57 黎明―いつか、同じ戦場で共に。
喉の奥が震えた。孝里は状態をバネのように起こし、人の理性を捨て去った咆哮を上げて奏士郎に掴み掛った。
「な、ジジイ!」
「!」
奏士郎は孝里の狙いが自分の首筋だと気付くと左腕を即座に向かわせて噛ませた。孝里の歯は喰い千切る事はできていないものの、咬合力が肉を潰して骨を軋ませる。だが奏士郎はまるで痛覚を感じていない超人のような余裕の表情で孝里の左手首を掴み、噛まれた腕に重心を駆けて押し倒す。
真正面から濃厚な悪穢の螺旋を浴びる。耳の横を不可解な文字が通り過ぎて行く度に、その文字の読みの声が羽虫の飛行音の如く聞こえてくる。
左の視界から電光石火の勢いで何かが接近してきた。上体を仰け反らせて躱すと、それは軌道をなぞるように再び目の前を横切っていく。
その正体を確認して、奏士郎は有り得ないとばかりに目を丸くした。
「孝里、お前何で……」
「右腕が……!」
秀作は唖然としながら再生している孝里の右腕を凝視した。それから転がっているはずの元の右腕のある場所に視線を飛ばすが、そちらの姿は消失している。代わりに釈神が背を向けて蹲っていた。
首を上下させている。限界値に達した空腹の体の前に投げやられたおむすびやパンを貪っているような必死の動作だ。
嫌な予感と悍ましい想定が継承を鳴らす。
消えた孝里の右腕と、何かを貪る釈神――。
常軌を逸し狂気に満ちた何かが始まる予感。
秀作は釈神の頸を今のうちに刎ねなければならないという焦燥感に駆られて一歩踏み出したが、孝里の人としての自覚を忘れたかのような唸り声と奏士郎の呼び起こそうとする声にそれ以上足を進ませる事ができなかった。
「孝里!」
信徒木像を全滅させた苛燐が孝里の右手を拘束し、床に抑え付けた。青白い熾火を灯す人型の炭が散乱しており、ボコボコと膨らんでは破裂していく。
「駄目よ! ソウシローを叩いたら!」
押え付けられてなお、孝里は喰い付いたままだ。腕に獣の唸りのような低い震動を感じ、奏士郎は孝里が敵に対する反射的かつ衝動的な自己防衛本能ゆえの攻撃ではなく、生存本能が元凶であると悟った。自己防衛本能も生存本能と同一の意味を持つが、現在の孝里の場合は暴力や死からの防御ではなく、生命活動の維持と継続の為の食欲を指す。
孝里は耐え切れぬ飢餓感に意識を乗っ取られている。餌の胸の奥で煌く魂を何とかして喰らいたくてしょうがない。首筋から血と共に吸い出そうとしたものの妨害されてしまった。次の手を繰り出そうにも身体を拘束されてしまっている。
もどかしい。もどかしい。すぐそこにあるのに。すぐそこにいるのに。
癇癪を起こして暴れ出す孝里にぐいっと顔を近付けて、奏士郎は孝里の身に起きている異変を観察した。
なんの変哲もなかった漆黒の目は赤く変色している。それは秀作の紅玉のような色ではなく、朱殷色をしている。連想してしまうのは血だ。獣の、人の、禍身の、そして擬神の。
「……」
黎明社の退獄師や忍備役の中でも怪力と名を挙げられる程の自分の力が圧されている感覚に奏士郎は表情を綻ばせた。擬神化故の増力もあるだろうが、成長由来の力強さも感じられる。
「大きくなったなぁ、孝里。力もこんなに強くなってよぉ」
感慨深いものだ。孝里の知らない、思い出せない十歳の頃の日々に思いを馳せる。孝里が尋常ではない飢餓感に苦しんでいるこの現状で悠長に感動している場合ではないのは百も承知だが、今はまだ取り乱すような状況ではない。
ボキ、と音が筋肉の中で震動と化して伝わった。だが奏士郎はズンと重力や圧力を凝縮していくような痛みはどうでもよかった。
「孝里、腹減ってるんだろ? 飯食いに行こうぜ。生き血や生肉に魂以上に美味い、生者だから味わえる色んな飯をさ」
へらへらと笑っていて危機感も緊張感もない。
「お前の好物は緑茶ミルクだよな。淹れてやるよ。瑞里は茶碗蒸しが好きで……でも銀杏は嫌いだったもんな」
「……み ずり……」
奏士郎の背後、蹲る釈神の隣で、小さな少女が今にも落涙しそうな鎮痛な面持ちで佇んでいる。身につけているのは病衣だ。十年前、生前の最期に着ていた洒落っ気のない索然無味な青白い現代の死装束。孝里には瑞里が見えていた。
――孝里、頑張って。しっかり。約束を叶えて……。
声が聞こえる。応援と懇願が。
「瑞、里……」
意識が鮮明になってきた。獰猛な飢餓感は消えない。だが理性と自我が徐々に戻って来る。
――あの禍身の応援の意味はこれか。
自我と理性を欠乏させる程の食人衝動、魂の渇望、飢餓――生存本能。禍身達ただ単純に現世での活動力の維持と力の増幅の為に食人していたのではないと身を持って知った。想像を絶する程のこれらの感覚を癒す為にも生命の捕食が必要なのだ。
地獄を脱獄したが故の刑罰とも考えられる。結局の所、罪人はあの世でもこの世でも辛苦するのだ。ざまぁない。
