手術室の前で九時間も膝をついて祈ったのに、目を覚ました夫が覚えていたのは彼女だけでした
夫の高瀬冬真が事故に遭った日、私は手術室の前で九時間、膝をついたまま祈り続けた。
冷たい床に膝をつき、ただ生きていてほしいと何度も何度も願った。看護師さんが三度、椅子に座るよう声をかけてくれたけれど、私は動けなかった。気づいた時には、膝から血がにじんでいた。
幸い、冬真は助かった。
けれど目を覚ました彼は、私が妻だということだけを忘れていた。
宮本美咲のことは、覚えていたのに。
医師から言われたのは、無理に記憶を呼び戻そうとせず、強い精神的負担を与えないように、ということだけだった。
それでも冬真は、私が結婚生活の話をすると頭が痛くなると言った。美咲も「今は冬真が受け入れられる距離を守ったほうがいい」と私を諭した。
だから私は六十三日間、他人になることを覚えた。
自分から近づかない。
妻だと言わない。
毎日病室の外で、彼が会ってもいいと言うのを待つ。
美咲だけは、いつでも彼のそばにいられた。
それでも私は、いつか思い出してくれると信じていた。
六十四日目。
家で一本のボイスレコーダーを見つけるまでは。
再生ボタンを押すと、事故に遭う前の冬真の声が流れた。
「清良に聞かれたら、記憶を失ったことにしてくれ」
窓の外には、私たちが出会った年と同じような雪が降っていた。
私はボイスレコーダーを握ったまま、長い間そこに座っていた。
この六十三日間。
彼が忘れていたのは、最初から私ではなかった。
1
ボイスレコーダーはまだ手の中にあった。金属のケースは、掌の熱ですっかり温かくなっている。
冬真のところへ駆け込んで問い詰めようとは思わなかった。憎いのかと聞かれても、うまく答えられない。ただ、骨の奥まで疲れていた。
私は寝室へ入り、ベッド脇の引き出しの一番奥から茶封筒を取り出した。
二か月ほど前の検査結果が入っていた。
『子宮腫瘍・要精密検査』
『できるだけ早く再検査を受けてください』
赤いペンで囲まれた文字の横には、悪性の可能性を除外するため、詳しい検査が必要だと書かれていた。
日付は、もう二か月近く前だった。
この六十三日間、私は冬真がいつ私を思い出してくれるのか、そればかり考えていた。
自分の体も病気になるのだという、ごく当たり前のことさえ忘れるほどに。
しばらく検査結果を見つめたあと、私はもう一度折り畳み、コートの内ポケットへしまった。
翌朝七時。
私はこれまでと同じように、白凪総合医療センターの整形外科病棟へ向かった。
ナースステーションの若い看護師さんは、もう私の顔を覚えている。まだ治りきっていない膝の傷を見ると、休憩室から椅子を一脚持ってきてくれた。
「藤崎さん、まだ膝が治ってないでしょう。今日は座って待っていてください」
私はなんとか笑った。
「ありがとうございます」
椅子に座り、スマートフォンの検索欄へ文字を打ち込んだ。
子宮腫瘍。
再検査の遅れ。
悪性。
生存率。
検索結果が表示された、その時だった。
病室のドアが開き、美咲が保温ボトルを手に出てきた。
きれいにまとめた髪。胸元には主任看護師の名札。勤務中は仕事を理由にいつでも病室へ入ることができ、勤務が終われば「同僚」として冬真のそばに残る。
私を見つけると、一瞬足を止めたあと、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
「来てたんだ」
「今日は冬真、あまり調子がよくないの。もう少しあとにしたほうがいいと思う」
「分かってる」
「ここで連絡を待つから」
美咲は私を見た。
ほんの一瞬だけ。
けれど六十三日もあれば、その視線の意味くらい分かるようになる。
もう自分が勝ったと思っている人間が、負けた相手を見る目だった。
美咲が去ったあと、私はもう一度画面を開いた。
