百回目の朝は、ちょっとだけ違った
また、朝だ。
最初に来るのは、背中からだ。
石の冷たさが、服越しに、脊椎の一本一本を下から順番に起こしていく。最初に仙骨のあたりが冷える。次に腰椎。それから胸椎。首。最後に後頭部がじんわりと冷たくなって——そこで俺は目を開ける。
灰色の空が見えた。藍色がまだ少し残っている、夜と朝の境目の空。遠くの建物のシルエットが黒く切り抜かれていた。どこかで鳥が鳴いた。一声だけ鳴いて、すぐ黙った。
今日が何回目か、を数えた。
百回目。
きりがいい数字だと思った。死ぬには悪くない日取りだとも思った。そして次の瞬間、自分がそれを「悪くない」と思ったことに気づいて、少しだけ笑った。
笑えるようになったのは、たぶん五十回目あたりからだ。
身体を起こした。まず手を石段について、重心を前に移す。それから膝を伸ばした。百回繰り返した動作だから、寝起きでも無駄がない。
七段の石段の三段目に、俺は毎朝横になっている。
なぜ三段目なのかは分からない。一度、四段目で寝ようとしたことがある。眠りにつく前まで「四段目だ」と意識していたのに、朝になると三段目に戻っていた。世界がそう決めているらしい。以来、俺はこの理不尽に従っている。
腰の痛みを確認した。ない。怪我の感触も確認した。ない。身体は毎回リセットされている——二十二歳の、健康で傷のない肉体。九十九回目の夜に喉に詰まらせた卵焼きは、今の俺の身体のどこにも存在しない。享年二十二歳、死因・卵焼き。不合格通知より先に届いたのは、救急隊員の「手遅れです」という言葉だった。
すっきりした朝だ、と言いたいところだが、頭の中には百回分の記憶がきっちり詰まっているので、どこもすっきりしていない。
空を見上げた。
第七試験館の外壁が視界の右側に立っている。灰色の切石積みの壁。石と石の目地に、長年かけて苔が入っている。俺は左の三メートル上あたりに目を向けた。そこに雨染みのシミがある。長雨のたびに少しずつ形を変えてきた、俺しか知らないシミだ。
今日は——鳥に見えた。
昨日まで「前足を曲げた犬」に見えていたシミの輪郭が、わずかに変わっている。首のような部分が伸びて、翼のような張り出しが生まれていた。鳥か、それとも魚か。見方によっては両方に取れる形をしている。
「……また変わった」
声に出した言葉が、朝の冷気の中に溶けた。
気のせいかもしれない。でも俺は、百回かけてこの感覚を育ててきた。「気のせいだったかもしれない」と思った翌朝に、「気のせいじゃなかった」が来た経験を積み重ねてきた。だから俺はこの違和感を信じることにしている。
一段上を踏んで石段を上がり、七段全部の感触を確認した。一段目、二段目、三段目——三段目は他の段より少しだけ色が薄い。毎朝ここで横になっているせいで摩耗させているのかもしれない、と時々思う。四段目、五段目、六段目、七段目。どれも正常だ。数は七段。それは変わっていない。
七段目から広場を見下ろした。
空が明るくなるにつれ、広場に人が集まり始めていた。試験の朝だけ現れる、あの独特の空気。外縁区から馬車に揺られてきた受験者が、革のバッグを足元に置いて列を作っている。中央区から徒歩で来た者は、いつもより少し良い服を着ている。緊張で顔が青い者、逆に妙に落ち着いている者——百回分の朝の中で、俺は全員の顔を見てきた。今日も同じ顔が同じ場所に立っている。
広場の左隅に、焼き菓子の屋台があるはずだった。
なかった。
九十九回、試験当日の朝には必ずあった屋台が、影も形もない。蜂蜜がけの揚げ菓子を売るおばさんの屋台だ。毎回出ていた。七回目のループでその菓子を食べてから、八十二回目まで毎朝一つ買っていた——八十三回目からはポケットのお金が試験に使う分しかないと気づいて買うのを止めた、というどうでもいい歴史がある。
