タイトル未定2026/08/26 17:25
5
窓の外では、また雪が降り始めていた。
手術室のランプは四時間消えなかった。
目を覚ますと、そばにいたのは結衣だけだった。
泣き腫らした目で私が目を開けたのを見るなり、強く手を握る。
「よかった……」
「本当によかった」
喉が乾ききって声が出なかった。
結衣が少しずつ水を飲ませてくれた。
「手術は無事終わったって。あとは病理の結果を待って、そのあと治療を決めるみたい」
目を閉じてしばらく休んだあと、私は聞いた。
「外に誰かいる?」
結衣が一瞬止まる。
「どうして分かったの?」
「なんとなく」
少し迷ってから、彼女は教えてくれた。
「高瀬冬真、昨日の夜には来てたよ」
「着いた時にはもう清良は手術室に入ってた。ずっと手術室の外にいたらしいけど、面会は本人の同意が必要だって言われて、そのあとは下にいるみたい」
「まだ帰ってない」
私は数秒黙った。
「ナースステーションに伝えて」
「会わないって」
結衣が私を見る。
「一度も?」
「うん」
「一度も会わない」
四日後には、ゆっくりなら歩けるようになっていた。
大部屋は騒がしい。
向かいのベッドの女性は毎日のように家族へ電話をかけ、窓側のおばあさんは夜になるとテレビを見ている。
なのに、よく眠れた。
過去六十三日間のどの夜よりも。
結衣は毎日来てくれた。
お粥を持ってきたり。
果物を持ってきたり。
五日目。
病理結果が出た。
最も恐れていた結果だった。
腫瘍は悪性と確認され、術後も治療を続ける必要がある。
医師から、これから化学療法を受けることになると説明された。
不思議なほど怖くなかった。
病気のことを、自分で知り。
自分で治療を選べる。
それだけで、あの六十三日よりはずっとましだった。
その日の午後。
結衣は少し変な顔をして病室へ入ってきた。
「どうしたの?」
バッグからスマートフォンを出し、私に差し出す。
ニュース記事だった。
『白凪総合医療センター勤務医、妻に記憶障害を装い離婚を迫った疑い』
録音内容の一部まで文字に起こされている。
Xやネットニュースで、一気に拡散していた。
結衣は私の表情を窺った。
「共有フォルダの音声、冬真の同僚の誰かが流したみたい」
「最初は同僚同士のグループチャットで回って、それから外に出たらしくて……」
私はスマートフォンを返した。
「私には関係ない」
「でも――」
「結衣」
顔を上げる。
「今は病気を治したい」
彼女はしばらく私を見た。
それ以上は何も言わなかった。
午後、看護師さんが処置に来た時、廊下から激しい声が聞こえた。
「申し訳ありません。患者さんご本人が面会を希望していません」
「俺は夫です!」
冬真の声だった。
かすれて。
切羽詰まっている。
昔の落ち着いた彼とは別人のようだった。
「ご本人から明確にお断りするよう申しつけられています」
「一度だけでいい!」
「一度だけ会わせてください!」
廊下に慌ただしい足音が響いた。
向かいの女性が思わず外を覗く。
「あら、ずいぶんかっこいい人ねえ」
私は壁のほうを向いたまま、動かなかった。
数分すると声は遠ざかっていった。
警備員に病棟の外まで連れていかれたのだろう。
夜。
結衣からLINEが来た。
「まだ病院の外のベンチにいるよ」
返事はしなかった。
しばらくしてもう一件。
「すごく痩せてる。髭も剃ってない」
スマートフォンを伏せた。
目を閉じる。
カーテン越しの街灯が、天井にぼんやり揺れていた。
六十三日。
冬真は、私を待ったことがあるだろうか。
ない。
彼はただメモに書いただけだ。
『経過良好』
6
退院の日は、小雨だった。
結衣が車で迎えに来てくれた。
傘を差しながら駐車場まで付き添ってくれる。
