62 黎明―地下四五九階
「思い出したかい?」
女は座ったまま背中を伸ばした。組んだ脚を組み替え、白い左目を半月のように細め微笑みながら孝里を見下ろす。
「……僕は、死ななかったんですね」
「ははは、死なれたら困るよ。それこそ誇張表現なく、この世の終わりさ」
笑い事を言ったつもりはなかったのだが、女は笑った。
「ここがどこか気になっているだろう? ここはね、ジゴク——」
「地獄? そんな、嘘ですよね?!」
釈神に撃たれる直前に見た空の青さは幻想だったとでもいうのか。孝里は跳びかかる勢いで身を乗り出した。
「おっと、すまない、紛らわしかったね。ここは、通称【ジゴク】と呼ばれている地下牢獄の四五九階だ」
「語呂合わせ、ですか……」
「うん」
孝里はへなへなと腰を落ち着かせた。
「さて、あの後どうなったのか疑問に思っているだろうから説明するよ。斎場衆の何某によって柳谷町に解き放たれた禍身達も、全滅とまではいかなかったが粗方片付いている。避難命令も解除されて、町民達は日常生活に戻った。主戦場となった釈神の宗教施設の敷地と阿蝉山以外の土地や建築物の破壊も無いよ。ただ残念なことに……」
「……!」
不穏に口述を切った女に、心臓が嫌な衝撃を放ち全身に緊張を駆け巡らせる。
「死者が、出たんですか……?」
女は無表情で孝里を見、やがてへらりと顔を綻ばせた。
「いや、重傷者が二人だ。鈴ヶ谷の下田乙三級退獄師と、藤田乙二級退獄師」
「重傷……」
ひとまずは死んでいないことに安堵した。
「容体は……?」
「下田乙三級退獄師は両足の欠損。藤田乙二級退獄師は内臓と右眼球の破裂。命があっただけでも幸運なことだ」
凄惨な命の狩り合いの果てに勝ち得た生存権は、必ずしも五体満足の結果に収まるわけだはない。身体の欠損や精神崩壊、植物状態等の深刻な後遺症をせおうことになることはよくある話だ。孝里が三年前に負った右腕の後遺症は、本人にとっては充分な悲劇であることに間違いは無かったのだが、言ってしまえば度合いは軽い。
「んまぁ、我が黎明社が契約している治癒の異能力者の所に担ぎ込んだからね。足は生えるし、内臓は再生するし、眼球もまたポンと出てくるよ」
「そうなんですか!?」
「君のその右腕も、うちに来る場合のメリットとしてチョンパからの再生治療を行うって話があったと思うんだけど……影倚も奏士郎も話し損ねていたのかな?」
首を捻る白呂に、孝里は慌てて二人を弁明した。
「あの、いえ、ちゃんと説明は受けました。ただ、ちょっと忘れてただけで……」
「おお、そうかい。君は存外忘れん坊なんだね。……私達のことも忘れてしまっているみたいだし」
女は片笑んだが、嫌味でも皮肉も含まれてはいなかった。少し過去を懐古しているようにも見える。
鳳越奏士郎との間だけの忘却された空白期間だと勝手に思っていたが、思いもよらない人脈の範囲に広がっているのかもしれない。ますます、自分の知らない過去に何が起こったのかが疑問だ。
女の名を訊ねようと薄く口を開いたが、先に女の方から言葉が発せられる。
「釈神に祈瀬瑞里の所有権を奪われていたせいで君から溢れていた地獄は、彼女と再契約を締結したことにより終息。瑞里ちゃんは現在、ここにいる」
女は自分の胸の谷間を人差し指で示した。
「僕の胸の中、ですか……?」
「ああ、違う違う。私の服の中さ」
「な、何でそんなところにいるんですか!?」
孝里が赤い顔で激しく困惑しながら問いかけている間に、女は襟から手を突っ込んでチェーンにぶら下がる黒い指輪を掲げた。一目で瑞里と分かったのは、一度その姿を見たことがあるからだけではない。主従契約という双子や家族とは異なった縁の摩訶不思議な繋がりを感じるからだった。
「君が気を失っている間に、この子を強奪しにくる輩がいるかもしれなかったからね。ここが一番安全だったというわけさ」
「そ、うでしたか……ありがとうございます」
真面目ともマトモとも判じ難い手段だったが、一応は瑞里の隠匿と避難のための行われたことらしい。気まずく感じながらも、孝里はそろりと女の顔に目を向けた。
「それで、あの、貴女は……?」
「ふふ、そうだったね。まだ名乗っていなかった」
女はウォッシュブラックのカーゴパンツの数々のポケットを叩いて何かの感触を探し始めた。