今日はない。
俺は広場を一巡り見渡した。屋台の痕跡もない。昨日まで轍ができていた地面の端も、今日は均されている。
「……変なこともある」
独り言は百回で習慣になった。話す相手がいない時間が長すぎると、こうなる。
二つ。今日はまだ朝の石段にいる段階で、「いつもと違う」が二つ見つかった。シミの形。屋台の消失。小さなことだ。でも九十九回で積み上げてきた「いつも通り」の積み木が、今日はいくつか別の色になっている。
――――――――――
「お前、また来たのか」
石段の途中で立ち止まっていた俺に、声がかかった。
声のした方を向いた。試験館の入口の少し右横——警備員の制服を着た男が立っていた。くすんだ青色の制服に、腰から鍵の束をぶら下げている。鍵の束は彼が一歩動くたびにじゃらじゃらと鳴った。背はそれほど高くない。年は六十前後か。ほぼ白になった短髪、長年よく笑った人間の顔に刻まれた深いシワ、外に立ち続けているせいで赤みがかった鼻。穏やかな細い目——でも今この瞬間だけ、その奥に何か別のものが光っているように見えた。
ベルさんだ。
俺の中ではそう呼んでいる。三十七回目のループで初めて声をかけてくれた警備員のおじさん。毎回同じ場所に立っていて、毎回同じ言葉をかけてくれる——「また来たのか」。俺が何回来たかは知らないはずの人間だ。ループのたびにリセットされるのだから、彼にとって今日の俺は「たまに見かける受験者」のひとりのはずだ。
「ええ、また来ました」と俺は答えた。
そう言いながら、頭の片側で今日の死因の予想をしていた。前回は弁当だった。喉に詰まらせた。九十九回目の死。いつも笑えるのは、笑えることにしないと次に進めないからだ。笑えるようになったのは五十回目あたりから——本当はあの卵焼きで、ひとりでのたうち回りながら死んでいった九十九回目の夜を、今の俺はちゃんと覚えている。
「百回目か」
え。
石段を下りかけた足が、止まった。
「……は?」
俺は振り返った。ベルさんがこちらを見ていた。鍵の束を腰に、穏やかな顔で——でも先ほどと確かに違う。目の奥に見えていたあの光が、今は全面に出ている。
「また来たのか」ならば知っている。三十七回目から毎朝聞いている。でも「百回目か」は、一度も聞いたことがない。九十九回、一度も。
喉の奥が締まる感覚があった。声が出にくい。身体が「普通じゃないことが起きた」という信号を勝手に発していた。
「……何が、百回目なんですか」と俺は言った。声が少し掠れた。
「さあね」
ベルさんは微笑んだ。微笑みのシワが顔に広がって——それだけを言って、ゆっくりと歩いていった。鍵の束がじゃらじゃらと揺れて、音が遠ざかっていった。
俺はしばらく動けなかった。
石段の五段目に立ったまま、ベルさんの後ろ姿が試験館の角を曲がって消えるまで、ただ見ていた。
頭の中で何かが弾けたような感覚があった。弾けて、散らばって、それがばらばらのまま宙に浮いている。まとめようとしても、まとまらない。
百回目か。
知っているはずがない。ベルさんは毎回初対面から始まる。俺が何回来たかを知る方法がない。それはこの百回のループで、俺が唯一確信を持って言えることだった。他のことは全部曖昧だ——俺が本当に生きているのか、ループは永遠に続くのか、合格できる日は来るのか、両親を救える未来はあるのか、何もかもが分からない。でも「他の人間はリセットされる」ということだけは確実だと、ずっと信じてきた。
その確実が、今朝、揺れた。
「……そういうことか」
何が「そういうことか」なのかも分からないまま、俺はつぶやいた。何か言わないと、この感覚を処理できない気がした。石段の段数を確認した。一、二、三、四、五、六、七——七段。それは変わっていない。足元だけはいつも通りだった。