助手席のドアを開けた時、道路の向こう側に黒い車が見えた。
見覚えのあるナンバーだった。
結衣も気づいたらしい。
急いで私を助手席へ乗せ、自分も運転席へ回った。
シートベルトを締める。
「いつからいるの?」
結衣は少し黙った。
「入院して三日目くらいから」
私は何も言わなかった。
「警察、呼ぶ?」
「いい」
二つ先の交差点まで来ても、黒い車は後ろから離れなかった。
その時、知らない番号から着信が入った。
少し迷い、通話ボタンを押す。
「清良」
冬真だった。
病棟の外で叫んでいた時よりは落ち着いている。
けれどその声の奥には、昔一度も聞いたことのない焦りがあった。
「番号を変えたんだな」
一瞬、間が空く。
「十五日間、ずっと探してた」
私は答えなかった。
「録音の件は、清良が外に流したんじゃないことは分かってる。病院でも院内調査が始まった」
「俺は今、診療業務から外されて自宅待機になってる」
「美咲も病棟を外されて、事情を聞かれてる」
私は冷たく遮った。
「高瀬冬真」
「何の用?」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
「再検査の通知を見た」
また、医師の顔に戻ったような穏やかな声。
「どうして俺に言わなかった?」
笑いそうになった。
「あなたに?」
「毎日、私の感情状態を採点してた人に?」
「あと何週間で私が勝手に消えるか、メモに書いてた人に?」
向こうは何も言わない。
私は小さく笑った。
「離脱プランには、その項目がなかったね」
「六十三日目。妻に悪性腫瘍の可能性あり」
「予定、組み直す?」
「清良……」
「もう、この番号にかけないで」
電話を切った。
そのまま着信拒否にした。
結衣が心配そうに見る。
「大丈夫?」
窓の外の細い雨を見ながら頷いた。
「前よりずっと」
次の信号。
後ろの黒い車は止まった。
もう、ついてこなかった。
その夜、結衣は新しく借りた部屋の片づけを手伝ってくれた。
白凪市東部にある、少し古い賃貸マンション。
1LDK。
広くはないが、交通の便は悪くなかった。
ベッドシーツを整えながら、結衣が言った。
「冬真、本当に自宅待機になったみたい」
手が少し止まる。
「録音の件が大きくなって、病院が調査委員会を作ったって。しばらく患者は診させないみたい」
「美咲も主任業務から外されてるらしいよ」
私は布団の角を整えた。
「私には関係ない」
「美咲のことも?」
「知らない」
「知りたくもない」
結衣は何か言いたそうだった。
結局、強く抱きしめてきただけだった。
「今日は早く寝て」
「明日から一回目の抗がん剤でしょう」
「うん」
結衣が帰ったあと、一人で新しいベッドに座った。
狭い。
でも、清潔だった。
そして静かだった。
今日何時間廊下で待ったかを測る人はいない。
私がどこまで「適応したか」を評価する人もいない。
窓の外の雨は、いつの間にか完全に止んでいた。
7
抗がん剤治療は、想像以上につらかった。
一回目の夜は何度も吐いた。
結衣がずっとそばで水や洗面器を用意してくれ、泣きそうな顔をしていた。
「こんなことになるなら、仕事休んで何日か泊まればよかった」
口をゆすぎ、力なく横になる。
「大丈夫」
「そのうち慣れるから」
二週目から、髪が大量に抜け始めた。
朝起きるたび、枕に髪の毛が増えている。
何日か眺めたあと、思い切って美容院へ行き、かなり短く切った。
鏡の中の自分は、別人のようだった。
ひどく痩せた。
目の周りは落ち込み、頬骨も目立つ。
それでも。
目だけは、あの六十三日間のいつよりも生きていた。
三回目の治療を終えて病院を出た午後。
道路の向こう側の壁に、一人の男が立っていた。
冬真。
また痩せていた。
