第二話 異世界転移
「うう……うぐっ……!」
神月伊織は、傷や病気と縁のない少年だった。それは運だけでなく、生来の用心深さにもよるものだと伊織は信じていた。
だから、全身がバラバラになったような痛みに苛まれ、無人の川岸で這いつくばって呻いている今、運ではなく、用心が足りずにこうなったのだと後悔の念に駆られていた。
(なんで、何も起こらないと思ってたんだ……!)
このまま死ぬのか。生き残るすべはないか。
伊織は、この事態のきっかけとなった人物についての記憶を辿っていった。
始まりは、高校生活に慣れはじめた四月中旬のある日のことだった。
「おーい、伊織」
教室で帰る準備をしていたそのとき、伊織を呼ぶ明朗な声がした。
入学のときから他者との接触を嫌う佇まいを見せていた彼に、遠慮なく話しかけてくるような友人は一人しかいない。志貴剛弘だ。
「だから下の名前で呼ぶなって……ごめん、言うの忘れてた。今日用事できたんだよ」
「えー、マジかよ。土日は俺が無理だし、来週からは仮入部だろ。今日逃すとしばらく機会ないじゃん。お前帰宅部にするんだろ? うーん、仮入部は遅らせたくないんだよな。やっぱコミュニティには早く馴染みたいし」
そんなに俺に構いたいならそれくらい諦めろよ、と小言が頭に浮かんだが、伊織はそれを振り払った。
(良い奴なのは分かってるんだよな)
おそらくは身の上を気にかけて、親しくしてくれているのだろうと理解していた。伊織は、海を隔てた高校への入学を機に、故郷の離島を抜け出して知り合いのいない土地で下宿している。
だから、こうしてクラスメイトと交友を深められることは、本来なら諸手を挙げて歓迎すべきことだった。しかし伊織は、あるきっかけ——故郷を離れようとしたきっかけでもある——から、他人と触れ合うことを極力避けようとしていた。
「悪い、どうしても外せないんだよ。また今度にしよう」
そんな伊織だが、剛弘の善意を迷惑と思っているわけではなかった。孤独な高校生活に耐えられるほどに、自分の精神が強靭でないことは分かっていたからだ。
「しょうがねえなあ。分かったけど、用事ってなんだ?」
「……ごめん、秘密にさせてくれ」
今朝に初めて会った人と話をすることとは、言えなかった。
「ごめんね、お邪魔しちゃって。人に聞かれたくない話だったからさ」
「……大丈夫ですよ」
伊織の下宿先に訪問してきたのは、外見には特に目立つところのない、黒髪黒目の若い女性だった。
レキと名乗るその女性は、登校途中の伊織に突然話しかけてきた。
伊織は面食らったが、頼みたいことがあるから後で聞いてほしいと言う彼女の表情は切実に見え、つい了承してしまった。普段の彼らしからぬことだった。
「それで、どういう話なんですか」
「そうだね……単刀直入に言おうかな」
二人は、テーブルを挟んで向かい合っている。
「伊織君に二つ頼みたいことがあるんだ。一つは、ある人に私の手帳を渡すこと。もう一つは、勇者になること」
「はい?」
真顔で発される突拍子もない言葉に、思わず素っ頓狂な声が出た。
「ああ、えっと……勇者って、何かの比喩ですか……?」
「まあ、私がそう呼んでるだけで、英雄、とかでもいいんだけどさ。とにかく、世界を救う存在になってほしいんだ」
「……」
「うーん、やっぱり、いきなりこんなこと言われても困っちゃうよね。じゃあ、まず自己紹介するね。私はレキ。異世界から来た魔術師なんだ」
「……」
伊織の頭に、やはり相手にするべきではなかったかという後悔の念がよぎった。
「ほら、魔術を見せてあげる」
そう言うなり、レキは座っている椅子ごと宙に浮いた。
「……」
「どう? 信じる気になった?」
「手品師ってことをですか?」
「ち、違うよ! 種も仕掛けもないけど!?」
予想外の反応を受けて、思わずレキは着地する。伊織は笑った。
「……まあ、とりあえず信じることにします。続きを話してください」
「あ、ありがとう! じゃあまず一つ目のお願いについてなんだけど。私がもともといた世界に、ティアレーっていう人がいるんだよね。その人に、私の手帳を届けてほしいんだ」
レキが取り出したのは鍵付きの手帳だった。
「これは魔術で鍵をかけてて、そのティアレーって人じゃないと開けられないようになってるんだけど……」