「よし」と俺は言った。誰に向けてでもなく、自分に向けて。
「今日も、やるか」
――――――――――
試験の日の朝というのは、どこの世界でも独特の空気がある。
第七試験館の前広場は、夜明けとともに受験者で埋まっていく。その様子は毎回ほとんど同じで、でも百回見ていると細かい違いが目に入るようになる——今日はあの人が少し早く来た、今日は馬車の数が一台少ない、今日は誰かが高い声で笑っている、という細部のずれが、百回分の「いつも通り」という地図の上に浮かぶ。
俺は広場の石段を下りて、大きな木の扉の前に並ぶ人の列に加わった。扉には試験機構の紋章——天秤のような図柄——が彫られている。高さが4メートル近い両開きの扉で、表面は黒に近い茶色に塗られている。塗料が少しだけ剥げている箇所があって、そこから白い石の素地が見える。
試験の説明は試験館の中で行われる。開錠は朝の八時。それまで外で待つ。受験者が列を作って、寒さに肩を縮めながら扉が開くのを待つ——この時間が一番気が重い。
なぜ気が重いのかは自分でも分かる。待っている時間に、嫌でも考えてしまうからだ。今日合格できなかったら何回目になるか、あと何回続ければいいのか、あと何回できるのか——そういう計算は、するだけ無意味なのに、止められない。
だから俺は広場の様子を見ていた。
焼き菓子の屋台が、やはりない。
代わりに、広場の対角線の隅にある石のベンチが見えた。表面がすり減ったベンチ。いつも受験待ちの人間が何人か座っているが、今日はまだ人がいない。ベンチの左脚のあたりに、名前か何かを刻んだ傷がある。何が書いてあるかは読めないくらい古い傷だ。
俺はそのベンチを眺めながら、ベルさんの言葉を頭の中で何度も回した。
「百回目か」。
ベルさん以外に、知っている者がいるかもしれない。
そう思った瞬間、背筋の内側が冷えた。怖い考えだった。でも「怖い」と感じていること自体、久しぶりだった。九十九回死んでから、俺は大抵のことには怖いと感じなくなっていた。また死んでも朝が来る。また失敗しても朝が来る。それが分かっているから、怖くない——はずだった。
でも今の感覚は、確かに怖かった。
知られていたら、という怖さ。俺のループを誰かが見ていたら、という怖さ。俺が「知っている」だけだと思っていたのに、逆に俺が「知られている」としたら——
扉が、重い音を立てて開いた。
――――――――――
試験館の中は薄暗い。
建物全体が石造りで、窓が細くて小さい。昼間でも外の半分も光が入らない。石の廊下に松明型の壁灯が等間隔で立っていて、その炎が揺れるたびに壁の影が微妙に動く。試験の緊張感を増幅させるには申し分ない作りだ、と最初の頃は思っていた。今は単に「暗い建物だ」と思っている。
受付ホールを抜けて待合室に入ると、木製の長椅子が三列並んでいる。座面は固い。試験前に長時間座っていると尻が痛くなるが、それも今は慣れた。
俺は列の先頭から三番目の位置で待合室に入り、三列のうち真ん中の列の、窓に近い端の席に座った。いつもの席だ。窓が近いといっても採光は少ない。でも壁灯の揺れが直接目に入らない角度になるので、ここが一番落ち着く。
部屋の中には既に十人ほどの受験者がいた。それぞれが参考書を開いたり、目を閉じて気を落ち着かせたり、隣の人間とこそこそ話したりしていた。緊張した人間の体温が集まって、室内は石の冷たさにもかかわらず少し温かい。
「あの、初めましてですよね?」
右の扉が開いて、声がした。
俺が顔を向けた。
まず見えたのは、カバンだった——大きな布製のカバン。肩紐が深く食い込んでいて、中身が溢れそうで、ジッパーが少し浮いている。そのカバンを両手で胸に抱えるようにして、栗色のショートカットの女が一歩踏み出してきた。