目の下には濃い隈。
ジャケットは皺だらけで、まともに生活しているようには見えない。
私に気づいた瞬間、体が固まった。
視線が短くなった髪に張りつく。
喉が大きく動いた。
「清良……」
「どうやってここを知ったの?」
冷たく遮った。
冬真は答えなかった。
髪だけを見ている。
目が少しずつ赤くなる。
「ごめん」
私は動かなかった。
一歩こちらへ来ようとした。
すぐに一歩下がる。
冬真はその場で止まった。
もう近づかなかった。
「まだ治療が続くんだろ」
ひどくかすれた声。
「俺にできることがあるなら……」
「何?」
冬真は苦しそうに目を閉じた。
「治療以外にかかる費用なら、俺が出せる」
「もう少し環境のいい部屋に移るなら、それも――」
「高瀬冬真」
彼が戸惑った顔をした。
私は笑った。
冷たい笑いだった。
「今の話し方、離脱プランを書いてた時と全然変わってないね」
冬真の顔から血の気が引いた。
「いつも他人の人生を勝手に決める」
「前は、どうやって私を自分の人生から追い出すか」
「今度は、どうやって自分が償うか」
「違う……」
「同じだよ」
まっすぐ見る。
「あなたはいつも、自分にとって一番傷の浅い、合理的な方法を探してるだけ」
冬真の唇が震えた。
何も言えなかった。
私はバス停へ向かった。
「清良!」
背後から数歩追ってくる。
「じゃあ、どうすればいい?」
「何をすればいいか言ってくれ。全部するから」
足を止めた。
振り返る。
「何もしないで」
冬真が固まった。
「病気は自分で治す」
「私の人生は、私が決める」
一つずつ、はっきり言った。
「あなたは、何でも合理的にして、穏便にして、損失を小さくするのが得意だった」
「でも私はもう、あなたの合理性なんていらない」
ちょうどバスが来た。
乗り込み、ICカードをタッチする。
一番後ろの窓側へ座った。
バスが動き出す。
窓の向こうで、冬真はまだ同じ場所に立っていた。
両手を力なく下げ。
どうすればいいか分からない人間のように。
街灯に照らされ、影だけが長く伸びていた。
私は視線を戻した。
前だけを見た。
8
美咲が訪ねてきたのは、五回目の抗がん剤治療が終わったあとだった。
治療を終えて帰宅し、ソファで白湯を飲んでいた。
インターホンが鳴る。
結衣だと思ってドアを開けると、美咲が立っていた。
看護師の制服ではない。
アイボリーのコート。
相変わらずきれいに整えた化粧。
手には果物の入った袋。
「入ってもいい?」
二秒ほど見つめた。
それから体をずらした。
部屋へ入った美咲は、狭い室内を見回した。
視線がハンガーに掛けてあるニット帽で止まる。
治療後、外に出る時に使っているものだった。
少し黙ってから口を開いた。
「冬真に……様子を見てきてほしいって言われたの」
私はソファへ戻った。
果物には触らない。
「もう見たでしょう?」
美咲の表情が少し固くなる。
向かいの椅子へ座った。
「清良が私を憎んでるのは分かってる」
私は何も言わなかった。
「でも、説明はさせてほしい」
「あの時、本当に清良を傷つけるつもりはなかったの」
「冬真は、清良と一緒にいてずっと苦しそうだった。私はただ、正しい選択をする手伝いをしてるつもりだった」
「正しい選択」
その言葉を繰り返した。
「そう」
美咲は真剣に頷いた。
「だって今、冬真は――」
「患者も診られなくなってる」
笑顔が止まった。
私は美咲を見る。
「それで今日ここに来たのも、冬真に言われたから」
「私に、美咲もそこまで悪い人間じゃないって思わせたいんでしょう?」
「そうすれば、自分の償いが少しきれいに見えるから」
美咲の表情に亀裂が入った。
ずっと守っていた優しさと余裕が崩れていく。
「冬真が今どうなってるか知ってる?」
