第三話 連なる災い
痛みから解放された途端、次々と頭に浮かぶ疑問に、伊織は対処できない。
扉が閉ざされた子供部屋は何だったのか。激痛を引き起こすあの世界は何だったのか。なぜ障壁は急に消えたのか。なぜこの都市は無人なのか。
(建物に書いてる文字を見れば、ここが元の世界じゃなくてレキさんの世界ってことは分かるけど……)
学習書に載っている単語の数々から、レキの世界の文明が、伊織が初めに想像していたような中世ヨーロッパ風の異世界よりも遥かに発達していることは推測できていた。だが、今目前にある、元の世界では“近未来都市”と形容されるような光景は、伊織の予想を上回るものだった。
(とりあえず、人を探そう)
本来の学業もそこそこに、一学期中異世界言語の習得に明け暮れていた成果を初めて発揮するときだった。
「誰かいますか! いたら答えてください!」
伊織が大きく発声した瞬間。
皮の剥がれた人間のような何かが、突然周囲に現れた。
「……!?」
頭の中が真っ白になったのもつかの間、伊織は自分の本能が警鐘を鳴らしているのを感じる。
存在を構成する最小単位から、生命に相反している感覚。ただそばにいるだけで、生命が否定される感覚。
伊織は全速力で逃げ出した。
(何がどうなってるんだよ!)
怪物たちは伊織を追ってくるが、不幸中の幸いか、その速度は伊織を下回っていた。だが、伊織の失速は時間の問題だ。
(とにかく、障害物が多いところを通らないとこいつらを撒けない……)
一番高い建造物を目印に、建造物が密集するほうへと逃げていく。伊織を追う怪物は少しずつ数を減らした。
(まずい、そろそろ足が動かないぞ……)
目印にしていた建造物に辿り着いたころ、伊織の体力はもう限界だった。
まだ怪物は撒ききれていない。伊織の頭にこの状況を打開する策は浮かんでこない。焦りが思考を覆い尽くそうとしたそのとき。
(人だ!)
なんとか声が届きそうな距離に、金髪の女性を見つけた。伊織はこの事態の原因を思い出し、一瞬ためらったが、声の限り叫んだ。
「助けてください!」
予想したとおりに、周囲の虚空から怪物が姿を現す。だが、女性はこちらを振り返り、何かを取り出して伊織のほうへ投げつけ——
「ぐっ!?」
それは、人間の投擲ではありえない飛距離と速度を以て伊織の右脚を貫通した。
「う、ああっ……」
伊織は倒れ込みながら、女性が踵を返して離れていくのを見た。
怪物は伊織に群がり、密着する。伊織は生命を支える何かが失われていくのを感じ、そのうち身体中に痛みが走りはじめた。
(もう、駄目か……)
伊織はすべてを諦めて目を閉じた。
しかし、しばらく経ってもなかなか痛みが強まってこないことに気づく。少なくとも、下の世界での激痛とは比べ物にならない弱さだった。
そして、自分に覆いかぶさった怪物は、しばらくすると動かなくなることにも気づいた。どうやら、動かなくなった怪物は別の怪物に取り払われて、その怪物が伊織に覆いかぶさって動かなくなり、また別の怪物に取り払われるといったことが繰り返されているようだ。
(これ……耐えてたら終わるんじゃないか?)
現れた怪物は今すべて、座り込んだ伊織の周囲に倒れている。動かなくなった怪物が、再び動き出す様子は見えない。ひとまず、一難は去った。
だが、予想していたよりも痛みは強くなった。それでも下の世界での痛みよりはかなり弱かったが、この場から動くことは難しかった。
(まずは、脚の傷をなんとか……あれ)
何かが貫通したはずの右脚は、傷一つない状態だった。
(……俺の思い違いで、かすってただけだったのか? まあ、それならそれでいいか……それじゃとりあえず、転移してからどれくらい経ったかでも確認しとくか)
スマホを取り出して画面を表示させる。八月十一日の表記。転移したのが八月一日だったので、十日経っている計算だ。
(十日も経ったか……? まあ、下の世界でどれくらいの間気絶してたか分からないから何とも言えないけど……というか、その間何も飲み食いしてないぞ)
空腹感も喉の渇きもなかったが、伊織はバッグの中を探り、水を飲み、チョコレートを食べはじめた。
密室。激痛。怪物。次から次へと降りかかってくる災難が一旦消えた今、伊織は半ば無心でチョコレートを味わっていた。しかし。
正面から鳴る音に気づいた伊織は顔を上げる。
目印にしていた目前の大きな建物の扉が自動で開き、出てきた少女と目が合った。
(……ど、どうする?)
