29_火車の調査録・2
#################################
火車の調査録・【祭】十日目の頃
#################################
――湿り気を帯びた重たい風が、急くように窓ガラスを叩く。
一ニ三五村から山を二つほど越えた先にある、寂れた民宿の一室。
六畳一間の和室には、煎餅布団が敷かれる余地もないほどに、古びた書物やコピー用紙の束が散乱している。
インクと古書のカビ臭い匂いが充満するその部屋で、火車はけだるげに長い黒髪をかき上げた。
前髪に混じる一筋の赤髪が、蛍光灯の頼りない明かりを受けて鬼灯のように揺らめく。
「……また何もなしね」
火車は読み終えた郷土史のページを閉じ、放り投げるように畳の上へと置いた。
バサリ、という乾いた音が、静寂に包まれた部屋に虚しく響く。
トーノを一ニ三五村に残してから、既に十日が経過していた。
その間、火車はこの民宿を拠点とし、昼夜を問わず調査を続けている。
調査対象はもちろん、あの奇妙な村と、そこに潜むとされる【どろどろ様】という妖怪についてだ。
だが、その成果は芳しくない。――いや、『不可解なほどに何もない』と言うべきか。
火車は古びた茶碗を口につける。コーヒーは既に冷めきっているが、特に気にすることなく流し込む。
彼女は民俗学の教授であり、同時に政府公認の組織【民俗信仰保護団体】の調査員でもある。
その頭脳と知識、そしてコネクションを駆使すれば大抵の情報は手に入る。――ハズだった。
だが、今回ばかりは勝手が違う。
まるで深い霧の中で迷子になってしまったような、見えない焦燥感が火車を苦しめる。
「……トーノは無事でやっているかしら……?」
ふと、独り言がもれた。
助手のトーノ。本名は佐藤望乃。
火車は『遠野物語』にあやかってトーノと呼ぶようになった。
どこにでもいるような、平凡で、少し泣き虫で、けれど時折驚くほど芯の強さをみせる女子大生。
トーノをあの村に残してきたことは、火車にとって苦渋の決断だった。
あの時、銃口を向けられた極限状況において、トーノの命を守る最善手は村人たちの要求――『トーノの村への滞在』を受け入れるしかなかったからだ。
いざとなれば、あの村に強行突入してトーノを連れ戻すだけの覚悟はある。
愛車のバイク――ファイヤーブレードを使えば、検問を突破することも難しくはない。
だが、それはしなかった。――いや、出来なかったのだ。
理由は、相手が妖怪だからだ。
多くの怪談や昔話がそうであるように、妖怪には『力のルール』が存在している。
【どろどろ様】の場合、【祭】に参加していることが『力のルール』の中核であることは間違いない。
トーノは今、妖怪のテリトリーに囚われている。――いや、正確に言えば『選ばれてしまって』いる。
もし外部から強引に介入し、無理やりトーノを連れ出したらどうなるか。
その結果、トーノにどのような災厄が降りかかるか――。
想像するだけで背筋が寒くなる。
だからこそ、火車は動かなかった。
トーノを安全に、かつ確実に救い出すためには、【どろどろ様】の正体を暴くのが絶対条件だからだ。
「待っていなさいね、トーノ……」
火車は自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がった。