急に声が高くなる。
「あの空っぽの部屋で一晩中眠らないで、ずっとあの録音を聞いてるの!」
「ひどい不眠になって、病院にもかかってる。でも薬だってちゃんと飲んだり飲まなかったりで……」
「私は、清良の代わりになれると思ってた」
声が震えた。
「でも今、冬真が私を見る目は、全部を壊した人を見るみたいなの!」
感情で歪み始めた顔を見ていると、少しだけ哀れだと思った。
「それで?」
私は遮った。
「冬真から、清良のところへ行って、できるだけ穏やかに話せって言われた?」
「そうすれば私も、冬真の助けを受け入れやすくなるかもしれないって?」
美咲の唇が動く。
答えない。
「こういう方法、冬真はメモで何て書いてたっけ」
「段階的な脱感作?」
「清良!」
「私が抹茶アレルギーなの、知ってた?」
美咲が明らかに固まった。
「この前くれたクッキー、抹茶だった」
「冬真は七年一緒にいても覚えてなかった」
まっすぐ目を見る。
「でも、美咲はもっと知らないよね」
「あなたたちは六十三日もかけて、私を他人になるよう慣らした」
「なのに二人とも、本当の私がどんな人間かさえ知らなかった」
部屋が静まり返った。
やがて美咲が立ち上がった。
唇を強く噛んでいる。
果物の袋を乱暴にテーブルへ置いた。
「許さなくてもいい」
「言うべきことは言ったから」
玄関まで行き、突然振り返る。
「冬真、本当に後悔してる」
「この二か月で十キロ近く痩せたの」
「美咲」
呼び止める。
動きが止まった。
「あなた、ずっと言ってたよね」
「正しい選択をする手伝いをしたって」
私は静かに尋ねた。
「それで今は?」
「冬真とは、まだ付き合ってるの?」
美咲の手がドアノブを強く握る。
答えなかった。
次の瞬間、ドアが大きな音を立てて閉まった。
廊下を歩くヒールの音が遠ざかる。
乱れていて。
速かった。
私はテーブルの果物を見た。
袋の底に、一枚の紙がある。
美咲の字ではなかった。
冬真だった。
「会ってくれなくてもいい」
「でも、ちゃんと食べて」
紙を裏返した。
以前の外来予定表だった。
すべての時間帯に、赤い文字。
『中止』
端には、美咲が急いで書いたらしい字が残っていた。
『清良、お願いだから一度だけ電話して。冬真、もう何日もまともに眠れてない』
私は紙の冷たい縁を指でなぞった。
その時。
テーブルのスマートフォンが震えた。
登録していない白凪市内の固定電話。
見覚えのある番号だった。
白凪総合医療センター、救命救急センターの代表番号だった。
9
救命救急センターからの電話には、結局出なかった。
折り返しもしなかった。
あとで結衣から、冬真が極度の睡眠不足と疲労で倒れ、救急搬送されたらしいと聞いた。
命に別状はなかった。
それ以上は聞かなかった。
最後の抗がん剤治療を終えた日、結衣がケーキを持って迎えに来た。
まるで自分が何かを成し遂げたような顔で、箱を掲げる。
「お祝い!」
「まだ定期検査はあるけど、一番きついところは終わったんだから!」
私は心から笑った。
ろうそくの火を吹き消した。
次の検査結果が出るまで一週間。
ほとんど外出せず、部屋で本を読んだり料理をしたりした。
天気がいい日は、少しだけ近所を歩いた。
髪は短く生え始めている。
触ると少しちくちくした。
結衣は、この髪型のほうが、手術室の外で長い髪を乱しながら膝をついていた頃の藤崎清良より百倍いいと言った。
金曜日の午後。
結衣から電話がかかってきた。
声には、驚きと興奮が入り混じっている。
「ねえ、聞いて」
「何?」
「冬真、今日、院内調査委員会の事情聴取に出たんだって」
私は窓辺にもたれた。
「それで?」
「全部認めたらしい」
