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59 黎明―約束の小指

 本能を慄かせていた悪穢の気配が褪せて、より目の前の光景に感じている自分の感情が顕著になった。


 秀作は自分の胸部を撫でた――しかしそこに、突き刺さるモノは何もない。


 釈神は確実に祈瀬瑞里ノ太刀で孝里を貫いているはずなのに、孝里の背から突き出て自分の胸をも貫いているはずの鋼の姿が見えないのだ。


 背後で秀作が驚駭に息を詰まらせたのを感じ孝里は安堵した。


 ――成功した。


 だがすぐに気を戦意へと切り替え、鋭く秀作を驚愕から引き戻す。


「秀作君!」

「!」

「釈神の腕を斬って!」

「 ! この……ッ 」


 釈神は慌てて太刀を引き抜こうと力を込めた。しかし孝里が阻む。釈神の手首をがっしりと掴み、目を細めて口角を上げた。


 背の手腕が高く振り上げ影を作る。その瞬間、赤い光が爆ぜて影が飛び散る。孝里の顔に降り注ぐのは硬く重い巨大な拳の残骸――いくつかの後光の眼球が叛意を翻し、背の手腕に光球を放ったのだ。


 光球を放った眼球は、裏切りの罰か力を使い果たしたのか、孝里を最期に見下ろし、パチンと風船ガムのように弾けた。


「――ありがとう」


 想いを託された。釈神を討ってくれ、と。そしてその想いを受け取ったのは孝里だけではない。


「オラァッ!!」


 秀作は身を翻して下から上へと日華を揮い、釈神の両手を斬り離した。


「 ――あぁ!! 」


 釈神の悲鳴は切断された両腕か、奪い返された瑞里へか、それとも裏切って弾けた信徒に向けられたものなのか、孝里には判然としなかった。


 だが、隙ができたのは確かな事。


 孝里は釈神の鳩尾に足の裏を埋め蹴り飛ばした。


 血の球が宙に浮かび、雨のように落ちる。


 釈神から見た僕もこんな感じだったのかな、と想起する光景は、釈神によって右腕を斬り落とされた後投げ捨てられた際のものだ。


「おい! ジジイ!」


 孝里の前に立った秀作が釘付けになっているのは、胸に突き刺さっている祈瀬瑞里ノ太刀と、執念深く柄を握り締めている釈神の両手だ。


「瑞里」


 起きて。




 ――目が開かれる。





 釈神の両手が怯えたように柄を手放し、地面にボトボトと落下した。


 祈瀬瑞里ノ太刀が完全に孝里の胸の中へと沈み、次の瞬間孝里が感じたのは胸の中で膨らむ力だ。それはまるで風のようにも感じたし、水のようにも思える。


「ッ!」


 右手の小指に焼け付くような痛み。かつて、瑞里と約束を交わしたその指の根元に黒い指輪が鈍い光を放っていた。


 穴が消え、悪穢の噴出が止まり、天へと繋がっていた螺旋が空気中に振り払われる。文言は火を滲み出し、雪のような火の粉となって風に浚われながら消失した。


「戻った!!」


 奏士郎は高揚した声で叫んだ。


「……どうなってんだよ」


 秀作は渋面で訊ねる。孝里の身に起こっている事の全てが理解不能だ。


「瑞里は僕の中の地獄を封じる為の一振りだったんだ」


 釈神の両手を剥ぎ取りながら言う。勿論、孝里の中に存在している異空間の事を知らない秀作は顔を顰める。


「ハァ?」

「僕の中には地獄が封じられれている扉があって、一振りの太刀が閂として設えられてた。その一振りは多分、僕の魂――」


 干戈だ。


 残り二組の閂鎹があった事を思い出す。


「僕が器で、魂が閂の一本。本来、僕のを合わせて三振りが必要になるんだけど、二振り足りてなかった。きっと、瑞里が二振り目の閂だ。十年前、瑞里が僕を刺した理由がわかったよ。僕の中で封印の一振りになる為だったんだ。……」


 閂が二本になった事で封印が強化され、悪穢の噴出が止まった。三体の禍身達の笑い声も気配も閉ざされている。しかし、女の禍身は「また隙間程度には扉を開く事ができる」と言っていた。扉は完全に閉じられたわけではないが、元の状態には戻す事ができたのである――自分の危険性を知らずに呑気でいられた時の状態に。


 自分の考察に疑問が浮かぶ。


 しかしそうであれば、最後の一振りはどこにあるのだろう。扉を完全に閉ざす為には、あと一振りが必要だ。父さんか? それとも――


 今は失われた実家のリビングの棚の上に花瓶と共に並べられていた写真立てに飾られた女性の顔を思い出す。


 家族写真に一枚たりともその姿を写した事のない、見知らぬ家族。


 ――母さん?


