9 兄夫婦
「ミイラ…」
美佐子はぼそりと呟いて、自分の手のひらを見つめた。それに気づいた佐伯が耳元でそっと囁いてその耳を真っ赤に染めた。
「美佐はミイラなんかじゃないよ。柔らかであったかい」
そんな様子を眺めながら、柳瀬はふと思い立って再び棚の前に進んだ。そして、一枚のはがきを見つけ出した。
「もう何年も前のはがきだが、カズが寄こしてきたものだ。ちょうど私が体を壊して入院している時で、返事も返せないままだった。今もここにいるかどうかは分からないが、持って行ってくれて構わないよ」
はがきを受け取っても困惑気味の美佐子に、柳瀬は再び声を掛けた。
「月ヶ瀬さん。どういうわけで今ここにこんな姿で存在しているのかは分からないが、君には寄り添ってくれる人がいる。過去にこだわらず、今を生きるんだよ。ずっと気になっていたんだ。今日は元気な姿を見ることができて嬉しかったよ」
美佐子と佐伯は、何度も礼を言いながら、山道を帰っていった。新たに分かったことも多く、慣れない山道を歩いたこともあって、美佐子は電車の中では佐伯の肩に寄りかかって眠ってしまった。
柳瀬の話を聞いたからか、昔の夢を見た。大学に入ってから出来た友人3人とは、いつも一緒だった。入学前から彼氏のいた子と、入学してすぐに彼氏が出来た子。みんないい子だったけど、彼氏のいない真理子と美佐子は特に仲良しだった。そんな真理子から、彼氏が出来たと言われた時、急に仲間と逸れてしまうような不安が押し寄せた。そんな時、紹介されたのが“カズ”だった。ナンパな男の子と違って、優しい言葉を掛けてくれるわけではなかったけれど、それでも、登下校は声を掛け合って一緒に居られた。それだけで充分だったのだ。
そんな”カズ“は秘境の文化に興味を持っていて、聞いたことの無いような場所に出かけていくことも多く、結局一人日本に取り残されるのは日常茶飯事だ。何とか約束を取り付けても、一時間ぐらい遅れてきても「遅れてごめん」の一言だけで、気にする様子もない。そんな”カズ“から一緒に出掛けようと言われた時は、行先も聞かずに頷いたのだ。そしてあの日、何かを見つけて飛び出して行った”カズ“に置いてけぼりを食らって待っていると、大きな蛇に出くわして、怖くて悲鳴も上げられないまま立ち尽くしていたら、後ろからだれかにお腹を掬い上げられたのだ。そのまま滝に落ちていくのを後ろ向きに感じながら、恐怖のあまり気を失ってしまったのだ。
「美佐。大丈夫か?」
不意に肩を揺すられ目を覚ますと、周りには仕事帰りの人々のざわめきと電車の音が聞こえるだけだ。
「私、夢を見てたみたい」
「そうか、疲れが出たんだろう。もうすぐ駅だ」
二人はいつもの駅に降り立ち、商店街を歩きだした。
「あれ、珍しいね。二人そろってお出かけかい?」
「ああ、デートだ。いいだろう」
珍しく冗談を言う佐伯に、山田もケラケラと笑っている。
「アンタ、こっちの氷、さっさと片付けてよ! あら、美佐ちゃんじゃない。お出かけだったの? ちょうどいいわ。鰆の西京漬け、いい具合に漬かってるから持って帰って」
「いいんですか? じゃあ、今晩のおかずにします。ありがとう」
佐伯と美佐子は顔を見合わせて笑った。そんな二人を山田夫婦も微笑まし気に見送っていた。こんなやり取りがあると、ちゃんと現代に戻って来れたような気がして、美佐子はほっと胸をなでおろす。
夕食を食べながら、美佐子はある違和感に気が付いた。碧がどこかぼんやりしているのだ。
「碧さん? どうされました?」
「え…、どちら様? お父さん、こちらの方は?」