セナさんだ。
年は俺より二つ下の二十歳。澄んだ榛色の目が、部屋の中を一度見渡してから俺の方で止まった。表情が豊かな顔だ——今この瞬間は「少し不安そう」と「少し安堵した」が混ざっている。俺に声をかけたことで話せる相手を見つけた、という安堵。それが隠せていない。
五十三回目のはじめましてだ、と俺は思った。
今日のセナさんは右の扉から来る。カバンを両手で抱えて、一歩入ってから立ち止まる。部屋を見渡してから、一番近い席ではなく、人が少ない端の席に向かう。でも途中で話しかけられると、その計画を忘れて立ち止まる。知っている。でも——今の俺の「また来ましたね」は、今日の彼女には届かない。
「はじめまして」と俺は答えた。内心はどこも初めましてではないが、彼女の中では今日が初対面だ。
「緊張しますよね。初めての試験ですか?」セナさんが少し前のめりになって聞いてきた。重いカバンを胸に抱えたまま、それでも丁寧に話しかけてくる姿勢は毎回変わらない。
「……いえ」
「あ、何回か受けてるんですか! 私は今日が二回目で——」
「何回か、ですね」と俺は答えた。どのくらい「何回か」かについては言わなかった。言ったところで信じてもらえる話ではないし、言える話でもない。
「そうなんですね。頑張りましょうね」
セナさんが俺の隣の席に腰を下ろした——その瞬間、カバンの肩紐が椅子の背にひっかかった。「あっ」という声とともに、カバンが大きく傾いた。ジッパーが完全に開いて、中から参考書が三冊まとめてばさっと落ちた。さらに一冊目が落ちた衝撃でメモ帳が滑り出して、ついでにペンが二本コロコロと転がった。
「あ! あー!!」
セナさんが慌てて屈んで拾い始めた。俺も椅子から腰を浮かせて手伝った。参考書を一冊拾うと「ありがとうございます」と彼女が言った。メモ帳も拾って渡すと「あ、すみません」と言った。ペンも拾った。「ほんとうにすみません……」。
参考書のタイトルが目に入った。「資格試験・完全対策テキスト 改訂第十二版」。背表紙が既に少し折れている。相当読み込んだ本だ。俺も最初の頃は同じ本を使っていた。今は頭の中に全部入っている——入っているが、それで合格できるかどうかは別の話だ。
「しっかり準備してきたんですね」と俺は言った。
「はい! でも実技が心配で……」セナさんが困り顔でカバンを整理しながら言った。「筆記はなんとかなると思うんですけど」
「大丈夫ですよ」
本当に大丈夫かどうかは分からない。でも、彼女がなんとかやっていける人間だということは、百回分の観察から俺は確信している。
――――――――――
ポム・ダッシュが入ってきたのは、それから十分ほど後だった。
扉が大きな音で開いた。
「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!!」
声が室内に反響した。待合室にいた全員が顔を上げた。
入口に立っていたのは、大きな男だった。大柄で肩幅が広い。短い茶色の髪がうっすら汗で頭に貼り付いていた。丸くて大きな顔、垂れ目気味の目、笑っていなくても笑顔っぽく見える顔——それが今は本当に笑っていた。右手には大きな弁当箱。布巾でしっかり縛られている。
ポムさんだ。
三十歳、毎回同じ扉から同じ声で入ってくる。弁当箱は毎回持っている。今回は何段重ねか、と俺は目を細めた——布巾の厚みから見ると、今日は二段重ねか。
「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」と、ポムさんは今度は俺の方を向いて繰り返した。
「……弁当は持ってきたんですね」と俺は言った。