冷たい数字がいくつも並んでいる。
続きを読もうとしたところで、スマートフォンが震えた。
冬真からLINEが届いていた。
「今日は部長回診がある。誰かに君との関係を聞かれたら、友人だと言ってくれ」
友人。
七年間の結婚生活。
六十三日間の待ち時間。
それが最後には、「友人」という一言になった。
指先が冷えていく。
私は一文字だけ返した。
「分かった」
十一時を過ぎ、ようやく回診が終わった。
病室のドアの小窓から中を見ると、冬真はベッドに上体を起こしていた。事故で負った骨折もかなり回復し、顔色も最初の頃とは比べものにならないほどいい。
美咲は、私が徹夜で縫ったクッションに座っていた。
タブレットを手に何かを見せている。
冬真が画面を指さして何か言うと、二人は同時に笑った。
笑った時の冬真は、昔と何も変わらない。
少しだけ上がる口角。
細くなる目。
あの笑顔は私にだけ向けられるものだと、かつては本気で思っていた。
私は黙って椅子へ戻った。
かさぶたになった膝の傷が服に擦れ、鈍い痛みを訴えていた。
午後三時。
看護師さんが近づき、申し訳なさそうに声を落とした。
「藤崎さん、今日はもう面会できないかもしれません。先に帰って休まれますか?」
立ち上がると、脚はほとんど感覚がなくなっていた。
エレベーターの前まで来た時、スマートフォンにiCloudの共有通知が表示された。
私と冬真は結婚後、家族写真や結婚式の資料、生活上のメモを保存するために共有スペースを使っていた。事故のあと私はほとんど開いていなかったし、冬真も、私がもう使っていないと思っていたのだろう。
あるいは、端末を替えた時に私のアカウントを外したつもりだったのかもしれない。
けれど私のアクセス権は、残ったままだった。
通知には一行だけ表示されていた。
『離脱プラン――64日目・感情状態評価……』
指が画面の上で止まった。
その場では開かなかった。
エレベーターの扉が開く。
中へ入り、扉が閉まる寸前、廊下の向こうから美咲が歩いてくるのが見えた。
その手にあったのは、冬真のスマートフォンだった。
2
『離脱プラン』
その言葉が、一晩中頭から離れなかった。
翌日、私は整形外科病棟へ行かなかった。
諦めたからではない。
ようやく、自分の婦人科の再検査を予約したからだ。
取れた予約は午前十時。
白凪市東部にある白凪市立医療センターで、冬真が勤務する病院とは市内をほぼ横断するほど離れていた。
婦人科の待合室で順番を待ちながら、私は何となくスマートフォンを眺めていた。
すると、おすすめ記事の中に見覚えのある顔が現れた。
白凪総合医療センターが以前公開した医師インタビューだった。
白衣姿の冬真が、穏やかな表情でカメラを見ている。
『整形外科医 高瀬冬真』
『患者さんに安心してもらうことも、治療の一部だと思っています』
映像の中の冬真は、患者との信頼関係がいかに大切かを静かに語っていた。
患者に対しては、昔から優しくて信頼できる医師だった。
けれど妻に対しては、感情さえ観察記録に変えていた。
皮肉なものだと思った。
「217番の方、3番診察室へお入りください」
呼び出し音に顔を上げ、私は立ち上がった。
検査が終わると、詳しい結果は三日後になると言われた。
病院を出た頃には、もう昼近かった。
バス停の前で数秒迷ったあと、昨日開かなかった共有メモをタップした。
読み込みが終わる。
フォルダ名は、
『離脱プラン』
その下には、日付ごとの記録が並んでいた。
『58日目:情緒安定。自発的な身体接触なし』
『61日目:廊下での待機時間が3時間まで短縮。適応傾向あり』
『63日目:本人の退勤予定時刻に病院入口へ現れず。次段階への移行可能性あり』
どの記録の最後にも、冬真らしい冷静な評価が添えられていた。
『経過良好』
私はバス停に立ったまま、最初から最後まで三度読み返した。
