太陽を起こす指先
結い——解き。
圧縮された八十一本の炎が、怪物の胸の奥で弾ける。
一重目が解ける。二重目が弾ける。三重目——
そして、一年間飢え続けた太陽の仔の前に、世界で一番濃い焔が現れた。
「シオン。ウェンディゴの口——冷気のブレスの吐き出し口の座標を」
「正面、距離十一メートル。顎を開いた状態。——今もフィールドの吸引力が最も強いのはあの口腔部よ。放り込むなら、そこが一番確実」
「了解」
右手を、持ち上げる。
指先で挟んだ小さな結び目が——脈動している。
とくん。
とくん。
とくん。
小さな心臓みたいに。
生まれたがっているみたいに。
もう少しだけ待って。
あと少しだけ——。
「——いきます」
右手を振りかぶる——のではなく。
人差し指を、静かに弾いた。
リンッ。
鈴の音が、一つ。
凍てつく塔の最上階に、澄み切った音色が響き渡る。
小指の爪ほどの結び目が——指先を離れた。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
焔の一粒が宙を渡っていく。
音はない。
光すら、ほとんどない。
あまりに圧縮されすぎた炎は、もう燃えていない。
燃えることすら許されないほどの密度で、自分自身を押し込められた熱の塊。
それは——吸い込まれていった。
ウェンディゴの吸熱フィールドが、新しい熱源を感知する。
怪物の口腔が——結び目に向かって、吸引力を加速させる。
当然だ。
これだけの熱量だ。
見逃すはずがない。
「——喰いついたわ!」
シオンが叫ぶ。
ウェンディゴの顎が、大きく開いた。
琥珀氷の牙の奥に広がる底なしの冷気の渦が——小さな結び目を、丸呑みにする。
飲み込まれた。
瞬間——。
塔が、揺れた。
「ノア! あいつの体内の糸が——暴れてる! 吸い込んだ炎を消化しようとしてるけど——追いつかない! 密度が高すぎて、体内の回路が焼けてる!!」
想定通りだ。
あの結び目の中には、八十一本分の炎が折り畳まれている。
見かけの大きさは小指の爪ほどでも、展開したら——この塔の最上階を丸ごと埋め尽くす量の炎が詰まっている。
怪物の吸熱回路では、処理しきれない。
「呑み込んだ炎が、体内を走ってる——胸部に向かってるわ! 回路が炎を一番冷たい場所に逃がそうとしてる——」
「一番冷たい場所」
「——氷の檻!!」
届いた。
「シオン。今です」
「ノア——!」
「結い——解き」
僕は——結び目を、解いた。
正確には、十メートル先の、怪物の体内にある結び目に——指先から「解きの振動」を送り込んだ。
糸は繋がっている。
僕が結んだ糸は、どこにあっても——僕の指が届く。
圧縮を、解放する。
何重にも折り畳まれた結び目が——一つずつ、内側から弾ける。
一重目が解ける。
二重目が弾ける。
三重目——四重目——五重目——。
結び目が解けるたびに、炎の糸が膨張する。
八十一本の炎が、一気に、本来の大きさに戻ろうとする。
怪物の体内で。
——太陽の仔の、目の前で。
「——ギャアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
ウェンディゴが——咆哮した。
氷の肋骨の隙間から、琥珀色の——いや、もう白金色の光が噴き出す。
塔全体が震える。
天蓋の石が剥がれ落ちる。
怪物の体が——内側から、膨れ上がる。
吸熱フィールドが、消えた。
一瞬で。
あれだけ僕たちを苦しめていた極寒が——嘘のように消失する。
代わりに——熱が来る。
怪物の胸の奥から、途方もない規模の熱が溢れ出してくる。
「ノア——ッ!! あの仔が——あの仔が、炎を——!」
シオンの声が裏返った。
僕にも分かる。
感じる。
怪物の胸の奥で——何かが、目を覚まそうとしている。
何かが——。
僕が送り込んだ八十一本の炎を——。
喰べている。
むしゃむしゃと。
がつがつと。
一年間飢え続けた、小さな太陽が——世界で一番濃い焔に、齧りついている。
『——あったかい』
声が聞こえた。
あの声。
あの——震えていた、小さな声。
『あったかい、あったかい、あったかいよ——!』
歓喜だった。
怪物の骨の檻の奥から——純粋な、燃えるような歓喜が溢れていた。
氷の檻に亀裂が走る。
ぱきり。
ぱきぱきぱきぱきっ——!
琥珀色の氷が——内側から、白金の光に押し割られていく。
僕は見えない。
でも——肌で分かる。
理の糸が、歌っている。
凍りついて沈黙していたはずの糸が、一本ずつ、震え始める。
熱を取り戻した糸が——歌のような振動で、空間を揺らしている。
温かい。
温かい風が、僕の頬を撫でていく。
吸熱フィールドの中で凍えていたこの体に——じんわりと、血が戻ってくる。
指先に、感覚が蘇る。
「——ッ! ノア、見て……見えないけど、聞いて! あの仔の周りの氷の檻が——」
割れた。
塔全体を揺るがす轟音とともに——ウェンディゴの胸の中心が、白金の光で爆ぜた。
骨の肋骨が吹き飛ぶ。
氷の破片が四散する。
そして——。
その中から。
光の塊が、こぼれ落ちた。
小さな。
本当に、小さな。
白金色の毛並みを持つ——仔狼が。
ぽとり、と。
ウェンディゴの割れた胸の中から、塔の床の上に転がり落ちた。
「ノア——」
シオンの声が震えた。
怒りでも恐怖でもない。
「——あの仔、目を開けたわ」
僕の足元で、小さな命が、息をしている。
温かい吐息が、僕の靴の先を、ふわりと温めた。
お読みいただきありがとうございます!
『あったかい、あったかい、あったかいよ——!』
一年間「さむい」と泣き続けていた声が、初めて「あったかい」と笑いました。 書きながら泣きそうになったシーンです。
白金の仔狼が、ノアの足元に転がり落ちた——。 次回、太陽の仔に名前が与えられます。
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