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66 黎明―日、出ズル

「じゃあ、この竹籠を持ってお好きな棚の位置に置いてくださいねぇ。着替えの浴衣は、あっちの壁側にサイズごとに棚に入れてありますから、それを使ってください。露天風呂は大浴場の左端にドアがあるので、そこから階段を下りればつきますから。滑って怪我しないように、ですよぉ。一時間後にお迎えに来ますので、来た道にあった休憩所にいててくださいねぇ。あそこのドリンクは全部無料なので、何杯でもおかわり自由ですよぉ」


 てきぱきとあちらこちらを指差しながら、間延びした喋り方で説明を終えた天翔は、疑惑の眼差しを孝里に向けた。


「ホントに一人で大丈夫ですかぁ?」

「はい。ホントに一人で大丈夫です。もうだいぶ調子が戻ってきましたし」


 道中、孝里の不調を心配するあまり、天翔は入浴介助を提案していた。しかし孝里はそれを断っていたのである。だって恥ずかしいし、そこまで手をかけさせるわけにはいかないという罪悪感があったからだ。


「……わかりましたぁ。もしも何かあった時は、大浴場にも露天風呂にも呼び出しボタンが設置されているので、それを押して読んでくださいねぇ」

「はい」

「それでは、ごゆっくりぃ」

「はい。ありがとうございます」


 天翔が去り、広い脱衣所には孝里一人が残された。ドライヤーやエチケット用品が設置されている横並びの鏡台と、配置されている十何列もの脱衣棚の光景は、まるで温泉施設のようだ。


「温泉が敷地内にあるなんて。黎明社ってすごいなぁ」


 浴衣を一着選んで、隣の棚に畳んで積み上げられている真っ白でふわふわなタオルを上に重ね、大浴場の出入口に一番近い場所で服を脱ぐ。指輪の状態の瑞里を置いていくか悩んで、全裸のまま棒立ちになった。


「干戈って、着けたままお風呂に入っても苦しくないのかな」


 安西や鈴ヶ谷の職員たちは、トイレの際には干戈をデスクに置いて出ていっていた。いくら相棒であろうとも、陰部に触れるリスクのあることは当然避ける。異性が相手ならば尚更だ。干戈は大抵、武器の形でいることが多い。干戈にとってアクセサリー形態で直に素肌に触れることは、常に裸体を相手の素肌に押し付けていることに相当するのだと、以前安西の干戈である宮地佳奈子聞いた。なので、普段はアクセサリー形態になっていても、ポケットの中で登場と使用の時を待っているのだという。


 そのことを思い出して、孝里は瑞里を小指から外して掌に乗せた。やっぱり、瑞里もこのまま脱衣所に置いて寝かせたままの方がいいのかもしれない。もしも水中が苦しかった場合、睡眠中に双子の片割れに水責めにされたとなればショックを受けるはずだし、目覚めも最悪だ。


「瑞里」


 呼びかけてみるが、まだ返答はない。よっぽど激しい詰問を受けたのだろう。現実逃避の眠りは深い。精神状態と連携しているのか、初めて見た時はツヤツヤと漆を塗られたかのようだった指輪の表面は、今はくすんで曇っているように見える。


 畳んで竹籠の中に入れた作務衣の上に乗せる。


「お風呂入ってくるね」


 利用者は自分以外に誰もいないだろうが、気恥ずかしいので腰にタオルを巻く。大浴場の壁には山間から半分姿を覗かせる太陽——黎明社の社章を絵にしたようなタイル絵が広がっていた。風呂椅子に座って備え付けのシャンプーとリンスで髪を、ボディソープで身体を洗った。洗顔フォームはなかったのでボディソープの泡を利用した。


 全身を洗い終わるとスッキリした。ずっと感じていた髪と肌のベタ付きが取れた気がしている。一ヶ月昏睡していた間に清拭や洗髪はしてもらったのだろうが、やはり泡で洗うのと温かい湿ったタオルで全身を拭かれるのでは爽快感と満足感がまったく違う。


 おすすめされた湯船に向かう。説明されたように、大浴場の左端にドアがあった。すぐ手前にはシャワーがあって、露天風呂から戻って来た時に足についたゴミを洗い流すためのものだとすぐにわかった。


 ドアは曇りガラスでできており、外がまだ暗いので黒く染まっているが、左右にオレンジ色の光が滲んでいる。開いてみれば、光の正体がわかった。コンクリートで石を固めた階段の左右に設置されている、足元を照らすためのライトだった。