「いや、ちょっと待ってください。もとにいた世界の人なら、わざわざ俺に頼むんじゃなくて、あなたが直接渡せばいいんじゃないですか?」
伊織の言葉を聞いたレキは、表情を曇らせた。
「ほんとは、そうしたいんだけどね……私はもう、元の世界に帰れないんだ。それに、その世界に渡れるのは、伊織君しかいないんだよ」
「……なんでですか?」
「それは……ごめんね、教えられない」
伊織は訝しんだが、ひとまず話を進めることにした。
「というか、俺が異世界に渡れるとか初耳なんですけど」
「ほんとだよ。伊織君自身がその力に気づいてないだけ。渡ってもらうときには、転移を補助する装置をここに送ってあげるから安心して」
「……あ、今すぐってわけじゃないんですね」
「うん、一つ目のお願いはね」
「……二つ目、勇者になるって、具体的にどういうことなんですか?」
「……そうだね……うーん……」
レキはしばらく黙り込んだが、やがて口を開いた。
「別に、伊織君が何かをしないといけないってことじゃないんだ。私が伊織君におまじないをかけるだけ。それで、伊織君が魔王を倒せる唯一の存在になる」
「魔王?」
「うん。といっても、実際に魔王を倒してほしいわけじゃない。勇者が存在すること、それ自体に意味があるんだ」
「えーっと、異世界に魔王がいるんですか?」
「……ごめんね、魔王がどこにいるかも教えられない。けど、伊織君と魔王が会うことは、きっとないよ」
要領を得られない。だがそれはあえて隠しているのだろう。
「実を言うと、伊織君じゃなくても勇者になることはできるんだ。でも、私は伊織君に勇者になってほしい……その理由も、教えられないけど……」
隠し事の多さにやましさを感じたのか、レキは少しうつむいた。
「……分かりました。要するに、今その勇者になるおまじないってものをかけてもらって、また別の日に異世界に行って、この手帳をティアレーって人に渡せばいいんですね」
「そ、そう! お願いできるかな?」
「いいですよ……なんというか、必死なのは伝わりましたし」
それは本心だった。他人と関わらないという姿勢を常々取っているつもりなのに、押しに弱い自分に伊織は苦笑した。
「ありがとう……本当にありがとう! それじゃおまじない、かけるよ。じっとしててね」
レキはテーブル越しに両手を伊織に向け、目を閉じた。
(なんだ、この感覚……?)
伊織は自分の体内に、何かが入ってくるように感じた。数十秒経ってその感覚が消えたころに、レキは目を開けた。
「はい、おしまい! これで伊織君は勇者だよ。あとは、手帳のことだけど、実際に異世界に行ってもらうのは多分夏くらいになるかな」
レキは話しながら、一冊の本を取り出した。
「これは、異世界の言語の学習書。私が伊織君のために書いたんだよ」
「……え、こんな分厚いのを読まないといけないんですか?」
「最低限のことは最初の方にまとめて書いてあるから、そこだけでもいいけど……異世界に住みたいってなったときにも対応できるように分厚くしちゃった」
「いや、普通にこっちで生活したいんで用事を済ませたらすぐ帰ってきます……」
そこまで言って伊織は、重要な質問を忘れていることに気づいた。
「というか帰ってこれるんですよね?」
「うん。一度転移補助の装置を使って渡れば、転移の感覚がつかめて後は使わなくても渡れると思うよ。なんなら、邪魔だったら装置は向こうの世界に置いて戻ってきてもかまわないし。ただ、今はこの世界と向こうの世界の間の転移をある人の魔術の障壁が阻害してて、それを装置で破っちゃうつもりなんだ。だから、最初に到着する、障壁に穴を開けた場所……私の住んでた家に到着するように設定してるけど、そこで転移しないとうまく戻ってこれないかもしれないから、それだけ気をつけてね」
「……え、そんなに小さな穴を開けるんですか? というか、そもそも星なんて宇宙全体から見れば動きまくってるんだから、場所は一瞬でずれると思うんですけど……小さいならなおさら……」
「うーん、例えるとね、両端だけそれぞれの星のある一点を追尾する、丈夫なゴムでできた管の中を通るようなもの、って言ったら分かるかな? そこは心配しなくて大丈夫だよ」
「……とりあえず納得しておきます」