「持ってきたっすよ! 今日は卵焼き特製で、二段重ねで——」
「いりません」
「えっ、まだ何も言ってないっすよ!!」
俺は既に立ち上がって反対側の椅子に移動していた。立ち上がりながら「いりません」を言うのが一番効率がいい——先に「いりません」を言うと相手の口が止まらず、後で立とうとすると相手がついてくる。移動しながら言うのが正解だ、という経験則を俺は持っている。
「なんで逃げるんっすか!?」ポムさんが声を上げた。「俺の卵焼き、美味いっすよ! 母の特製っすよ!」
「はい」
「食べてみればわかるっすよ!」
「はい」
「……返事だけいいっすね」
「そうですね」
ポムさんが少し傷ついた顔をした。本当に傷ついている顔だ。でもそれが一秒と続かない——次の瞬間には「あなたは?!」と隣のセナさんに弁当箱を差し向けていた。
「え、あ、えっと……」セナさんが面食らって俺を見た。
「食べていいですか?」セナさんが言った。
「もちろんっすよ!!」ポムさんが勢いよく頷いた。蓋を開けた。卵焼きが隙間なく並んでいた。セナさんが一切れ食べた。
「美味しい!」
「でしょ!!」
「あなたも食べてみてください」とセナさんが俺を見た。
「いりません」
「なんでっすか!! セナさんが美味しいって言ってますよ!」
「個人的な理由があります」
「どんな理由っすか!!」
ポムさんが納得したのかしていないのか分からない顔をして——それでも最終的に俺の斜め向かいに座った。弁当箱の蓋を閉めながら「あの、もしかして知り合いですか?」とセナさんが聞いてきた。
「初対面です」と俺とポムさんが同時に答えた。
セナさんが目を丸くした。「……なんでそんなに息が合ってるんですか、初対面なのに」
俺の頭の中では、五十四回、同じやり取りをしたというカウンターが回っていた。
笑えなくはない、と思った。本当に少しだけ、笑えなくもなかった。
――――――――――
ガルド試験官が現れたとき、待合室の空気が一瞬で変わった。
扉が内側から開いた。石の廊下に響く靴音——重心が前気味で、床をしっかり踏みしめる音だ——が近づいてきて、扉の向こうから人が現れた。
白と黒が混じった短髪、立派な四角い口髭。腹が少し出ているが背筋だけは軍人のように真っ直ぐだ。銀縁の四角い眼鏡をかけているが、たまに眼鏡を外して書類を顔に近づけて読む。試験機構の紺色の制服——金ボタンが六つ、袖口に細い金ライン——が、シワひとつなく着られている。ただし、胸の内ポケットだけが何かで微妙に膨らんでいる。
ガルドさんだ。五十二歳、試験会場の主任試験官。俺の中ではそう呼んでいる。
「受験者全員に告げる」とガルドさんが言った。声は太く、よく通る。「受験規則第一条により、今日の試験の流れを説明する。筆記試験、実技試験、口頭試問の三段階。それぞれに合格した者のみ次の段階へ進む資格を持つ」
俺はガルドさんの言葉を半分聞きながら、別のことを考えていた。今日の死因予想だ。
前回の卵焼きを教訓に、食べ物には気をつける。試験中に眠るのも気をつける(七十七回目の失敗だ)。馬車道に飛び出すのも気をつける(複数回やらかした)。石段で滑るのも気をつける。今日のところ特に新しい危険の予感はないが——
「筆記試験においては——用紙を受け取ったら、まず表裏を確認すること」
俺は軽く眉を上げた。
ガルドさんが「表裏の確認」を口にするのは珍しい。いつもは言わない。試験用紙が裏表逆に配布される慣例については、受験者に教えないのが通例のはずだ。なぜ今日は言ったのか。
「——以上だ。質問は?」
誰も手を挙げない。ガルドさんが手元の書類を見た。少し間があった。
「……では始める」
いつも通りの終わり方だった。でも今日は一点、違った。「表裏の確認」という言葉が、いつもない位置に入っていた。