この六十三日間、冬真はずっと私を観察していた。
時間を測り。
記録し。
評価していた。
まるで手術後の患者を経過観察するように。
その夜、かつて二人で暮らしていたマンションへ戻った。
冬真が「記憶を失って」から、私はずっと書斎で寝ていた。
寝室やリビングには自分の記憶が多すぎるから、「知らない女性」に勝手に触られたくない。
冬真にそう言われたからだ。
二か月近く、私は狭い書斎だけで生活していた。
硬いソファに座り、検査結果を膝の上へ広げる。
明日すぐ再検査を受ければ、まだ間に合うのだろうか。
でも明日は水曜日だった。
離脱プランによれば、整形外科の朝のカンファレンスが終わったあと、美咲が私と「偶然」廊下で会うことになっている。
そして冬真が、少しだけ私と話してもいいと言っている、と伝える。
二日続けて姿を見せなければ、冬真はきっとこう記録する。
『適応速度上昇』
そして、次の段階へ進む。
思わず笑ってしまった。
まだ希望が残っているからではない。
自分の尊厳が、どれほど丁寧に踏みにじられてきたのか、初めてはっきり見えたからだ。
冬真は言っていた。
少し耐えれば、清良は受け入れる。
たとえ私が本当に去るとしても。
その時を決めるのは、私であるべきだった。
彼のカウントダウンの中で、不要になった物のように処分されるのではなく。
画面が光った。
美咲からLINEだった。
「今、大丈夫? 冬真が、明日は来るのかって。少し話してみてもいいって言ってる」
その文章を見ていると、ひどく滑稽に思えた。
私と「少し話す」ことさえ、計画に組み込まれている。
私は短く返した。
「行く」
すぐに笑顔のスタンプが返ってきた。
窓の外では雪が止み、道路や屋根に薄い白が残っていた。
私は検査結果をもう一度折り、コートの内ポケットへしまった。
あと一日だけ。
待ってみようと思った。
3
三日後、病院から電話がかかってきた。
前回よりも、医師の声が明らかに重い。
「藤崎さん、どうしてここまで再検査が遅れたんですか」
「病変が以前より大きくなっています。悪性の可能性がありますので、早めに入院して詳しく調べたうえで、手術を考えたほうがいいでしょう」
私は廊下の隅に移動し、声を落とした。
「入院は、どれくらいになりますか?」
本当に不安だったのは、これから何か月もまともに働けないことだった。
家賃。
生活費。
入院中の細かな出費。
病気になったからといって、止まってくれるものは何一つない。
電話を切ったあと、バス停で預金残高を確認した。
もう長くは持ちそうになかった。
この数か月、私は仕事をしていない。
冬真の世話をするため、病院と家を往復することだけに時間を使ってきた。
残っていた貯金も、ほとんど底をついていた。
それでも午後には、冬真の病院へ向かった。
廊下へ出ると、美咲が向こうから歩いてきた。
手には、きれいに包装された箱を持っている。
「これ、清良に」
明るく笑った。
「最近ずいぶん痩せたって聞いたから。休みの日にクッキーを焼いてみたの。持って帰って食べて」
蓋には手書きの小さなカードが貼ってある。
『笑顔でいてね』
箱を開けた。
抹茶クッキーだった。
アイシングで、小さな笑顔まで描いてある。
私は抹茶に強いアレルギーがある。
少し口にしただけでも、唇や喉に症状が出る。
冬真には何度も話した。
七年も一緒にいた。
それなのに、一度もちゃんと覚えていなかった。
「ありがとう」
私は蓋を閉じた。
美咲が首を傾げる。
「食べないの? せっかく練習したのに」
「家で食べる」
「そっか」
それから何気ない調子で付け加えた。
「冬真、清良がだいぶ落ち着いてきたって喜んでたよ」
喜んでいた。
私はかすかに口元を動かしただけで、何も言わなかった。
美咲は病室へ戻る直前、もう一度こちらを振り返った。