あまり得心がいかないが、いずれにせよ伊織に理解できる話ではないようなので諦めた。代わりに、他に重要な情報を答えてくれそうな質問を探す。
「あと、ティアレーさんはその世界のどこにいるんですか?」
「……ごめんね……それは分からない……お願い、頑張って探して」
「は、はあ……」
「……いや、どうしても見つからなかったら、諦めてくれてもいいよ。この手帳を渡したいっていうのは、私のただのわがままだしね……」
レキは自嘲した。伊織はその表情を見ていられず、口を開く。
「最善は尽くします。言語も頑張って覚えるんで」
「……ありがとう。やっぱり、伊織君は優しいね」
「……」
レキの言葉で、抑えられていた伊織の疑念が再び湧きはじめた。
「あの、俺のことを知ってるんですよね? 俺とどういう関係なんですか?」
「……会ったのも、顔と名前を知ったのも、今日が初めてだよ……本当だよ。異世界に渡れる人をずっと探してて、やっと見つけたのが伊織君だったんだ」
「……」
本当に他人なのか。素性の知れない彼女に関わることを選んでしまったのは、荒唐無稽な話を信用してしまっているのは、今も彼女からほのかに感じる懐かしさに惹かれたからではないのか。伊織は、レキに伝える言葉を見つけられない。
「それじゃ、そろそろ帰らせてもらうね。装置は多分、八月の頭くらいに届くと思うから」
「……はい」
伊織は玄関まで見送る。聞きたいことは山ほどあるが、引き止めなかった。話さなかったことは、話すつもりのなかったことなのだろう。不思議とそう思って引き受けている自分に気が付いていた。レキは最後に振り返って、伊織に微笑んだ。
「ありがとう。伊織君に会えて、ほんとに嬉しかった」
その表情は、別れを惜しんでいるようにも見えた。
送られてきた装置に荷物を持って入り、異世界語のガイダンス音声の通りに操作したはずだった。全身が“上下でも左右でも前後でもない方向”に移動する感覚に包まれ、何かを破る感覚がした後、子供部屋のような部屋の中に転移した。
だがその部屋の唯一の扉がどうしても開かず、伊織は断念して元の世界に戻るため、レキの言った通りに装置を残して単身での転移を試みた。
すると、最初の転移と同じ感覚がした後、何かに阻まれたような感覚に襲われ、今度は遥か下に大地の見える空中に転移した。その後、身の危険を覚える間もなく全身に激痛が走り、伊織はそれからこの川岸で激痛に目覚めさせられるまでの間のことを覚えていない。
(とにかく……レキさんの言った通りなら、帰れるはずなんだ……)
伊織は転移の瞬間の移動する感覚を思い出し、全身をその方向へ移動させるように意識した。だが何度やっても、二回目の転移と同じような、何かに阻まれているような感覚に陥り失敗する。
(いや、そうか、逆だ……元の世界からこっちにきたときの移動が“下降”とするなら……)
今度はその逆に、全身を“上昇”させるように意識する。だがまたもや何かに阻まれ、転移は失敗する。伊織は絶望しかけたが、激痛の中、何とか状況を把握しようとする。
(元の世界を上の世界、子供部屋のあった世界を真ん中の世界、この世界を下の世界とすると……上と真ん中の間の障壁を、装置で破った……その後、俺は上に戻るはずが、移動方向を誤解して下に来た……そのとき装置は使っていないから、少なくとも真ん中の世界の子供部屋と、下の世界の空中の間に障壁はなかった……けど今障壁に阻まれているってことは、そこの間だけ穴が開いていたって考える方が自然だな……)
伊織は、今何ができるか考え続ける。
(全身の痛みは、この世界に来た瞬間に発生した……とにかく真ん中の世界に戻らないといけない……でも穴の開いている空中には戻れない、どころか、痛みでこの状態から体を動かせない……ここに、穴を開けるしかないか……ここから“上昇”するときの阻まれる感覚は、ここから“下降”するときのそれよりかなり弱かった……何度もぶつかれば、開けられるか……? いや、開けるしかないんだ……)
何度も“上昇”して、穴を開けようとする。ぶつかることによって、障壁が削れていると信じるしかなかった。
そうし始めてからどれほど経ったかも分からず、伊織の心に諦念が湧きはじめたころ、急に障壁の感覚と、全身の激痛が消失した。目を開けて立ち上がるとそこには、人影のないコンクリートジャングルが広がっていた。