それが何を意味するのかは分からない。でも今日は、もうすでに「いつもと違う」が三つになった。シミの形。屋台の消失。そしてガルドさんの言葉の変化。
もっと多くのことが、今日は動いているのかもしれない。
――――――――――
筆記試験の会場は二階の大きな部屋だった。
石の壁が四方を囲み、天井が高い。窓は小さいが、二階なので外の光が少し多く入る。長机が横一列に並び、受験者が向かい合わせに座らない配置になっている——隣が見えても前が見えない、絶妙に孤立感のある設計だ。
試験用紙が配られた。
俺は用紙を受け取ったその場で向きを確認し、静かに正しい面から書き始めた。
左隣の受験者が「えっ、どっちが表ですか……」と小声で言った。「こちらです」と俺は教えた。右隣からも聞かれた。同じように答えた。三分後には俺の周囲だけ正しい向きで解いているコーナーができていた——毎回この現象が起きる。毎回俺はこうして周囲の受験者を助けている。この試験に、九十九回分の知識と経験を持って挑んでいる人間が、ここにいる。
問題を解きながら、俺は考えた。
ベルさんは「百回目か」と知っていた。試験官のガルドさんが「表裏の確認」という言葉を変えた。屋台がない。シミが変わった。
どれも単独では意味をなさない。でも重なっている。今日は何かが違う。百回目の今日、世界は俺に何かを見せようとしているのか。あるいは——俺が変わったから、違って見えるのか。
百回分の経験が、俺の目を「細部を見る目」に変えてしまったのかもしれない。九十九回は気づかなかったことが、百回目になって見えるようになった——そういうことも、あるかもしれない。
ポムさんが残り五分で用紙をひっくり返す音が聞こえた。毎回のことだ。
筆記試験は通過した。
――――――――――
実技試験の会場は試験館の裏手にある中庭だった。
四方を石の壁に囲まれた、屋根のない空間。上だけが開いていて、朝の空が四角く切り抜かれて見える。石畳の地面に、いくつかのゾーンを分ける線が引かれていた。審査官が各ゾーンに一人ずつ、背もたれのない丸椅子に腰を下ろし、木製のクリップボードを膝の上に置いている。
石の壁に囲まれているせいで、音が独特の響き方をする。受験者が動くとき、衣擦れの音が少し大きく聞こえる。審査官が書類にペンを走らせる音も聞こえる。外の馬車の音や人声が、壁の上から薄く滑り込んでくる。
俺は自分のゾーンに入った。
今日の実技試験の内容は「能力の基礎測定」だ。無資格者でも受験できる試験だから、測るのは「開花した能力」ではなく「潜在的な素地」になる。具体的には特定の課題への反応速度、判断力、審査官が「何か」を感知できるかを見る。
俺の「何か」が何なのかは分からない。九十九回受けても分からない。ただ毎回、ある地点まで来ると「壁」に当たる。物理的な障害ではない。もっと静かな壁——審査官の表情が「ここから先は見ない」という顔になる瞬間がある。その瞬間に、俺の評価はそこで止まる。
今日もその壁を越えられるか分からない。でも今日は、越えることよりも「壁の正体を確認する」ことを目標にしていた。
第一段階の課題をこなした。
第二段階に進んだ。審査官が俺を見ている。俺は指示通りに動いた。課題をこなした。こなした。こなした——
来た。
審査官の目が変わった瞬間が分かった。「見ている」目が「見ていない」目に切り替わる。まるで電灯のスイッチを切るように、一瞬で変わる。今日はその切り替わりの、手前のひとつを観察していた。切り替わる直前——審査官の視線が俺の手元から「俺の全体」へ移る瞬間がある。その瞬間に何かの判断が起きている。
「次の方」と審査官が言った。
俺は退いた。今日も越えられなかった。でも「壁」の構造が、一ミリだけ見えた気がした。
