詰まっている。次のループで試せることがある。今日よりもう少し「壁の構造」を観察してみる。ガルドさんの無意識の言葉をもっと注意して聞く。
石畳の継ぎ目に注意しながら歩いた。昨日転んだ場所は今日も気をつけた。問題なく通過した。
外縁区に入って三つ目の路地を曲がったとき——
「ぐ」
頭に衝撃があった。
見上げると、石造りの建物の出窓の支え木が折れて、木材が俺の頭上に落ちてきていた。
昨日——百回目——と同じ死因だ。
意識の端で俺は思った。次のループでは出窓に気をつける、という前のループの自分の考えを思い出した。覚えていた。ちゃんと覚えていた。でも帰り道の途中で油断した。
百一回目の教訓。考え事をしているときは特に気をつける。
意識が消えた。
――――――――――
また、朝だ。
石の冷たさが背中から這い上がってくる。
三段目。七段の石段の、三段目。
百二回目の朝が来た。
ポケットを探った。紙と鉛筆がある。俺は今日も一瞬、書こうとした。
そして止まった。
「……やっぱり引き継がれないな」
それだけ言って、立ち上がった。
今日のことは今日の頭に入れる。それだけが確かな方法だ。




