19_【祭】四日目・1
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【祭】四日目
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「うっ……!」
朝、内臓が裏返るような強烈な吐き気で起きた。
寒い。異常に寒い。
最高級の羽毛布団の中にいるなのに、まるで真冬の雨の中。
泥水に首まで浸かっているかのような、芯から凍える冷たさが襲いかかってくる。
「……う、うう……」
わたしは震える手で重たい布団を押しのけ、鉛のように重い身体を起こした。
部屋の中は深海のように暗く、そしてよどんでいる。
いつもなら風が木々を揺らす音が、小鳥のさえずりが、遠くで走るトラクターの音が聞こえてくるのに、今日に限って――何も聞こえてこない。
世界から『音』がごっそりと消え失せてしまったかのような、耳が痛くなるほどの静けさ。
嫌な予感がする。
昨日の『石は殿様』のような、愉快で奇妙な【守り事】の日じゃない気がする。
もっとこう……生物としての本能が警鐘を鳴らすような、死の匂いが充満している。
ヒリヒリとした殺気が、肌を刺す。
わたしは恐る恐る、神棚を見上げた。
黒い墨がじわりと滲み出てくる。
まるで見えない筆がそこにあるかのように、新しい【守り事】が浮かび上がってくる。
――『見ざる、触れざる』
「……え?」
見ざる? 触れざる?
文字通りの意味なら、見てはいけないし、触れてもいけないということ?
いったい何を? いったい何に?
そう疑問を抱いた、その時だった。
――ズル……リ。
外から、音が聞こえた。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
――ズル……リ……ズル……リ……。
重たくて、湿った何かが、地面を這いずり回るような音。
人が歩く足音じゃない。重い何かを引きずる音でもない。
もっと……得体の知れない『ナニカ』の音だ。
「……ッ!」
本能が絶叫した。
見ちゃダメだ。『アレ』を認識しちゃダメだ。
もし窓を開けて、外にいる『アレ』を直視してしまったら……【祭】は失敗となる。――いや、失敗だけならいい。それ以上の恐怖が待ち受けている気がしてならないのだ。
わたしは慌てて布団を掴む。
無理無理無理!
あんな化け物がうろついている外になんて、絶対に出られない!
今日は一日、この布団の中でダンゴムシみたいに丸まって過ごすんだから!
そう固く決意して、布団を頭から被ろうとした瞬間――。
「……トーノさん」
「ひぃっ!?」
玄関の外から声がして、跳び跳ねるほど驚いてしまった。
し、心臓が口から飛び出るかと思った……。
「その声は……平八郎さん?」
「今日の【守り事】は、これまでとはまるで違う。覚悟してくれ」
いつもの優しい声とは違って、緊張で張り詰めた声だった。
「は、はい。覚悟します。……でも、家に閉じこもっていれば――」
「ダメだ。家に閉じこもったままだと、【祭】は失敗になる」
平八郎さんはピシャリと言った。まるで部下を叱る上官のようだ。
「あ、あんなのが外に居るのに、外に出なきゃないんですか……!?」
「ああ、そうだ。家に閉じこもったままの祭り事なんてありゃしねぇだろ?」
た、確かにその通りだけど……。
でも、イヤだ。アレは、恐ろしい。
アレは、この世に居ていいモノじゃない……!
……もしかして、アレが【どろどろ様】なの……?
あんなに禍々しいモノを、この村は神様として崇めているの……?
「トーノさん、急いで外に出てくれ。このままじゃ【祭】は失敗になる。おりゃあが付いてる。おりゃあを信じてくれ」
平八郎さんは外からわたしを励ましてくれている。
わたしは、わたしは――。
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「……目は閉じるな。閉じれば歩けねぇ。だが、見るな。薄目を開けて、自分の足元だけを見ろ」
結局わたしは、外に出て、平八郎さんの案内に従うことにした。
恐怖よりも、助手としての義務感が少しだけ勝ったからだ。
「視界の端に何が映っても、絶対に反応するな。そこには『何も居ない』と思い込め」 「は、はいぃ……!」
「行くぞ。朝飯の時間だ。遅れれば目立つ。目立てば……気づかれるぞ」
一歩、また一歩。周囲を警戒しながら歩く。
集会場までの道のりが果てしなく遠い旅路に感じる。
足が重い。空気が重い。
――ピチャ……。
不意に、すぐ左側の側溝から音がした。
水たまりを踏んだような、濡れた音。でも、今日は雨なんて降っていない。
――フシュゥ……フシュゥ……。
空気が漏れるような、湿った呼吸音が聞こえる。
近い。すぐそこに居る。
手を伸ばせば届く距離に、『アレ』が居る。
心臓が壊れてしまいそうなぐらい、早く脈打っている。
見てはいけない。見つかってはいけない。
わたしは石だ。わたしは道端の石ころだ。ここには誰も居ない。
ふいに、視界の端っこに『ナニカ』が入ってきた。
わたしは慌てて目を閉じ、しゃがみ込んだ。
見ちゃダメだ!
気にしちゃダメだ!
怖い。怖い。怖い――。
でも……怖すぎて逆に確かめたくなる。
なぜ? このバグッた感情はなに?
薄っすらと開きそうになる目を、手でぎゅっと押さえる。
そうでもしないと、見てしまいそうだった。
――その時、ヌルリとした冷たい風が首筋を撫でた。
いや……これは風なんかじゃない!
耳元で、圧倒的な気配がした。
言葉はない。唸り声でもない。
ただ、圧倒的な存在感が、物理的な圧力となってのしかかってくるようだ。
いや! 来ないで……!
お願い、あっちに行って……!
――ぐちゃり。
耳元で、何かが潰れるような音がした。
粘着質な液体をかき混ぜるような音。
「……っ!!」
悲鳴が出そうになるのを、唇を噛み切るほどの力でこらえた。
口の中に鉄の味が広がる。
見てない! わたしは何も見てません!
私はただの散歩中の女子大生です!
お化けなんて信じてません!
妖怪なんて知りません!
全身の毛穴から冷や汗が噴き出る。
隣に居るはずの平八郎さんの気配すら感じられない。
――ズルリ……ズルリ……。
『アレ』が、わたしの周囲を這いずり回っている。
どうして? なぜ? いったい何のために?
ひゅう、と息を吸い込むような音がした。
もしかして……わたしの匂いを嗅いでいるの?
わたしから漂う、恐怖の匂いを。絶望の匂いを。
わたしは息を止めた。心臓の音すら止めたかった。
一秒一秒が永遠のように長く感じる。
このままじゃあ、わたしは、わたしは――。
――ズル……リ、ズル……リ……。
ゆっくりと、名残惜しそうに、その気配は遠ざかっていった。
興味を失ったのか、それとも――。
た、助かったの……? 本当に……?
わたしはヒザから崩れ落ちそうになる。地面に着く寸前、平八郎さんが掴んで止めてくれた。
「気をしっかり持て。行くぞ」
わたしは糸の切れた人形のように、力無く頷くことしか出来なかった。
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