グループAに戻る途中で、銀髪の受験者と目が合った。
壁際に立っていた男だ。背が高く、細身で、白を基調にした服を着ている。整然と横に流れる銀色の髪。薄い灰色の目——人を観察する目。制服の胸ポケットに、青い縁のカードが入っている。
視線が合って、俺は一瞬止まった。
この人物は知らない。九十九回分のループの中に、この顔は一度もなかった。今日が初登場だ。
向こうも俺を見ていた。数秒、目が合ったまま、どちらも動かなかった。それから銀髪の男が視線を外した。音もなく外した。俺を見ていたはずの目が、次の瞬間には部屋の別の場所を見ていた——まるで最初から俺を見ていなかったかのように。
新しい変数が増えた。
それだけは確かだった。
――――――――――
廊下での待機時間。俺はポムさんの隣に立っていた。
「さっきの人、なんかかっこいいっすね」とポムさんが小声で言った。「あの銀色の髪の人」
「そうですね」
「なんか目が怖いっすよ。こっちを見てないのに全部見てるっすよ」
「そうですね」
「あなた、さっき目が合ってましたよね?」
「そうですね」
「……そうですね以外のことも言えるっすか?」
「はい」
「それも短いっすよ!!」
俺が時計代わりに視線を持ち上げた。ガルドさんが廊下の向こうから歩いてきている。歩幅が大きい。いつものペースより少し速い。
来る。
鼻の頭が赤くなっていた。
「ちょっと待って」と俺はポムさんに言いながら、ポケットから折り畳み傘を取り出した。
「え? なんで傘を……屋内ですよ?」
「少し待ってください」
「いや、なんで——」
「あ……あ……あっ……」
ガルドさんの頭が少し下がった。目が細くなった。上唇がわずかにめくれた。両腕が上体の動きに合わせて少し持ち上がった。全身で爆発する一瞬前の姿勢。
「待ってください」と俺が繰り返した。
「何を——」
炸裂した。
ガルドさんのくしゃみは、屋内で聞くには威力があった。廊下の両壁が圧力を増幅した。俺の傘の布面に何かが当たる感触があった。
数秒の沈黙。
「……ぶっさかったっすよ!!」ポムさんが叫んだ。「なんで!? なんで傘を持ってたっすか!! なんでこれを防げるんっすか!!」
「なんとなく」
「なんとなくで防げるやつじゃないっすよこれは!! 俺を見てください俺を!!」
ポムさんの橙色の服の右袖に、確かに被害の跡があった。向かい側の壁際に立っていた受験者数人も、顔や服に衝撃を受けていた。
「……失礼」とガルドさんは言った。表情を変えずに、なかったことのように廊下を歩き続けた。
俺の傘だけが、廊下の中で唯一の安全地帯だった。セナさんが遠くから「……どうやって分かったんですか」という顔でこちらを見ていた。「なんとなく」という言葉では説明できない九十九回分の蓄積が、今日もポムさんへの被害防止に貢献した。
――――――――――
口頭試問の列に並ぶことは、今日もなかった。実技で評価が止まったから、その段階で今日の試験は終わりだ。
試験場を出ながら、俺は今日のことを頭の中で整理した。
ベルさんの「百回目か」。屋台の消失。シミの変化。ガルドさんの説明の変化。銀髪の受験者の登場。
五つの「いつもと違う」が、今日一日で積み重なった。百回のループの中で、一日にこれだけ「いつもと違う」が集まったことは、記憶にある限りなかった。一日に一つが普通で、二つあれば「今日はズレが多い」と感じていた。
五つは——異常だ。
でも、だから何だということは、まだ分からない。
広場を歩いていると、後ろから足音がついてきた。
「お疲れ様でした」
セナさんだ。今日も同じタイミングで声をかけてくる。カバンが揺れている。重すぎる参考書の重みで、歩くたびに右肩が少し下がる。