碧は佐伯にすがるように問いただす。美佐子と佐伯は思わず顔を見合わせた。
「おい、大丈夫か? 俺は親父じゃなくて海斗だよ。こいつは美佐子。どうしたんだよ」
「美佐子…さん。あの、私は追い出されるってことなの?」
美佐子は驚いて、泣きそうに顔をゆがめる碧に寄り添った。
「違います! 私がお邪魔しているんです。碧さんが、一緒に住もうって言ってくださったので、甘えさせていただいているんです」
美佐子の言葉を聞いても、不安げに佐伯の表情を伺う碧だった。その夜は、佐伯が碧の寝室に付き合って寝かしつけた。
翌日、碧を佐伯に任せて、美佐子は店に出勤していった。あんなに仲良くなっていたのにと、ショックはあったが、仕方がない。夕方には店に佐伯もやってきた。
「兄貴と相談して、施設を探している。義姉さんがそれまで面倒を見てくれるらしいから、おふくろを預けて来た」
「碧さんの病状はどうなの?」
「ん、今まで気が付かなかったけど、認知症だったそうだ」
「そんな…ついこの前までそんなことちっとも思わなかったのに…」
佐伯は沈痛な面持ちで心情を吐き出した。
「おふくろは、明るい人だから、ちょっとしたドジは今までからいくらでもしていたし、物忘れをしていても、深刻に悩んだりするタイプじゃなかったからな。その明るさに甘えていたんだ。兄貴が結婚して、俺は店に入り浸り状態だし、親父がなくなってから一人になって、どんな暮らしをしてたかなんて、考えもしなかった」
美佐子には、佐伯の背中にそっと手を置いて励ますことしかできなかった。
碧が施設に入ってしばらくした頃、佐伯と美佐子は店の休日を使って碧に面会に行った。
「お父さん、おかえりなさい」
佐伯を見て、嬉しそうに声を掛ける碧は、佐伯を自分の夫だとすっかり勘違いしている様だ。そして、美佐子を見るなり、顔を曇らせて声を荒げた。
「またこんな女の人を連れてきて! 貴方、私の旦那様に手を出さないでちょうだい」
「おふくろ、美佐子だよ。仲良く暮らしてたじゃないか」
佐伯が説得しても、碧の耳には入らない。様子を見ていた介護職員の女性が、そっと美佐子を部屋の外へと連れ出した。
「気を悪くしないでくださいね。佐伯さんは、息子さんの事をご主人だと思い込んでいるみたいです。もしかしたら、過去に似たようなことがあったのかもしれませんね。しばらくこちらの部屋でお待ちいただけますか?」
「分かりました」
職員は、申し訳なさそうにそう言うと、再び碧の部屋に戻っていった。
―まだ70代半ばなのに、初めて会った時は、そんな風じゃなかったのに…―
美佐子は暖かく迎えてくれたあの日の碧を想うと、やるせない気持ちになった。部屋で一人待っていると、壁にたくさんの作品が飾られているのに気が付いた。この施設に入っている人の物だろうか。見事はちぎり絵や編みぐるみ、美しい風景画などが所狭しと飾られている。そんな中に、見覚えのある風景画を見つけて、思わず歩み寄った。それは、幼い頃自宅のベランダから見ていた風景だ。中学に上がる頃には、目の前に大きなマンションが建設されて見えなくなった海。そっと絵に手を伸ばした時、職員が入ってきた。
「ああ、その絵は月ヶ瀬さんの作品ですね。もう亡くなって5年ぐらい経つでしょうか。あまりにもお上手なので、飾らせていただいているんです」
「月ヶ瀬…?」
「ええ、お知り合いでしたか? ご夫婦で入所されていて、とても仲の良いご夫婦でした。ご主人がこれを描かれて、奥様は毎日せっせと千羽鶴を折っておられました。なんでもお嬢さんが事故で行方不明だとかで…。あの、どうされました?」