「 がぁあぁあぁあああぁぁああぁぁッ!! 」


 釈神の我武者羅な絶叫に、孝里の思考は現状へと引き戻された。


 出血する腕を振り回して血の線を空中に描きながら、釈神は藻掻いている。


「チッ、しぶてえな」


 秀作が指摘するのは、叛いた信徒の眼球が撃ち砕いた背の手腕である。もこもこと赤い肉を隆起させながら再生していく。


 それだけでは、背の手腕の再生と共に異形化が進行している。白骨後光は更に拡大し、目玉の数を増量していく。


「 何故だ! 何故だ! ……何故!? 」


 肥大化した目から涙を頬へと(はし)らせながら釈神は嘆いた。


「 世の為だったのに! 」

「自分の世の為、でしょう」

「他人を犠牲にしないと力を持てねえような奴が、救世なんぞほざいてんじゃねえよ!」

「 うるさい! 黙れ! 」


 後光の眼球がギョロギョロと蠢き、光球を乱射する。孝里は跳躍と走行を繰り返し、時には壁を走りながら躱した。秀作は日華で斬り裂いて軌道を両側へと逸らしていく。


「!」


 真正面至近距離まで迫った光球を首を仰け反らせて躱す。体勢を戻すと、間近に釈神の背の手腕が掌を広げていた。


「 祈瀬瑞里を返せェエェッ!! 」

「返す!?」


 中指を掴んで空中で宙返りをし、釈神を床に叩き付ける。


「瑞里は僕の片割れだ!! お前の所有物じゃない!! お前が殺した信徒達もそうだ!!」


 光球を乱掃射しながら蠢いていた眼球の動きが鈍る。釈神の強制力に抗いながら、視点を孝里に定めようと渾身の力を振り絞って抗っていく。


 その中にある、いくつかの小さな眼球。涙の筋を流すその眼球は、純粋無垢に釈神の願いを叶える為に自ら毒を含んだ子供や、妄信する親に無理矢理嚥下を強要された子供、はたまた毒とも知らずに飲んだ子供達のもののように思えた。


 ――たすけて。


 きっと、地獄とは天国のような場所だと嘯かれただろう。本当の地獄という場所がどんな所かも知らされずに、釈神に力を与える為だけの犠牲として命を利用された憐れな命の、解放を希って泣き叫ぶ声が聞こえる。


「生きて笑って、幸せになって死ねるかもしれない命だった!」


 足元に横薙ぎの手刀が滑り込むのを跳躍して回避する。だが背の手腕は孝里の足元で急に上昇した。手の甲で叩き上げられた孝里は腐った天井を貫いて空を背にしながら釈神を睨み下ろした。背中に木片が突き刺さるが、心の痛みには敵わない。


「 撃て! 」


 釈神の命に、眼球達は抵抗したものの抗えずに光球を放つ。落下しながら空中で身を捩るものの、足場になるものがない。奏士郎のように結界を展開する事もできずに被弾する。


 だが、威力は弱い。さっきまでの肉を貫き抉る力ではなく、強力な打撃の力に変質している。


「ぐうっ!」


 壁に叩き付けられて残骸が降り注ぐ。背中に突き刺さっていた木片は表へと貫通した。だがそれでも死なない。擬神の血が孝里を生かし、痛みを長引かせている。


 子供の眼球が弾けた。孝里は歯を食いしばった。きっと、力を使い果たして破裂した眼球の持ち主は次の人生を歩めないだろう。あれもまた血膨破裂だ。魂が弾けて消えていく。


 釈神も感じているはずだ。自分の一部となった信徒達の命が潰えていくことを。それなのに躊躇わずに攻撃を続けていく。


 秀作が釈神の背後に飛び込んだ。根本から背の手腕を切断しようと試みているのがわかった。


 後光の眼球もそれを発見したが、光球を練らない。釈神の命令を待っているのではない。自らの意志で攻撃しないのだ。


「 わかっているぞ! 」


 だが釈神は背中に手腕のみならず目まであるかのように秀作の攻撃を払った。後光の眼球を介して背後の視界も見る事ができるのだ。


「クソ!」


 秀作は悪態をついた。


「 死ね! 」


 孝里に背の手腕が迫る。硬く握られた巨大な拳は、座り込む孝里の全身を一撃で殴り潰せてしまう程の面積と化している。


 孝里は降り注いだ壁の残骸を払い除ける事もなく駆け出した。


 ――瑞里。


 心の中で呼びかける。今まで、ただ呟くだけだった片割れの名。悲しみを乗せて口遊むだけだったその名。


 決して、返答のなかった名を。


 影が迫る。濃く深い影が。


 右手を翳す。小指の黒い指輪は影を飲んで闇のようだ。


「約束を叶えて、瑞里」


――「私、孝里を守れるくらいに、強い干戈になる!」


十年前に交わした約束。


「――僕を助けて」


 壁から血が噴き出した。


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