「記憶喪失を装ったことも、離脱プランも、録音も、美咲に協力させたことも、清良の様子をずっと記録してたことも」
スマートフォンを握ったまま黙っていた。
「聞いた話だと、冬真、もう抜け殻みたいだったって」
「最後に職員証を外して、署名済みの退職届を机に置いたらしい」
「病院の正式な処分が出る前に、自分から辞めたって」
窓の隙間から冷たい風が入ってきた。
「最後に一つだけ言ったんだって」
結衣の声が低くなる。
「『一番穏便に終わらせるつもりで、一番卑怯なことをしました』」
「『彼女には謝罪を受ける権利がある。でも、もう俺には何かを求める資格がありません』」
電話の向こうが少し静かになった。
「清良?」
「うん」
「……どんな気持ち?」
少し考えた。
「他人の話を聞いてるみたい」
「もう、私とは関係ない」
二日後。
検査結果が出た。
今回の検査では、明らかな再発や転移を疑う所見は見つからなかった。
今後も経過を見て、半年後にまた検査を受ける。
病院を出たのは夕方だった。
空の端が、やわらかな橙色に染まっている。
マンションの入口まで来ると、見慣れた男が立っていた。
冬真。
前よりは少しだけまともな格好をしていた。
髭を剃り、清潔なシャツを着ている。
ただ、その目だけは変わっていなかった。
昔の高瀬冬真にはなかった、不安そうで、何をしていいのか分からないような目。
私を見つけると、すぐに立ち上がった。
「検査、どうだった?」
「問題なかった」
冬真は大きく頷いた。
唇を強く結ぶ。
「よかった」
三、四歩離れたまま。
どちらも近づかなかった。
しばらくして、冬真が厚い封筒を差し出した。
「離婚の書類」
「俺が書くところは全部書いた」
「財産分与についても、弁護士と案をまとめてある。俺が主張できる分については、ほとんど放棄するつもりだ」
私は眉を寄せた。
「あなたのお金はいらない」
「清良」
声は、ざらついていた。
「金だけじゃない」
「清良が欲しかった自由も、ここに入ってる」
しばらく彼を見た。
それから封筒を受け取る。
「法律どおりでいい」
「残りは弁護士同士でやって」
冬真は力なく頷いた。
最後の夕日が横顔に当たっていた。
「清良」
「もし、いつか何か困ることがあったら……」
途中で止める。
「そんな日は来ないよ」
冬真は苦しそうに目を閉じた。
深く息を吸う。
それから背を向けた。
もう振り返らなかった。
私は入口に立ったまま、冬真の姿が見えなくなるまで見送った。
部屋に戻り、封筒を開けた。
離婚に関する書類。
財産分与の資料。
そして黒い日記帳と、一通の書類。
手に取る。
『国際緊急医療支援機構・医療スタッフ選考通過通知』
その下には、派遣前研修の日程が記されていた。
研修を終えたあと、海外の紛争地域へ派遣される可能性があるらしい。
まだ派遣地も出発日も決まっていなかった。
黒い日記帳の表紙には、万年筆で一行書いてある。
『逆算六十三日目』
『もし俺が遠くへ消えたら、清良は何の負担もなく生きられるだろうか』
10
離婚届が白凪市役所で受理された日は、驚くほどよく晴れていた。
私はあの日記を、一ページも開かなかった。
遅すぎた愛情でも。
後悔でも。
自分を罰したいという告白でも。
もう私には関係がない。
市役所へ行く前。
日記帳と、海外医療支援の選考通知のコピーをまとめて処分した。
振り返らなかった。
手続きが終わると、結衣がどうしてもお祝いをすると言い張り、二人で寿喜焼きを食べに行った。
グラスを高く掲げる。
「完全に自由!」
「藤崎清良と、その新しい人生に!」
笑いながらグラスを合わせた。
鍋から立ち上る湯気で、向かいに座る結衣の大げさな笑顔がぼやける。
「これからどうするの?」
少し考えた。
「まず仕事する」
