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手術室の前で九時間も膝をついて祈ったのに、目を覚ました夫が覚えていたのは彼女だけでした

作者:熾星
最終エピソード掲載日:2026/08/26
 夫の高瀬冬真が事故に遭った日、私は手術室の前で九時間、膝をついたまま祈り続けた。

 冷たい床に膝をつき、ただ生きていてほしいと何度も何度も願った。看護師さんが三度、椅子に座るよう声をかけてくれたけれど、私は動けなかった。気づいた時には、膝から血がにじんでいた。

 幸い、冬真は助かった。

 けれど目を覚ました彼は、私が妻だということだけを忘れていた。

 宮本美咲のことは、覚えていたのに。

 医師から言われたのは、無理に記憶を呼び戻そうとせず、強い精神的負担を与えないように、ということだけだった。

 それでも冬真は、私が結婚生活の話をすると頭が痛くなると言った。美咲も「今は冬真が受け入れられる距離を守ったほうがいい」と私を諭した。

 だから私は六十三日間、他人になることを覚えた。

 自分から近づかない。

 妻だと言わない。

 毎日病室の外で、彼が会ってもいいと言うのを待つ。

 美咲だけは、いつでも彼のそばにいられた。

 それでも私は、いつか思い出してくれると信じていた。

 六十四日目。

 家で一本のボイスレコーダーを見つけるまでは。

 再生ボタンを押すと、事故に遭う前の冬真の声が流れた。

「清良に聞かれたら、記憶を失ったことにしてくれ」

 窓の外には、私たちが出会った年と同じような雪が降っていた。

 私はボイスレコーダーを握ったまま、長い間そこに座っていた。

 この六十三日間。

 彼が忘れていたのは、最初から私ではなかった。
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