勇者サイド第4話 忘却の楔と、四人目の影
クラウスを加えた勇者一行に、ヴァレリウスから緊急の密命が下ります。
その夜、教皇庁の暗い回廊をひとり歩くクラウスが呟いた言葉は——。
ルークは、この男を見ていた。
猫背。
気怠い声。
干し肉の脂で汚れた指先。
どこからどう見ても、ただのだらしない中年男にしか見えない。
でも——。
ルークの勇者としての直感が、かすかに鳴った。
杖の握り方。
歩く時の重心の位置。
視線の動き。
ほんの一瞬、干し肉を噛みながら会議室に入ってきた時に、部屋の全員の位置と出入り口を一瞬で確認した目の動き。
この男は——弱くない。
「ヴァレリウス様。この方が、本当に」
「ええ。アルケインの筆頭賢者メルクリウスの推薦です。かつて大陸最強と謳われた魔導師の一人——だった方ですよ。もっとも、今は半ば隠居の身だそうですが」
「大陸最強ってのは盛りすぎだって。おじさん、もうね、腰が限界なんだわ。魔導の前に腰痛をどうにかしてほしい」
クラウスが腰をさすりながら呻く。
ガルドが小声でルークに囁いた。
「おい、大丈夫かこのおっさん。戦力になるのか?」
「……分からない。だが、油断はするな」
「あっ、聞こえてるよぉ。おじさん、耳だけは良いんだわ。
——なぁルーク君、そんな怖い顔すんなって。
おじさんは敵じゃないからさ。
足手まといにもならないよう頑張るから、さ。仲良くしようぜ?」
クラウスが手を差し出した。
脂で少しべたつく手。
ルークは一瞬だけ迷って、その手を握った。
「……よろしくお願いします、クラウスさん」
「堅いなぁ。クラウスでいいよ。おじさんって呼んでもいいし」
ヴァレリウスが、声のトーンを落とした。
「それと——これは、まだ正式な報告が上がる前の話なのですが」
笑みが消えた。
この男が笑顔を消すのは珍しい。
「北方の琥珀氷の村の近辺で、特異点に酷似した現象が観測されています。蒼滝の件とほぼ同時期に。……こちらも、同一の術者による干渉の可能性がある」
「二箇所ほぼ同時期に……?」
「ええ。まだ枢機卿会議にも正式には諮っていません。ですが、もし同一人物であれば——その移動経路から正体を絞り込めるかもしれない。勇者殿には、内密に、明日にでも北方へ向かっていただきたい」
ルークは頷いた。
「了解しました。——クラウス。明日の朝、北門に集合です」
「おっ、北か。寒いのかな。おじさん冷え性なんだよなぁ……。ねぇルーク君、出発前にどっかで腹巻き買えない?」
ルークは額を押さえた。
セシリアが呆れたようにため息をつく。
「……この方と一緒に、本当に極秘任務ができるのかしら」
「大丈夫大丈夫。おじさん、口は堅いよ。……干し肉みたいにね」
「その例え、全然安心できないわ」
ガルドが吹き出した。
ルークも、つい口元が緩んだ。
不思議な男だ。
得体が知れないのに、一緒にいると空気が軽くなる。
まるで、ずっと前から知っている誰かのような気安さがある。
——あの「左後ろの空白」と、似た温度の。
ルークはその考えを振り払い、席を立った。
「明日は早い。今夜はしっかり休みましょう」
その夜。
三人が宿の部屋に引き上げた後、教皇庁の回廊を一人で歩く男がいた。
クラウスだった。
猫背は、少しだけ伸びていた。
昼間のだらしない足取りは消え、杖を持つ手にも無駄がない。
色眼鏡の奥の瞳が、薄暗い回廊のステンドグラスの光を映している。
左の瞳が——ほんの一瞬、不自然な色に光ったが、すぐに消えた。
壁に彫られた聖典の一節を、立ち止まって読んでいた。
「神は人の子を愛し、迷える魂に道を示す」。
クラウスは、鼻で笑った。
「……愛ねぇ。道を示すねぇ」
誰もいない回廊に、低い独り言が落ちる。
「おじさんさぁ、ずーっと長いことその『愛』に付き合わされてんだけど。いい加減もうちょっとマシな脚本にしてくんない?」
色眼鏡を指で押し上げた。
左目が——ほんの一瞬、色眼鏡の奥で不自然に光ったが、暗がりに紛れてすぐに消えた。
さっき握手した若い勇者の手のひらから、この男は何かを読み取っていた。
ルークの「弱点」は、物理的なものではなかった。
心に巣食う欠落。
左後ろの空白。
名前のない喪失感。——あれは、呪いでも病でもない。
記憶に打ち込まれた楔が、少しずつ抜けかけている。
思い出してはいけない名前が、ルークの意識の底で何度も浮かび上がっては消えている。
セシリアもだ。
あの聖女は感知能力が高すぎる。
蒼滝の森で、あの泉に触れた時。
術式の「筆致」に覚えがある、と言いかけた。
あと一歩で思い出すところだった。
「……危なかったねぇ。あのお姫さん、勘が良すぎるんだよ」
クラウスが首の後ろを掻いた。
「あのぼっちゃん(ルーク)、もう限界近いぞ。記憶の楔が薄くなってきてやがる」
独り言だった。
返事を期待してはいない。
でも——。
「おじさんが来たからにはさぁ。もうちょっとだけ、持たせてやるよ。……頼まれてんだ。仕事だからな」
誰に頼まれたのかは、言わなかった。
クラウスは杖を肩に担ぎ、暗い回廊を歩いていった。
足音は、やがて闇に溶けて消えた。
回廊に残ったのは、干し肉のかすかな匂いと、色眼鏡のレンズに映った聖典の文字だけだった。
翌朝。
秋晴れの空の下、北門に四つの影が集まった。
「いやぁ〜寒い! おじさん、もう帰りたい!」
「まだ門を出たばっかりだろうが」
「だってガルド君、おじさん冷え性って言ったじゃん。あっ、腹巻き買い忘れた。ねぇルーク君、ちょっと戻ってもいい?」
「駄目です」
「えーっ」
セシリアがため息をついた。
「……本当にこの人、大陸最強だったの?」
「おじさんの全盛期はねぇ、そりゃあもう凄かったんだよ。今はほら、引退してるし。腰もアレだし」
クラウスがへらへら笑いながら、四人の最後尾をのんびり歩いている。
ガルドが荷物を担ぎ、ルークが先頭を歩き、セシリアが地図を広げ、クラウスが後ろから干し肉を齧る。
四人。
四人の影が、秋の街道に並んでいた。
ルークは——今日は、一度も振り返らなかった。
左後ろの空白に、誰かがいる。
努力しても、いない。
でも今は本当にいる。
干し肉を齧るおじさんが。
それだけのことなのに、なぜか足取りが少しだけ軽くなった気がした。
ルーク、セシリア、ガルド、そしてクラウス。
彼らの旅は、ここから本格的に始まります。
琥珀氷の村で待っているのは、「白髪の恩人」の痕跡——。
その正体を、彼らはまだ知りません。
本編ではノアの視点で語られた「あの出来事」が、勇者たちの目にはどう映るのか。
答え合わせを楽しみにお待ちください。