この世界で最初に会った人間から受けた仕打ちを考えると、この少女からも逃げるべきか。だが痛む体は、動くことを拒否している。
少女は少しの間固まっていたが、ほどなくして伊織に近づいてきた。
後ろで一つに結ばれた濃い茶髪。その髪と同じ色をした瞳。伊織の世界にいても違和感のなさそうな現代的な服装。大きなリュック。
現実逃避するように少女を観察していると、急に周囲の怪物の体が浮いて、伊織から離れた所に放り出された。少女の魔術によるものだと伊織は推測する。
障害物がなくなり、二人が対面する。少女は心配そうな面持ちだった。伊織は何か発言するべきかと焦るが、小さな発声でも怪物が現れるのではないかという不安を振り払えない。だがその不安は少女によって解消された。
「大丈夫?」
伊織の目線に合わせるようにしゃがんで、少女が囁く。伊織は緊張が一気にほぐれるのを感じた。
「……全身がとても痛いです」
何から伝えるべきか迷ったが、ひとまず命に直接関わりそうなことを優先した。
「いつから?」
「……怪物に襲われてからです」
「……」
少女は困惑した表情を見せたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「分かった。それ、和らげてあげる」
そう言われると同時に、体を縛るようだった痛みから解き放たれる。伊織はできるだけ静かに立ち上がった。
「あ、ありがとうございます」
「どうも。って、そんな慎重に音立てないようにすることないよ。それより同じ場所に留まってるほうが危ないから、とにかくここ離れよっか。ていうか、どうやってここに来たの?」
「それは……話すと長くなるというか、そもそも信じてもらえるのかというか……」
「そっか。じゃ、聞くのはとりあえずこの島を出てからね。あー、でも名前だけ聞いとこうかな。私はシェミカ、シェミカ・シンソート。君は?」
「イオリ・コウヅキです」
「じゃあイオリ君、私についてきて。あと、そんなにかしこまって喋らなくていいよ?」
「……わ、分かった……」
言われるがまま、シェミカの後を追う。口調は単に、言語に慣れていない伊織にとって、丁寧な言葉遣いのほうが扱いやすかっただけだった。
「……それで、携行食を食べてたら前の建物から君が出てきて、今に至るってとこだ」
「ふーん、なるほど」
二人は今、無人の都市を離れ、海岸に泊めてあった、魔力を動力源として自動で走行する水陸両用車で海上を進んでいる。シェミカは、スマホのような薄い板状のものを持ちながら、伊織のこれまでのいきさつの話に相槌を打っていた。
(我ながら意味不明な話だな……今なら俺に怪しまれてたレキさんの気持ちが分かるかもしれない)
「えーっと、やっぱ信じられないよな……俺自身も理解してないことだらけだし」
「んー、まあとりあえず話してくれたことはこれにメモしておいたよ。あとイオリ君の疑問に一つ答えておくと、あの都市は大体二千年前に、魔物の大群が現れて滅びた遺跡なんだよね。私はそこを調査中だったってわけ」
「遺跡? でもそのわりには綺麗な気がしたけど」
「保護する魔術が残ってるからね。……魔術が何かは分かるよね?」
「えーっと……なんとなくは……」
「う、うーん……どっから話せばいいかな」
シェミカは戸惑った顔を見せる。普段あまりこういう顔をしなさそうな人だな、と伊織は何となく感じた。
「そうだなあ……ま、そういう話は後でいいか。まず、今後イオリ君が何をすればいいかだよね」
「それは……一応、ティアレーさんって人に会って手記を渡すのが目的……というか、元の世界に帰りたいから、どこに転移先の子供部屋があるか知るために、事情を知ってそうなティアレーさんに会いたいっていうのが本音だけど」
同じ場所で異世界転移すれば同じ場所に辿り着き、逆方向の転移でもそれは変わらない。伊織の世界とレキの世界の間には障壁がある。障壁は転移装置を使って転移した場所でだけ破られる。レキが話していたことだ。
つまり、この世界から元の世界に帰るためには、最初の転移先である閉ざされた子供部屋で転移しなければならない。
子供部屋から誤って下の世界に転移したとき、その世界で位置を移動してしまったため、下の世界から伊織が今いる世界へ転移したときの転移先が子供部屋ではなくなってしまった。
レキの話からすれば、子供部屋はレキの家にある部屋だ。レキの家を知る者に会わなければならない。今のところ、候補はティアレーしか出てこなかった。
「勿論イオリ君が元の世界に帰るのは大前提だけど、それまでの間どうやってこの世界で生きていくかも考えなくちゃね。この世界で死んじゃう心配まではしなくてよさそうだけど」
「……?」
「イオリ君、魔物の大群に触れ続けたんだよね? それ普通なら絶対死んじゃってるよ。たくさん魔力を持ってる魔術師でも、よっぽど強くないとあの数は耐えられないはずなんだけど、イオリ君は痛がるだけで済んでる。勇者になるおまじないってやつのおかげなのかなあ……」
「……丈夫になってるってことか?」
「丈夫になってるって程度じゃないよ。十日間飲まず食わずでも平気だったんでしょ? あと、脚の傷も勝手になくなったっていうし。不死身になってるって言ってもいいぐらいだと思うけど」
「不死身……」
伊織は、口にしたその言葉の意味を実感できなかった。もし、レキに不死の存在にされたというなら、自分の人生はどうなるのか。考えようとして、怖気ついてやめた。
「まあでも、不死身だとしてもまともな生活ができるかは別の問題だね。私が面倒見てあげてもいいんだけど、その前に持っとかないとまずいやつがあるんだ。この通信機なんだけど」
そう言って、シェミカは手に持っていた通信機を伊織に見せる。
「これも魔力で動作するやつ。買い物とか身分証明とか、全部これ使うからさ。普通生まれたときにスピラリヤって国から配られるんだけど、まずこれ取りに行かないとね。後ついでに霊窓解析ってやつもすることになるのかな……まあこれは後で説明するよ」
「えーっと、それで買い物するっていうのは……つまり、物としての通貨ってのはなくて、通信する情報としてのみ存在してたりするのか」
「そうそう! 昔は実際の通貨が使われてたらしいけど、私が生まれる十数年前にこの通信機が作られはじめて、そのときからずっとこの仕組みだよ」
「なるほど、そりゃ持ってないと困るな……」
「それじゃ、ひとまず目的地はスピラリヤの首都、スピレね。そこに着くまで、魔術のこととか、この世界のこととか、私のこととか話してあげる」
「ははっ……ありがとう」
最後の話題は前の二つに並べるには規模が小さいだろうと伊織は笑ったが、実際謎の多い少女だ。ただ彼女の親切さだけが、確かに分かるものだった。