「前に面接を受けた出版社から連絡が来たの。来週の月曜日から働くことになった」
「編集長が、文章を見る感覚がいいって言ってくれた」
そう口にした時、久しぶりに胸の奥に何かが戻ってきた。
社会の中に、自分の居場所がある。
自分で働き。
自分でお金を稼ぎ。
何時に起きるかも。
明日どこへ行くかも。
自分で決められる。
人生を自分の手に戻すというのは、こんなにも人を生かすものなのだ。
「最高じゃん!」
結衣は箸を鍋に落としそうになるほど喜んだ。
「それで……」
私は牛肉を一枚取った。
「お金が貯まったら、もう少し広い部屋に――」
「ストップ、ストップ」
結衣が手を振る。
「十年先まで一気に決めなくていいの」
「まずは今日をちゃんと生きなさい」
私も笑った。
そうだ。
今日だけで、もう十分だった。
食事を終え、二人でゆっくり歩いた。
花屋の前を通りかかった時、結衣が突然私の腕を掴む。
「待って」
店先に置かれた、白いデイジーの花束を指さした。
「これ、清良が好きな花でしょう?」
「一束買って帰ろうよ」
店に入り、丁寧に包んでもらった。
花を抱えて夜道を歩く。
風が吹くと、花びらに残っていた水滴が小さく揺れた。
昔。
冬真が初めて私にくれた花も、白いデイジーだった。
あの時、花束を差し出しながら笑った。
「飾らない花には、飾らない清良が似合う」
「ちょうどいいだろ」
当時の私は、「飾らない」という言葉を褒め言葉だと思っていた。
今になって思う。
冬真にとっての私は、感情が読みやすく。
行動を予測しやすく。
自分の計画に組み込みやすい人間だったのかもしれない。
私は花束を少し強く抱きしめた。
そして昔の、自分の人生すべてを誰か一人へ預けてしまった私に、心の中で別れを告げた。
部屋に戻り、白いデイジーを窓辺のガラス瓶へ挿した。
小さな1LDK。
清潔で。
静かだった。
どこを見ても、自分の物しかない。
もう誰かに許可をもらわなくても、自分の好きな速さで呼吸できる。
それから数か月が過ぎた。
出版社の仕事にも少しずつ慣れた。
朝起きて仕事へ行き。
自分の給料で生活し。
半年後の検査の日をカレンダーに書き込む。
そんな普通の日々が、何よりも大切になっていた。
冬のある夜。
仕事から帰り、寝る前にスマートフォンを見ると、結衣からニュースのスクリーンショットが届いていた。
『海外紛争地域で医療支援団体の車両が襲撃。日本人医師一名と連絡取れず』
記事に冬真の実名はなかった。
ただ一文。
『連絡が取れなくなっている医師は、かつて白凪市内の総合医療機関で整形外科医として勤務していた』
数秒見つめた。
画面を閉じた。
もう一件、メッセージがあった。
海外からの知らない番号。
以前着信拒否を整理した時、漏れていたらしい。
前置きも。
説明もない。
たった一言だけ。
「今日、初雪が降った」
私はその言葉を見た。
ずっと昔の冬を思い出した。
けれど。
私の人生はもう、誰かが決めた終着点では止まらない。
メッセージを削除した。
番号も着信拒否にする。
それから灯りを消し、温かい布団へ入った。
窓の外では、本当に雪が降り始めていた。
かすかな音が窓辺に落ちる。
ガラス瓶の白いデイジーにも。
私は起き上がって見ようとはしなかった。
寝返りを打つ。
ほどなく、深い眠りに落ちた。
私が眠ったあとの深夜。
ベッド脇のスマートフォンが、音もなく光った。
表示は、
『発信者番号不明』
海外の衛星通信回線からの着信だった。
暗闇の中で、画面だけが長い間光り続けた。
着信音は鳴らない。
だから当然、誰も出ない。
やがて画面は静かに消えた。
窓の外では、雪がますます深くなっていく。
最後に残った小さな光も。
夜と雪の中へ、静かに飲み込まれていった。
【完】




