第一話 リミニアとユシェル その一
地下の奥深くに長く伸びる通路を、黒いワンピースを着た少女が一人歩いていた。端麗で可憐な顔に緊張を走らせ、青い瞳で、手元の灯りが照らす前方の暗闇の先を見据えている。
女性的に恵まれた体型を除けば、十一歳という年齢と比べて一見幼い印象を与える少女だ。髪型もその印象の一因かもしれない。輝くように鮮やかなブロンドは左右で結ばれ、肩に届かないほどの短さで垂らされている。
だが、彼女——ファノールド王国第一王女、リミニア・ファノールドは、世界最強と謳われる魔術師である。
(きっと、この先にいる……楽園を滅ぼした魔物が)
リミニアは、楽園時代の生まれ変わりと称されるほどに絶大な魔力を持って生まれ、それは彼女に驚異的な早熟をもたらした。一歳になるころには大人と同じように言語を理解してあらゆる学問に勤しみ、十歳のときに城の書庫のすべてを読破した。
しかしそのころには、彼女の興味はもっぱら楽園時代に向けられていた。
かつて人類は、そのすべてが莫大な魔力を持ち、それによって半永久的に寿命を延ばして悠然と生きていた。しかし、原因不明の大災害——魔力を奪う魔物の大量発生によって、人類からほとんどの魔力は失われ、死を迎えるようになったという。
人類が死の宿命から解き放たれていたその時代は、楽園時代と呼ばれた。遺跡には魔物が棲むため調査が難しく、これまで楽園時代の研究はあまり進んでいなかった。
多くの人が最低限の魔力しか持たない現代において、富は一部の魔術師が独占するものだった。庶民は、食いつなぐことに必死な貧しい生活を送っていた。
リミニアは、心優しく勇敢な少女だった。魔力に乏しい人々の不幸を憂い、かつて存在したという楽園に思いを馳せた。そしてこの世が再び楽園となることを願い、楽園時代の全貌を明らかにするために、十一歳にして、王女という身分ながら遺跡の調査を始めた。
調査を始めてから数日、災害の発生源と見られる遺跡の深奥で、リミニアは特異な機械を発見した。搭乗した人間ごと、元の世界のどこでもない異世界へ転移する装置だった。転移先の世界は元の世界とよく似ていたが、かつては存在していたのであろう人類は既に滅亡していた。そこには文明の残骸だけがあり、おびただしい数の魔物がはびこっていた。彼女はこの異世界に大災害の原因があったと考え、調査に出た。
リミニアは魔物が体内に持つ負魔力の濃度を感知し、それが高いほう、つまり魔物が多いほうへとひたすら足を進めた。そして二十日ほど経ち、彼女は濃度の極めて高い地下建造物を発見した。だが降りていく最中に魔物は見つからず、最奥に非常に強大な魔物が存在することが予想された。
その最奥へ至る扉が、今彼女の目前にある。
リミニアの計算では、この先にいる魔物を消滅させたとしても魔力は十分に残るはずだ。だが、胸中は不安に溢れていた。
「さあ、行くわよ……!」
覚悟を声にして、自分を奮い立たせる。ここで引き返す理由はない——楽園の真実が待っているかもしれないのだから。
リミニアは扉を開けた。
「えっ……?」
扉の先の部屋を照らすと異様な光景が広がっていた。
扉は、一度床に落ちると手の届きようのない高さにある。リミニアの予想に反して魔物は存在しない。壁の下方と床は血痕に塗れてくすみ、その中心には裸の少年が横たわっている。そして少年の体のそこかしこが、常に弾けては再生していた。
リミニアは一瞬身構えたが、すぐに飛び降りて少年のそばに駆け寄った。
「だ、大丈夫!? しっかりして!」
少年の身に何が起こっているかを調べるべく、魂を観察すると、そこには生命を維持するだけの最低限の魔力すらなく、それどころか莫大な量の負魔力があった。これが、リミニアに魔物の存在を誤って予測させた原因だった。
人間の魂に負魔力が溜め込まれるのはありえないはずの現象だが、ともかくリミニアは、この負魔力が少年の身体の異常を引き起こしていると判断した。
「私が吸い取ってあげるから……!」
負魔力が少年からリミニアへと渡っていき、彼女の持つ魔力と反応して共に消えていく。リミニアの固有魔術である“吸収”は、他者の持つあらゆるものに干渉して、彼女自身のものにすることができる。
少年の自壊は予想どおり止まった。
「ふうっ……ひとまず安心ね」
事前の見立てどおり、すべての負魔力と反応させてもまだ魔力は残っている。
少年は目を覚まさないが、今のところ生命活動に異常はない。
(とりあえず、この子を連れて外に出ましょうか)
リミニアは少年を抱え、体を浮遊させて部屋を脱出し、地上へと戻っていく。
尋常でない事態にあったこの少年が、異世界の、そして楽園の謎の鍵を握っていることは間違いないだろう。
リミニアは、地上の魔物を避けるため近くの高層建築物の上層に移動し、少年を見守り続けていた。
そうし始めてから数日。空が茜色に染まり、開いた窓から西日が差し込むころだった。
「…………きみは、だれ……?」
眠り続ける少年のそばに座り、荷物の整理をしていたリミニアはそのか細い声に気付き、手を止めて顔を向けた。
少年の目が開いていた。澄んだ夜空のような濃紺の、大きく綺麗な瞳だった。
(ああ、良かった! もしかしたらずっと目を覚まさないかもって……それに今の言葉、私たちの言語と同じ!)