絵を見ながら説明していた職員は、急に蹲って泣き始めた美佐子に面食らった。
「す、すみません。このお二人には、とてもお世話になっていたのに、連絡がとれなくなっていて…。晩年は苦労されていませんでしたか?」
「えっ、そうだったんですね。そ、そうですねぇ。息子さんのご家族がよく面会に来られていましたから、穏やかに過ごされていましたよ」
涙をぬぐって話を聞いていると、佐伯が顔を出した。職員は「それでは」と仕事に戻っていった。
「どうした? 何かあったのか?」
美佐子は先ほど聞いた風景画にまつわる話をして、微笑んだ。
「やっと、たどり着けた。きっと碧さんのお陰ね」
「そっか、よかったな」
二人で風景画を眺めていると、碧の部屋から叫び声が聞こえて来た。
「助けてー! 鬼ババがきたー!」
二人が慌てて部屋に戻ると佐伯の兄、理久夫婦が面会に来ていた。碧は理久の嫁の萌絵を大層怖がって体をよじって助けを呼んでいる。とりなそうとする理久の声などまるで耳に入らないようだ。
「碧さん、落ち着いてください。大丈夫ですよ」
佐伯が兄夫婦を別室に呼んでいる間に美佐子が碧の手を取って背中を撫でてやった。佐伯がいないと、先ほどの攻撃的な態度は見えず、すがるように美佐子にしがみ付いている。
「怖いよぉ。何をやっても怒ってくるんだもん」
「大丈夫ですよ。海斗さんが二人を外に連れ出してくれましたからね」
「海斗…? あらあら、まだ小さいのに、あの子ったらえらいのねぇ」
会話は微妙にずれ、かみ合わないままだが、美佐子は頷いて碧のそばにいた。そのうち、職員が診察をするからと碧を連れて行ったので、美佐子は理久たちと合流することにした。
別室は冷ややかな空気に包まれていた。上質なスーツに身を包んだ萌絵はすっかり気を悪くした様子で離れた椅子に座っている。完璧な化粧にきれいに伸ばした爪。彼女はそれなりに有名なネイリストなのだと言う。理久は頭を抱えて大きなため息をついていた。
「我が家に来てからは、自分のやり方を譲らないおふくろと萌絵との間で諍いが絶えなかったんだ。正直出て行ってくれてほっとしていた。認知症と分かったからには、もうここからは出られないだろう。海斗、お前ももう気にしなくていいぞ」
「そんな言い方ってないだろ! だいたい自分ちに来いって呼んだのはそっちじゃないか」
「仕方ないだろう。萌絵の方が忙しくなってきたから、家事だけでもやってもらえたら、おふくろのやりがいにもなると思ったんだ。それなのに、萌絵のステージ用の衣装までだめにして、おかずは昭和風の煮物ばかりだし、ぬか床まで持ってきて、部屋中が異臭騒ぎだ」
「あの、もうやめませんか? 碧さんの精一杯だったのですし、今となっては…。ここで心安からに暮らしてもらえたら」
たまらなくなって遮った美佐子を胡散臭そうに一瞥して、萌絵はさっさと立ち上がって言い放った。
「そうね。この人の言う通りだわ。ここの費用は理久さんの口座から引き落としてくれて結構です。財産分与も不要ですので、好きになさって結構よ。私たちは忙しいから、もうここに来ることはありません。後の事、よろしくお願いしますね。ほら、貴方。行くわよ」
ぐっとこぶしを握り締める佐伯に気付いて、理久はすっと目をそらした。かける言葉を見つけられないまま、美佐子は、佐伯の兄夫婦がもう碧の部屋を覗くことなく帰って行くのを見送った。目の前に母親がいるのに、分かり合えないなんて。思わずあの風景画を見上げた。
つづく
読んでくださってありがとうございます。
よろしければ、感想、評価など、お気軽にお寄せください。