「私も今日はダメでした」と彼女が言った。苦笑いしていた。苦笑いでも、表情が豊かだから嘘くさくない。本当に悔しくて、でも落ち込みすぎないよう自分に言い聞かせているような顔だ。
「そうですか」
「また次回、頑張りましょうね」
「……そうですね」
彼女はそう言って、馬車の乗り場の方向に歩いていった。石畳の継ぎ目で一度足元を見てから、また前を向く。カバンが揺れる。
俺はその背中を見ながら思った。
今日の彼女は、明日の彼女には届かない。次の試験日、またセナさんが右の扉から入ってきて、俺に声をかけてくれたとしても、それは今日の俺への声じゃない。今日カバンが落ちたことも、卵焼きの話をした時間も、俺の傘に驚いた顔も——次のセナさんには、何もない。
百回。
百回分の「また初めまして」が、俺の中には積み上がっている。彼女の中には一回分しかない。この非対称さが、慣れていないわけじゃない。でも、慣れていても——
笑えるようになったのは五十回目あたりからだ。
笑えるようになっても、消えないものが、ある。
――――――――――
帰り道、俺は試験館の前で足を止めて、石段を振り返った。
七段の石段。今朝の俺が三段目に横になっていた場所。七段全部の表面を、夕暮れの光が斜めに照らしていた。長くなった影が石段の凹凸を強調して、踏み段の端がくっきりと見えた。
今日、この石段は「百回目か」という言葉の出発点になった。
ベルさんはなぜ知っていたのか。どうやって知ったのか。毎回リセットされるはずの彼が、なぜ俺の回数を知っていたのか。
分からない。
分からないことが、久しぶりに怖かった。九十九回で俺は「分からないことへの恐怖」を消していた——どうせ死んでも朝が来る、という確信が、恐怖の根を断ち切っていた。でも今日の怖さは、その確信の向こうから来ていた。
「俺は見ている」と思っていた。でも「俺も見られているかもしれない」とは思っていなかった。
石段の向こう、試験館の大きな木の扉が閉まっていた。天秤の紋章が夕暮れの橙色の光を受けて、影になっていた。
俺はその扉を見ながら、ベルさん以外にも「知っている者」がいるかもしれない、と思った。試験機構の内側に。受験者の中に。あるいはもっと遠いところに——。
「帰るか」と俺はつぶやいた。
外縁区の灰の袋小路まで、歩いて一時間かかる。母が待っている。資格を取れば、もう少しまともな場所に住める——そのために、俺は百回、ここに来た。百回来て、百回越えられなかった壁がある。
石段を下りた。試験場の前の石畳の道に出た。石畳の継ぎ目が少し浮いている場所がある。
ここは毎回気をつけている——のに、今日は気がついたら足がその場所の上にいた。考え事をしていた。いつもは意識して避けるのに、今日は頭が違うところにあった。
左の靴の底が、浮いた石畳の端に触れた。
バランスが崩れた。
「あ」
声が出た。
身体が傾いた。手が空を掴んで、でも何もなかった。石畳が迫ってきた——こういうとき、落ちるまでの時間が不思議なほど長く感じる。頭が打ち付けられる前の一瞬で、俺はいくつかのことを考えた。
百回目か、とベルさんが言った。
百回目と知っている誰かが、この世界にいる。
ベルさん以外にも——いるかもしれない。
なぜ俺はここに閉じ込められているのか。
答えてくれ——
頭が石畳に当たった。意識が、消えた。
――――――――――
また、朝だ。
石の冷たさが背中から這い上がってくる。脊椎を一本ずつ起こしていく。最初に仙骨のあたりが冷えて、次に腰椎で、胸椎で、首で——後頭部がじんわりと冷たくなって。
俺は目を開けた。
灰色の空。藍色がまだ少し残っている夜明け前の空。遠くの建物のシルエット。そしてどこかで鳥が一声だけ鳴いた。
七段の石段の三段目。
百一回目の朝が来た。