「すまないね、ちょっと待ってて……。財布とか口紅とか呪符とかの小物を普段持ち歩くんだけどね、バックとかだと手荷物になるから、こういったズボンを好んで穿くんだけど……どこに入れたのかが時々わからなくなるんだよねぇ」
女は、年かなぁ、と言って笑った。髪色は鈍色ではあるが白髪交じりというわけではなさそうだし、何より外見はまだ二十代後半か三十代前半くらいだ。以前立松が言っていたのだが、「この年頃の女は真の大人の女性としての色気が出始める一番魅力的な年代らしい。若く瑞々しい果物も充分に美味いが、熟れ出した頃合いのものも美味いだろ? まぁ、簡単に言うとバナナみたいなもんだ」と直喩表現で説明してくれたが、孝里にはそれを異性に置き換えて想像することは困難だった。立松は話に聞き耳を立てていた女性事務員に後ろから頭を強かに叩かれていた。
目当ての物を探し当てたのかポケットからそれを引き抜いた。特殊清掃の勤務中に何度か実物を見たことがあるが、警察手帳のように二つに折り畳まれた漆黒革製のもので、表面だと推測される方に銀色の標章が松明の光を細く反射させている。
左右と下に配置された菱形の相中から半分露出した太陽。このマークが、女が所属している組織の象徴なのだ。
「私は、退獄組織【黎明社】社長及び、付属退獄関連養成学校学園長の神志名白呂という者だよ。君が会っている鳳越奏士郎や支塚影倚達の上司さ」
「! 車に乗ってる時の……」
釈神の宗教施設に向かう途中の車内で、影倚が応答した着信相手だった。電話と実声では違いがあるので思い至らなかった。
「そうさ。さぁて、そろそろ本題に入ってもいいかな?」
「……はい」
白呂は一度頷き、話を始めた。
「君達祈瀬双子の今後のことだ。そうそう、言っておくが、彼らの死や今回における騒動は君達のせいじゃない。悪いことなんて、一つもありゃしないんだ。自分を責めてはいけないよ」
「……」
「……とはいっても、責任感が強い君には、昇華するのに時間がかかるだろうがね」
煮え切らない様子の孝里に、白呂は優しいままの声音で宥めた。
「……大勢の死者が出ました」
「釈神に利用された信徒達のことかい?」
「はい。でも、彼らだけじゃないんです」
思い浮かぶのは、鋸よりも酷い刃毀れをした一振りの干戈だ。彼女の、向日葵のような笑顔を思い出す。今はもう、生前と付け加えて表現すべきだろうか。
「安西日華ちゃんのことだね?」
「……」
首肯すると、目から何かが零れ落ちた。ズボンに暗い色の染みが二粒。視界が水面のように揺蕩い、景色が滲んだ。目に張った涙の水面から、雫が千切れ落ちてはさらなる染みをズボンに足していく。
「おやおや、泣かないでおくれ」
女は牢檻の扉を開けた。孝里を拘束しているからか、それとも日本退獄組織二大巨塔の片方の長を担うに値する己が力量に確信があるのか、不用心にも鍵を掛けていなかったらしい。ハンカチを取り出して孝里の目元に当てる。香水をわずかに染み込ませているのか、心地良い柑橘系の香りにつっかえたような胸の苦しみが幾分か爽やかになる。
やがてハンカチが目元から離れた。
「彼女の身に降り掛かった不幸のことも、もちろん知っている。釈神と奴の協力者であった竹内が何故彼女を殺害し干戈にするに至ったかの動機もね。だがそれでもやっぱり、私は君達に一切の責任も過失も無いと断定しているのだよ」
「そんなはずは……だって……」
「釈神は瑞里ちゃんを手に入れるまでの使い捨ての道具にするために、竹内を利用し彼女を殺した。だけどこの悲劇は当然、君達が望んで起こったものではないだろう? 君達は何も知らず、何も企まず、ただ少し隠し事をしながらも日常を過ごしていただけなんだ。君も、瑞里ちゃんも、そして干戈にされてしまった安西日華ちゃんも、全員が巻き込まれた被害者なのさ。……だから本当なら、君をこんな風に拘束して牢獄にぶち込む必要だってないのに」
白呂のポケットの一つから何か小さな物が飛び出したかと思いきや、それは孝里の手を縛っていた拘束具を切り裂いた。それは頑丈な鎖でも特殊な力を施された呪具でもなく、何の変哲もないただの細い縄だった。
「……僕に対して不用心過ぎるんじゃないですか? 僕は半擬神ですよ」
「知っているよ。君のお父さんは擬神でありながらうちの生徒だったからね」
「父さんが擬神だったんですか!?」
驚愕の真実に孝里は大声を上げた。白呂は煩わしそうにもせず、硬い岩肌の地面に腰を下ろして胡坐をかいた。
