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一ニ三五村のどろどろ様~火車女教授の現代妖怪譚~  作者: 綺村 亮介


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19/30

19_【祭】四日目・1

******************

【祭】四日目

******************


「うっ……!」

 朝、内臓が裏返るような強烈な吐き気で起きた。

 寒い。異常に寒い。


 最高級の羽毛布団の中にいるなのに、まるで真冬の雨の中。

 泥水に首まで浸かっているかのような、芯から凍える冷たさが襲いかかってくる。


「……う、うう……」

 わたしは震える手で重たい布団を押しのけ、鉛のように重い身体を起こした。

 部屋の中は深海のように暗く、そしてよどんでいる。


 いつもなら風が木々を揺らす音が、小鳥のさえずりが、遠くで走るトラクターの音が聞こえてくるのに、今日に限って――何も聞こえてこない。

 世界から『音』がごっそりと消え失せてしまったかのような、耳が痛くなるほどの静けさ。


 嫌な予感がする。

 昨日の『石は殿様』のような、愉快で奇妙な【守り事】の日じゃない気がする。


 もっとこう……生物としての本能が警鐘を鳴らすような、死の匂いが充満している。

 ヒリヒリとした殺気が、肌を刺す。


 わたしは恐る恐る、神棚を見上げた。

 黒い墨がじわりと滲み出てくる。

 まるで見えない筆がそこにあるかのように、新しい【守り事】が浮かび上がってくる。



――『見ざる、触れざる』



「……え?」

 見ざる? 触れざる?

 文字通りの意味なら、見てはいけないし、触れてもいけないということ?

 いったい何を? いったい何に?


 そう疑問を抱いた、その時だった。


――ズル……リ。


 外から、音が聞こえた。

 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


――ズル……リ……ズル……リ……。


 重たくて、湿った何かが、地面を這いずり回るような音。

 人が歩く足音じゃない。重い何かを引きずる音でもない。

 もっと……得体の知れない『ナニカ』の音だ。


「……ッ!」

 本能が絶叫した。

 見ちゃダメだ。『アレ』を認識しちゃダメだ。


 もし窓を開けて、外にいる『アレ』を直視してしまったら……【祭】は失敗となる。――いや、失敗だけならいい。それ以上の恐怖が待ち受けている気がしてならないのだ。

 わたしは慌てて布団を掴む。


 無理無理無理!

 あんな化け物がうろついている外になんて、絶対に出られない!

 今日は一日、この布団の中でダンゴムシみたいに丸まって過ごすんだから!


 そう固く決意して、布団を頭から被ろうとした瞬間――。

「……トーノさん」

「ひぃっ!?」

 玄関の外から声がして、跳び跳ねるほど驚いてしまった。

 し、心臓が口から飛び出るかと思った……。


「その声は……平八郎さん?」

「今日の【守り事】は、これまでとはまるで違う。覚悟してくれ」

 いつもの優しい声とは違って、緊張で張り詰めた声だった。


「は、はい。覚悟します。……でも、家に閉じこもっていれば――」

「ダメだ。家に閉じこもったままだと、【祭】は失敗になる」

 平八郎さんはピシャリと言った。まるで部下を叱る上官のようだ。


「あ、あんなのが外に居るのに、外に出なきゃないんですか……!?」

「ああ、そうだ。家に閉じこもったままの祭り事なんてありゃしねぇだろ?」

 た、確かにその通りだけど……。

 でも、イヤだ。アレは、恐ろしい。

 アレは、この世に居ていいモノじゃない……!


 ……もしかして、アレが【どろどろ様】なの……?

 あんなに禍々しいモノを、この村は神様として崇めているの……?


「トーノさん、急いで外に出てくれ。このままじゃ【祭】は失敗になる。おりゃあが付いてる。おりゃあを信じてくれ」

 平八郎さんは外からわたしを励ましてくれている。

 わたしは、わたしは――。



 ※-----------※



「……目は閉じるな。閉じれば歩けねぇ。だが、見るな。薄目を開けて、自分の足元だけを見ろ」

 結局わたしは、外に出て、平八郎さんの案内に従うことにした。

 恐怖よりも、助手としての義務感が少しだけ勝ったからだ。


「視界の端に何が映っても、絶対に反応するな。そこには『何も居ない』と思い込め」 「は、はいぃ……!」

「行くぞ。朝飯の時間だ。遅れれば目立つ。目立てば……気づかれるぞ」


 一歩、また一歩。周囲を警戒しながら歩く。

 集会場までの道のりが果てしなく遠い旅路に感じる。

 足が重い。空気が重い。


――ピチャ……。


 不意に、すぐ左側の側溝から音がした。

 水たまりを踏んだような、濡れた音。でも、今日は雨なんて降っていない。


――フシュゥ……フシュゥ……。


 空気が漏れるような、湿った呼吸音が聞こえる。

 近い。すぐそこに居る。

 手を伸ばせば届く距離に、『アレ』が居る。


 心臓が壊れてしまいそうなぐらい、早く脈打っている。

 見てはいけない。見つかってはいけない。

 わたしは石だ。わたしは道端の石ころだ。ここには誰も居ない。


 ふいに、視界の端っこに『ナニカ』が入ってきた。

 わたしは慌てて目を閉じ、しゃがみ込んだ。


 見ちゃダメだ!

 気にしちゃダメだ!


 怖い。怖い。怖い――。

 でも……怖すぎて逆に確かめたくなる。

 なぜ? このバグッた感情はなに?


 薄っすらと開きそうになる目を、手でぎゅっと押さえる。

 そうでもしないと、見てしまいそうだった。


――その時、ヌルリとした冷たい風が首筋を撫でた。

 いや……これは風なんかじゃない!


 耳元で、圧倒的な気配がした。

 言葉はない。唸り声でもない。

 ただ、圧倒的な存在感が、物理的な圧力となってのしかかってくるようだ。


 いや! 来ないで……!

 お願い、あっちに行って……!


――ぐちゃり。


 耳元で、何かが潰れるような音がした。

 粘着質な液体をかき混ぜるような音。


「……っ!!」

 悲鳴が出そうになるのを、唇を噛み切るほどの力でこらえた。

 口の中に鉄の味が広がる。


 見てない! わたしは何も見てません!

 私はただの散歩中の女子大生です!

 お化けなんて信じてません!

 妖怪なんて知りません!


 全身の毛穴から冷や汗が噴き出る。

 隣に居るはずの平八郎さんの気配すら感じられない。


――ズルリ……ズルリ……。


 『アレ』が、わたしの周囲を這いずり回っている。

 どうして? なぜ? いったい何のために?


 ひゅう、と息を吸い込むような音がした。

 もしかして……わたしの匂いを嗅いでいるの?

 わたしから漂う、恐怖の匂いを。絶望の匂いを。


 わたしは息を止めた。心臓の音すら止めたかった。

 一秒一秒が永遠のように長く感じる。

 このままじゃあ、わたしは、わたしは――。


――ズル……リ、ズル……リ……。


 ゆっくりと、名残惜しそうに、その気配は遠ざかっていった。

 興味を失ったのか、それとも――。



 た、助かったの……? 本当に……?

 わたしはヒザから崩れ落ちそうになる。地面に着く寸前、平八郎さんが掴んで止めてくれた。


「気をしっかり持て。行くぞ」

 わたしは糸の切れた人形のように、力無く頷くことしか出来なかった。



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