考えていた最悪の事態を避けられたどころか、この異世界の住民であろう少年と言語で意思疎通ができることは信じがたい僥倖だった。
「私はリミニア、リミニア・ファノールドよ。地下で大変なことになっていたあなたを見つけて、ここまで連れてきたの」
「……」
少年がゆっくりと起き上がる。リミニアは少年の容姿に注目した。
リミニアより一回り高い背丈を見れば、歳はリミニアの世界での十代半ばのように思えるが、そのわりに幼い顔立ちだ。肩近くまで伸びている黒髪も相まって、まるで少女のようだった。
少年は、自分が着ているローブに不思議そうに目をやっていた。
「それは私が着せたのよ。元は私が着るものだからあなたには小さいかもしれないけど、それしかなかったの。ごめんなさいね」
「……」
リミニアの衣服は魔術によって常に頑丈であり、さらに清潔に保たれている。そのため替えは必要なかったが、念のためローブを一着持っていたのが幸いだった。
「えっと……あなたの名前を、教えてくれるかしら?」
「……」
(まさか……)
リミニアの脳内に、最初の言葉が聞き間違いで、実際には言葉が通じていないのではという疑念が浮かんできたころに、少年が口を開いた。
「じぶんのなまえ、わからない」
「……もしかして、何も覚えていないの?」
リミニアは一瞬安堵したが、少年が記憶喪失だという可能性に再び心をざわつかせた。
だが返答は、リミニアの予想外のものだった。
「……ううん。なまえをよんでもらったこと、ないから」
(名前を呼ばれたことがない……って、どういうこと……?)
「……えっと、じゃあ、ここに来るより前のこととかは、覚えているかしら?」
「……うん……」
少年の顔が、心なしか曇ったように見えた。
「あっ、その、嫌なら言わなくてもいいのよ……?」
少年の過去が暗いものであることは容易に察しがついた。その詳細を知ることを求めていたはずだったが、思わずそう口にしてしまった。
「……しりたいの?」
「ええ、でもあなたが嫌なら無理には聞かないわ」
「…………はなすの、いやじゃないよ」
少年がぽつりと呟いた。
「本当? ありがとう。じゃあ、聞かせてちょうだい。ほら、ここ」
リミニアは二人で腰かけられる所に移り、少年に隣に座るように促した。
「……うん」
少年はリミニアの隣で、たどたどしく語りだした。
「ぼく……うまれたときからずっと、ちかのたてもののなかにいて……そのたてものにはだれもいなくて、にんぎょうにおせわされてたんだ」
(人形……楽園時代に作られていた魔導人形のことかしら……やっぱり、この子は楽園時代の生き残りね)
「にんぎょうは、ぼくのことをずっとみはっていて、ちじょうにはでられなかった。じゅうさんさいのころに、おかあさんといっかいあったけど、そのときしか、ひととあったこと、なかった」
「……」
「……それで、そのとき、おかあさんに……ほんとうのおかあさんかは、わからないけど、そのひとに、あのへやにとじこめられたんだ」
少年の声は、だんだんと暗くなっていった。
「嫌だったら、無理しなくていいのよ?」
リミニアは心配したが、少年は首を横に振って続きを話した。
「……へやからでられなくて……それから、きゅうにくるしくなって、からだじゅうが……つぶれたり、ちぎれたり、しはじめて……でも、すぐにからだが、もとどおりになって、それが、なんども……つづいて……っ……」
「……! しっかりして!」
少年の顔は青ざめ、息が浅くなり、身体が震えていた。リミニアは少年の背中をさすった。
「ごめんなさい……もう、いいわよ。聞くのを止めておけばよかったわ」
少年の話から考えれば、おそらくは初めから何らかの儀式のために生まれ、不老不死に近い存在に変える魔術をかけられた、楽園時代の生き残りなのだろう。そのような魔術が存在したことを示す史料は見つかっていない。だが、そうでなければ、魔力を失い負魔力に侵されてなお少年が生き続けていたことの説明がつかない。
災害の発生理由については結局のところ不明だが、それでも少年を連れ帰って精査できれば、楽園時代の謎の解明へ大きく前進するだろう。
しかし、リミニアが今思うところはそこではなかった。
(楽園時代の終わりは二千年前……どれほど長い間、この子は独りで苦しみ続けたっていうの……)
リミニアは、想像を絶する少年の過去の苦しみに心を痛めた。
このいたいけな少年を孤独にして、虐げていい理由など、あるはずがないと思った。
「ずっと、辛かったでしょう」
リミニアは少年の正面に立ち、顔を見上げ、手を取って包んだ。細く、しかし柔らかい手だった。
「信じられないかもしれないけど、私は別の世界から来たの。この世界はもう滅んでいるみたいだけど、私の住む世界にあなたを連れていってあげる」
「……!」
少年の頬が染まる。手を触れられていることに意識が向かっているようだった。
「あなたを二度と孤独にさせないわ。あなたの親の代わりに、生きていくために大切なことも、全部私が教えてあげる」
「……う、うん……」
少年が、はにかみながら微笑む。
リミニアはその様子を見て、胸が熱くなるのを感じた。
(この子を、幸せにしたい……!)
そのために出会ったのだと信じた。
「じゃあ、さっそく親の代わり……あなたに名前を付けてあげるわ」
リミニアは、ある楽園時代のおとぎ話を思い浮かべた。
苦難の果てに楽園を見つけ出したその主人公の名を、この少年に付けたいと思った。
「ユシェル。あなたの名前は、ユシェルよ!」
かすかに暖かい風が、二人の頬を撫でる。
世界に春が近づいていた。




