戦略級魔術【恒星圧縮(コロナ・コラプス)】
八十一本の炎の糸が、たった一粒の結び目に閉じ込められた。
指先に——星がある。
ウェンディゴの吸熱フィールドと拮抗する、小指の爪ほどの焔。 それを——怪物に喰わせる。
「二十本目——」
シオンの座標が続く。
僕の指が、止まらない。
感覚はもうほとんどない。
指先に残っているのは、糸の手触りと、結び目の温もりだけ。
二十本の糸が一つになった結び目を——折り畳む。
結び目そのものを、もう一度結ぶ。
ぎちっ。
音が変わった。
さっきまでの柔らかい「きゅっ」ではなく、金属の歯車が噛み合うような、硬い音。
圧縮が、一段階深まった合図。
「ノア……指先が光ってる」
「見えませんけど、分かります。熱いですから」
凍えていた指先が——結び目に触れている部分だけ、じんじんと灼けるように熱い。
矛盾している。
体は極寒の吸熱フィールドの中で凍え続けているのに、指先だけが——小さな太陽を握り締めているみたいに、燃えている。
「三十本目。——残り五十一本」
「ありがとうございます。——まだ足りない」
三十本分の結び目を、さらに折り畳む。
ぎちぎちぎちっ——。
糸が悲鳴を上げている。
これ以上は結べないと、素材そのものが抵抗する。
普通は、ここが限界だ。
炎の糸には本来の「密度の上限」がある。
それを超えて圧縮すれば、糸そのものが崩壊して爆発する。
——でも。
僕の指は、崩壊しない。
理由は分からないけれど、昔からそうだった。
他の誰にも触れない糸に触れ、他の誰にも結べない結び目を結ぶ。
ルークに「お前の指はバグだ」と笑われた、この指。
崩壊の寸前——ほどけかける糸を、さらに内側にたくし込んで——。
結ぶ。
ぎちりっ。
密度が、跳ね上がった。
「四十本目——」
「五十本——」
シオンの声が、少しずつ上擦っていく。
「ノア、あなたの指先にある結び目——もう普通の火じゃないわ。あの糸の密度、私の眼で正確に測れなくなってきてる」
「もう少し」
「六十本目——座標、九時方角、距離八メートル——遠いわ、吸熱フィールドの端ギリギリ!」
遠い糸を引く。
指先に力を込めると、距離八メートル先の炎の糸が——ぴん、と反応する。
引く。
手繰る。
氷の空気を横切って、糸が僕の指先まで走ってくる。
重ねて、巻いて、折り畳んで——。
結ぶ。
ぎちっ。
結び目が——震えた。
指先の中で、小さな球体が脈動している。
心臓みたいに。
生きているみたいに。
「七十本——残り十一本!」
「全部、ください」
「七時・三メートル、一時・五メートル、真下・零距離——」
一本。
結ぶ。
一本。
結ぶ。
一本——。
もう指の感覚がない。
動いているのか動いていないのかすら分からない。
ただ——糸の手触りだけが、僕の世界の全てになっている。
七十八。
七十九。
八十。
「——最後の一本。ノアの真正面、距離十メートル。ウェンディゴの顎の下。酷く弱い。消えかけてる」
最後の一本が、十メートル先。
怪物のすぐ傍。
吸熱フィールドの最も濃い場所で、風前の灯火のように揺れている。
あと数秒で消える。
——届け。
右手の人差し指を、真っ直ぐに伸ばす。
指先から、意志の糸を飛ばす。
十メートル。
凍った空気の壁を貫いて——僕の指が、最後の炎に触れた。
掴む。
引く。
一瞬の抵抗——それから、糸が手元に走ってくる。
八十一本目。
最後の炎の糸を、結び目に重ねる。
巻きつける。
折り畳む。
そして——。
「——結い」
両手の感覚が消えた。
指先に残っていた最後の力を、全部この一結びに注ぎ込む。
ぎちぎちぎちぎちぎちっ————。
悲鳴にも似た音が、指の骨の中を走った。
八十一本の炎の糸が、一つの結び目に。
結び目が、折り畳まれて。
折り畳みが、さらに折り畳まれて。
何重にも、何重にも、何重にも——。
限界を超えて。
限界の向こう側を、さらに超えて。
世界が許容する密度の壁を、僕の指がこじ開けて——。
最後の最後に。
きゅっ、と。
小さな鈴の音とともに——結び目が、閉じた。
リンッ——。
指先に——星がある。
そうとしか、表現できない。
見えないけれど、分かる。
僕の右手の人差し指と親指の間に挟まれた、小指の爪ほどの結び目。
その中に閉じ込められた熱量は——
「……ノア」
シオンの声が、初めて聞くほど掠れていた。
「なに、それ」
「炎の球、です。八十一本分の」
「嘘よ……あの弱々しい炎が、こんな……指先に太陽を握ってるみたいな密度になるなんて……」
シオンの声には恐怖が混じっていた。
僕自身も、正直、少し驚いている。
指先の球体が——脈動するたびに、吸熱フィールドの冷気が揺れる。
怪物の力場と、僕の結び目の熱が、拮抗している。
あの巨体のウェンディゴが生み出す吸熱フィールドと——たった一粒の結び目が、同じ重さで空間を押し合っている。
「……名前、何て言ったっけ」
「恒星圧縮」
「大層な名前ね。——で、それをどうするの」
「喰わせます」
「……は?」
「ウェンディゴに。このまま正面から、放り込みます」
シオンが、僕の肩の上で固まったのが分かった。
「あいつは今、周囲の熱を際限なく吸い込んでるんでしょう?」
「ええ——だから避けられないってこと?」
「はい。避ける必要がないんです。あの怪物の方から、勝手に吸い込んでくれますから」
吸熱フィールドという名の、大きく開いた口。
そこに——太陽の密度を持つ一粒を、放り込む。
怪物は抵抗できない。
だって、「熱を吸い込む」のは怪物自身の本能だから。
毒だと分かっていても——吸わずにはいられない。
「吸い込んだ熱は、あいつの体内の回路を通って——一番冷たい場所に集まる」
「一番冷たい場所……」
「氷の檻。太陽の仔が、眠っている場所です」
シオンが、小さく息を漏らした。
分かったのだろう。
僕の狙いが。
「炎の結び目が檻に届いた瞬間——圧縮を、解く。八十一本分の炎が、一気に解放される」
「——それで、檻が溶ける」
「檻だけじゃありません」
僕は、笑う。
「解放された炎を——太陽の仔が、喰います」
あの子は太陽の神獣だ。
炎は、あの子のご飯。
一年間、怪物に熱を奪われ続けて飢え続けていた、太陽の仔。
その前に——八十一本分の、凝縮された炎の塊が現れたら。
「お腹を空かせた太陽が、世界で一番濃い焔を腹一杯に喰らう」
「そうしたら——」
「怪物の中で、太陽が目を覚ます」
シオンが——息を、呑んだ。
「……あなた、本当にとんでもないことを考えるわね」
「褒め言葉ですね」
「違うわよ。——でも」
肩の上で、シオンの体から震えが消えた。
「やりなさい」
お読みいただきありがとうございます!
「避ける必要がないんです。あの怪物の方から、勝手に吸い込んでくれますから」
毒と分かっていても、吸わずにはいられない。 吸熱フィールドが今度はノアの武器に変わります。
そして「やりなさい」と背中を押すシオンの一言。 この二人の信頼が、最高に好きです。
次回、怪物の体内で恒星が解放され——太陽の仔が、目を覚まします。
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