「そうだよ、知らなかった? 一緒に暮らしてる時、よすがだけ何も食べていなかったり、別メニューだったりしてなかったかい?」
擬神は禍身同様、魂を主食にしている。人間が食べている物と同じ食べ物を食べていても、空腹は満たされるだろうが栄養にはならない。幼少期の実家の食卓を思い出すが、父はカレーも肉じゃがもオムライスも、何でも子供達と同じメニューを食べていた。外食も同様だ。
「いえ、そんなことはまったく……。同じ鍋から自分の分をよそって食べてました」
「あぁ……だから擬神としての力が弱まったわけだ。説明しておくと、瑞里ちゃんもよすが同様、人間の食事での栄養摂取が出来ない身体だったから、原因不明の栄養失調で入院していたんだよ」
「え……?」
長年の疑問だった原因不明の瑞里の病の正体が呆気なく発覚し唖然としている孝里に、白呂は問いかけた。
「君が半擬神なら、彼女も半擬神でしょ?」
そうだ。二人は同じ血を分けた正真正銘の双子なのだから、当然孝里がそうなのであれば瑞里もそうなのである。だが疑問が残る。
「は、はい。でも、僕は普通の食事でも元気ですけど……?」
孝里は今まで、普通の食事を摂って栄養を補ってきた。そのおかげで身長は百八十センチを超えている。体調は至って健康で、ここ数年間はインフルエンザ等の流行感染症はもちろん、普通の風邪にだって罹らなかった。
「んー、君の体質は母親似なんだろうね」
「……母さん、ですか?」
白呂から母親のことについての言及があるとは思わなかった。だが知っているのも当然だったなと、影倚が車内で母も黎明社の養成学校に通っており、鳳越響と共に父の同級生だったのだと言っていたのを思い出した。
「瑞里ちゃんはどちらかというと、父親の体質なんだ。彼女の身体は人間だったんだけど、消化器官は擬神。だから人間の食事を充分に摂っているのに身体は餓死しようとしていた。しかし反対に君は、消化器官は人間だけど身体は擬神のなんだよ。だから人間では即死しているはずの傷を負っても生きているし、医者の治癒の力がなくても自己治癒力のみで完全に回復している。いやぁ、医者いらずだね」
白呂は快活に笑ったが、孝里は自分がバケモノであると突き付けられているようで重い気分だ。自分のことを今まで人間だと疑ったことさえなかったのだ。
あとどれほど、自分でも知らない自分のことを知ることになるのだろう。
内気に考え込み始めてしまう意識を引き戻すように、バサバサと羽ばたき繰り返すような音が聞こえて来た。鳥にしては巨大な音だ。白呂が振り返ったので、孝里も彼女の後ろを覗き込む。
そうして、この地下牢獄がどのような構造になっているのかを何となく理解することができた。円柱状だ。孝里から見て対岸にも同じような牢檻があり、鉄格子が見えていた。その一室が閉じ込めているのは闇だ。この四五九階には地上からの光が届かないので、所々で燃え盛る松明の灯りが暗闇をオレンジ色に染めているが、おそらく孝里が収監されているこの牢檻以外に囚人はいないのだろう。
やがて、音の正体が現れた。一瞬、天使かと思った。純白の翼を生やした青年が、牢檻の前に降り立った。パーマなのか癖っ毛なのか判然としない、翼と同じ純白の髪。黄色いレンズのバイクゴーグルを装着している。服装は白の半袖パーカーとベージュのワイドパンツとラフな格好をしている。足が長くスタイルは抜群で、半袖から覗く腕には血管が隆起している。盛り過ぎではない美的な筋肉の体型をしている。脱いだら凄そうだ、と孝里は思った。
ゴーグルをつけていても美形であることがわかる。しかし、形の良い唇はへにゃりと口角が下に下がっていた。
青年の翼が背中に戻るように縮小していき、ある長さになると細い腕へと変貌した。孝里は見間違いかと目を見張った。
「おや、天翔」
どうやらこの純白の青年は天翔というらしい。
天翔はゴーグルを外し、首飾りのように下げた。大きな垂れ目がちな目は柔和で、黄金色の虹彩がキラキラと光っている。だがその光は松明の光ではなく、目に溜まった涙の揺らめきだった。
「せんせぇ~~~っ」
天翔はワッと母親を呼ぶ子供のように声を上げた。
「おや? どうしたの?」
「先生先生せんせぇっ! やっぱり始まっちゃいましたぁっ!」
何が始まったんだろう。天翔の様子から、不本意な面倒事が発生してしまったらしいことは明白だ。
「奏士郎さんと響さんの殺し合いが!!」
事は想像以上に重大だった。