 水の音が聞こえる。その他に、木々のざわめき。涼しい風が素肌に張り付くようだった。階段から見下ろすと、暗い中にいくつものライトが光っている。漆黒の湯に伸びた光が反射してキラキラしていた。なかなかに大きな露天風呂で、二つに分かれている。大きな浴槽は半分が東屋になっており、その脇に半分ほどの大きさの浴槽がある。水風呂か何かだろう。


 階段は半螺旋状になっていた。手すりを掴んで降りる。階段は乾いていて、そして冷たい。階段を降り、墨汁のように黒い湯に足先が触れる。足の甲、足首、そして膝と段を下りるごとに温かな湯に沈んでいく。空を見上げると、東の空が藍色だった。今まで夜を追いかけるように西に移動していたので、まだ当分は暗いままだと思っていた。林立する木々が暗がりを作っていたせいもあっただろう。間もなく太陽が昇る。そちらの方角の空を一望できる場所に移動して、ゆっくりと腰を下ろした。その瞬間、ぞわぞわと快感がせり上がって来て、孝里は深く息を吐いて外へと逃がした。


 それでも残る快感に目を瞑って浸っていた。湯は、身体も心も解す。また眠気が煙のように頭の中に広がってくる。一ヶ月も寝こけていたのに、身体はまだ睡眠を欲しているのだ。


 このまま眠ってしまいたかった。だが、溺水の可能性があるのでそうもしていられない。日の出を見たら上がろう。天翔が迎えに来るまで、休憩室で横にならせてもらおう。孝里は、眠気に抗って瞼をこじ開けた。


 空は色を層に重ねていた。濃紺、藍色、少し白んで、淡いオレンジ、そして黄金。浮かぶ雲は絞れば白になるような黒い雲だ。その下には湖が広がっている。結構近い距離にあるらしい湖は、空の色を揺れ動かしながらも模倣しているが、スモークフィルムを張っているかのようにわずかに暗い。湖の対岸には山嶺が並んでいる。大浴場のタイル画のようだ、と思った。あの山間から朝日が昇って、天空に至るのだろう。


 こんなにも眺望に恵まれた景色を見られる露天風呂に入浴できるなんて。しかも、無料で。


 孝里は湯の中に沈んだ。髪が揺蕩(たゆた)い、肌をくすぐる。湯の中で目を開く。空と暖色にライトの光が揺らめいている。ギリギリまで呼吸を止めた。心臓が頭蓋骨の中に移動したかのように、激しい心拍が鼓膜に響く。これ以上は死ぬぞ、と身体が警告を発しているのだ。それでも孝里は耐えた。今は、どんなことでもいいから自分を苦しめたかった。自罰したかった。


 いよいよ限界に達し、孝里は勢いよく湯の中から顔を飛び出した。自分の息遣いが聞こえる。苦しみを味わうように、目は閉じたままだった。


「……?」


 目に、何かが触れる。それは、形のないものだった。風のように感触ではない。形もなく、感触もなく、けれども見えている。


 そっと目を開いた。


「……あ……」


 それは、光だった。照明や炎よりももっと眩しく、鮮烈な光。山間から、白銀の朝日が顔を覗かせている。雲の影が高く伸び、湖の水面はきらきらと光っている。


 黎明だ。


 生命を運び育む瑞々しい光が、孝里を照らしている。


「……っ」


 急激に込み上げてくるものがあって、孝里は息を詰めた。喉がぎゅっと詰まって痛み、鼻の奥もツンとする。目に涙が浮いてきて、髪から滴り落ちる水滴に混じって湯水に溶けた。


 血のような真紅の空は消えている。我が身から解き放たれた地獄の零れは再度封じられ、大勢の禍身が脱獄することも、数多の無辜の命が失われることもなかった。


 しかし、安心と安堵よりも恐怖と不安が混ざっている。自分一人の生死によって、何万何十万以上の命が危険に晒されるという重圧。今後、絶対に令架地獄顕現災害が自分の中から再発しないという確証はない。さながら地雷や時限爆弾だ。人を傷付けたい、ましてや殺したいと思った事など無い。大量殺人などもってのほかだ。でも、自分の意志とは関係なく、いずれ再び大勢の命を殺すかもしれない。


 どうしようもなく、死んでしまいたい、そう思った。しかし、生きなければならない。


 生きなければならない大罪人になど、なりたくはなかった。


 ただの人間として、生きていたかった。


 自分の罪を知った半擬神の子としての人生が、今始まった。


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