最初の頃に見せていた申し訳なさそうな表情は、もうなかった。
残っていたのは、勝利を確信した人間の目だけだった。
私という駒が、自分たちの決めた道を予定どおり進んでいるか確認するような目だった。
夜、自宅のスマートフォンデータを整理している時、以前使っていたiCloudの共有スペースに新しいフォルダが増えていることに気づいた。
『新居の参考』
作成者。
高瀬冬真。
開いてみる。
暖色系のリビング。
大きな窓のある寝室。
ベランダの風鈴。
どの写真にも美咲のコメントがついていた。
「このソファ、かわいい」
「窓際には私の多肉植物を置けそう」
最後の一枚は、淡いピンク色の子ども部屋だった。
「いつか使えそうだね」
アップロードされたのは三日前。
冬真はまだ、記憶が戻っていないふりを続けている。
その一方で、美咲とは新しい家のことまで考えていた。
私と冬真の結婚式の写真は、共有スペースの古いアルバムにまだ残っていた。
そのすぐ隣に、新居の資料が並んでいる。
私は画面を閉じた。
無意識にコートの中の検査結果へ手を当てる。
紙の冷たさが指先に伝わった。
本当は、冬真の体はとっくに退院できる程度まで回復していた。
復職後の外来予定まで組まれ始めている。
事故後の状態が不安定だから。
美咲の付き添いが必要だから。
そんな言葉は全部、この芝居を私に信じ込ませるためのものだった。
私は長い間、動かなかった。
やがて自分のメモを開いた。
新しい一行を作る。
『明日。最後の日』
4
最後の日は、想像していたより静かに始まった。
午前九時。
小川莉奈から電話がかかってきた。
私と冬真、二人の共通の友人だ。
電話が繋がってもしばらく何も言わなかった。
「清良……冬真から、伝えてほしいって頼まれたことがあるの」
私は病院の廊下の壁にもたれ、深く息を吸った。
「言って」
「最近、少しずつ記憶が戻ってるらしいんだけど……戻るのは美咲のことばかりなんだって」
「清良との結婚生活に関する記憶は、事故のショックと結びついているのかもしれないって」
莉奈の声がだんだん言いづらそうになる。
「それで冬真が……穏やかに別れることはできないかって」
ちょうど看護師が処置用のワゴンを押して通り過ぎた。
車輪の音だけが妙に大きく聞こえる。
私はしばらく黙っていた。
「分かった」
「冬真に、ありがとうって言っておいて」
莉奈があからさまに息を吐いた。
「清良、あんまり思い詰めないで。冬真だってわざとじゃないし、記憶のことなんて本人にもどうにも――」
「うん」
「責めてないよ」
電話を切った。
三分ほど、そのまま廊下に立っていた。
それから私は初めて、看護師から呼ばれるのを待たずに病室のドアを開けた。
冬真はベッドでスマートフォンを見ていた。
私が入ってくると、顔を上げる。
「今日は連絡を待たなかったんだな」
「莉奈から聞いた」
冬真はスマートフォンを置き、落ち着いた顔で私を見た。
患者の家族に説明する時も、いつもこんな表情をしていた。
穏やかで。
理性的で。
自分が最も正しい解決策を知っているかのような顔。
「清良、君を傷つけたいわけじゃない」
「でも、自分の気持ちに嘘をつくこともできない」
「分かってる」
冬真は頷いた。
「美咲も、最近の君はかなり落ち着いてきたって言ってた」
まるで術後経過が良好な患者を評価するような口調だった。
「これからは、友人としてなら付き合えるかもしれない」
七年間見続けてきた顔を、私はじっと見た。
病院では患者に親切で、評判のいい医師。
自分の妻を追い出す時でさえ、最後まで穏便に終わらせようとする。
「分かった」
私がそう言うと、冬真の肩から力が抜けた。
「今夜はもう来なくていい」
「家でゆっくり休んで」
私は頷き、背を向けた。
ドアまで来たところで、冬真に呼び止められた。
「清良」
振り返る。
冬真は一瞬迷ってから、私のコートを見た。
「ポケットに入ってるもの、大事なものなら、そんなふうにずっと入れっぱなしにしないほうがいい」
視線を落とした。
左の内ポケットが少し膨らみ、白い紙の端が覗いていた。
赤い文字が半分だけ見えている。
『婦人科腫瘍・再検査……』
冬真は見た。
医師なのだから、その言葉が何を意味するのか分からないはずがない。
けれど次の瞬間、彼は視線を外した。
またスマートフォンを手に取る。
何も聞かなかった。
私は病室を出た。
長い廊下を歩き。
エレベーターに乗った。
扉が閉じる。
私はコートの内ポケットに残った折り目を見下ろした。
冬真は確かに見ていた。
それでも。
何一つ、聞かなかった。
その夜、私はボイスレコーダーの音声をすべてデータ化し、まだ繋がっていたiCloudの共有スペースへアップロードした。
ファイル名は一文字だけ。
『返』
それから白凪市立医療センターへ向かい、そのまま入院手続きをした。
選んだのは普通の大部屋だった。
入院中の細かな出費や、これから何か月も働けない間の生活費を考えると、手持ちの貯金だけでは足りない。
結局、大学時代からの親友、森川結衣に一部を借りることにした。
最後の荷物を取りにマンションへ戻った。
鍵は玄関の靴箱の上へ置く。
結婚生活に関係するものとして持ち出したのは、昔二人で提出した婚姻届の控えだけだった。
未練があるからではない。
あれもまた、自分が生きてきた時間の一部だったからだ。
玄関で数秒だけ立ち止まった。
でも、振り返らなかった。
翌日の午後、冬真は正式に退院した。
その夜、整形外科では以前から予定されていた小さな懇親会が開かれていた。
同僚の一人に記憶のことを聞かれ、冬真はグラスを手に、ごく自然に答えた。
「ほとんど戻ったよ」
そのあと、美咲の手を取った。
「これからは、美咲とやり直したいと思ってる」
個室が、一瞬静かになった。
驚いて二人を見る者。
目を逸らす者。
気まずそうに何も言わない者。
まだ法的には妻がいる男の告白に、素直に祝福できる人間ばかりではなかった。
その時。
冬真のスマートフォンに通知が届いた。
『共有ファイルが更新されました』
ファイル名。
『返』
美咲の顔色が変わった。
反射的にスマートフォンへ手を伸ばす。
「待って……開かないで」
けれど冬真は、もうタップしていた。
個室に、自分自身の声が流れる。
冷静で。
はっきりしていて。
何もかも自分の計画どおりになると信じている男の声だった。
「目を覚ましたあと清良に聞かれたら、記憶を失ったことにしてくれ」
空気が凍りついた。
冬真は慌てて再生を止めた。
それでも数秒で十分だった。
記憶喪失を装う。
清良は自分を愛している。
そして、美咲の笑い声。
全員が聞いた。
冬真が最初に見せたのは、恥ではなかった。
怒りだった。
だが次の瞬間、画面に別の履歴が表示された。
『新居の参考』
『藤崎清良――7日前にアクセス』
冬真の表情が止まった。
ようやく理解した。
私は、とっくにすべて知っていたのだと。
冬真は何度も私へ電話をかけた。
繋がらない。
そのまま車でマンションへ戻った。
玄関には、鍵だけが置かれている。
部屋は空だった。
私の物はほとんどなくなっていた。
冬真は家中を探した。
最後に、ゴミ箱のそばで古い再検査通知を見つけた。
赤く書かれた要精密検査の文字。
日付。
六十三日前。
冬真の手が止まった。
医師である彼は、誰よりもよく分かっていたはずだ。
婦人科腫瘍の再検査を六十三日放置することが、何を意味するのか。
しかも病室で、私のポケットから覗いた文字を一度見ている。
あの時は、何も聞かなかった。
冬真は慌てて通知を裏返した。
受診先。
『白凪市立医療センター』
次の瞬間。
車のキーを掴み、家を飛び出した。