「そう、瑞里。お前の大事な片割れ」
孝里は奏士郎の腕から口を外した。生地に歯型の穴が空いて熨斗目色のシャツが見えている。
歯型から逃げるように硬く目を閉じ、ぐったりと項垂れる孝里の背を奏士郎は平手で打った。
「しっかりしろ! 孝里!」
「――」
体の奥底から湧き上がる不穏な気配は未だに孝里を苛んでいる。薄く開き続けている岩壁の扉の中から、三体の禍身達のせせら笑う声が立ち上って耳の中で渦巻く。
人であれ。擬えの邪神に心まで染まるな。
孝里は自分を戒めた。
ゆっくりと目を開く。吹き荒ぶ呪文の奥に釈神の背中が見える。瑞里の姿はもうない。力尽きたのか、それとも孝里の幻覚だったのか。
「……ジジイ」
秀作の声を追ってそちらを向く。そして少し後悔した。
向けられている眼光には警戒と怒り、当惑と……孝里の裏切りを非難する鋭い光が宿っていた。
「……秀作君」
―― ゔ、ぅうゔぅぅ ……
四人の視線が釈神へと符合した。
「うわ、何あれ」
苛燐が顔を歪めて言った。それは誰もが知りたがったことだ。
釈神の背が沸騰する水のように蠢いている。よく見るとそれえは手形だ。右手が押している。それは漆黒のローブに浮き出て徐々に大きく変異していく。
「ジジイの右手か……?」
「僕の?」
奏士郎は素早く切断された孝里の右手を探した。釈神の足元に、赤を斑に付けた白い木の枝のような物が転がっている事に気付くと、鋭く舌打ちをした。
「孝里の腕を喰いやがったな。クソ、気付かな」
孝里の視界から奏士郎が掻き消えた。一拍遅れで横一文字の風が顔へと吹き付ける。左側から木材が破壊される音がけたたましく鳴り響き、反射的に見やれば奏士郎が祭壇の残骸に埋もれている。
「おっさん!」
「ソウシロー!」
悲壮な声で苛燐が叫び、字通りひとっ飛びで奏士郎の許へと向かう。
「鳳越さん!」
駆け寄ろうとする孝里だったが、気配を感じて前には進まず横へと飛んだ。腹の手前を何かが過る。完全には躱せず、腹部を鋭いモノが斬り裂いた。
四本の線から血が染み出していく。幸いにも傷は浅い。
腹を斬り裂いた凶器が何か。孝里は襲いかかって来た方向を睨むと、そこには長く巨大な右腕があった。釈神の背中と腰を埋め尽くして生えている。
忌々しさを感じる程に見覚えのある無数の噛み痕で肌は隆起し、その傷痕を刻み付けたトラウマの禍身の腕を思い出させる腕の形をしている。
三つの関節のある大蛇のような腕に、かつて秀作の背に傷を付け今なお爪痕を残した鋭い爪。
秀作も三年前の悪夢と類似した特徴を想起したらしく、固唾を飲んで表情を強張らせている。
「イッテェな……」
身体に積もった木屑を払いながら奏士郎が立ち上がった。何やら様子がおかしい。だらんと左腕が脱力している。
「咄嗟に左腕で防御したが……」
折れている。
孝里が噛んだ事によりヒビが入ってたとは感じていた。そこにトドメの一撃を食らったのだ。
しかし奏士郎は痛みに顔を顰める事もなく、「あらぁ~」と言いながら困ったように後頭部を掻いた。
「すまん、孝里。腕が折れちまった。俺、ちょっと戦えねえ」
「そんな……」
奏士郎は今この場のおける最強戦力と言っても過言ではない。だが腕の骨折という戦闘困難な痛手を負った今、命の危険性は飛躍的に上昇する。彼の干戈である苛燐の戦闘能力は、半擬神であり現在擬神寄りに多少傾いている孝里や安西日華ノ太刀を所有している秀作の戦力総合値を遥かに凌いでいるものの、主の護衛という干戈としての本能が働く。
奏士郎はニッと笑顔を向けた。
「苛燐は俺の護衛につく。お前がアイツを殺してみろ」
無茶振りだ。と孝里は否定しようと開きかけた唇を引き締めた。
釈神を殺す。元よりそのつもりだ。だが――
「僕には戦う手段がありません」
「なぁに言ってんだよ。ある、じゃなくて、いる、だろ。――瑞里を取り返すんだよ」
「!」
瑞里ノ太刀は釈神が握り締めている。
「――わかりました、やります。でもまずは、この地獄の漏出を止めます」
未だに螺旋を描いて天へ昇り空を赤く濁す悪穢。おそらく、これがこのまま漏出し続けても令架地獄顕現災害の再顕現には至らないだろう。これは煙だ。危惧すべき業火は岩壁の扉の中に封じ込められている。
しかし、煙とて有害だ。柳谷町全域どころか近隣の町にまで広がっているだろうこの悪穢は、体調不良を引き起こす。酷ければ昏倒する者も出るだろう。
これ以上、被害を拡大させるわけにはいかない。
「どうやってだ」
奏士郎は問う。
「……何となく、方法が分かるような気がしているんです」
曖昧に孝里は答える。思いついているその方法が本当に正しいのかは判然としないが、それこそが唯一の方法であると確証を抱いている。
「それが、瑞里を取り返す方法でもある。……秀作君」
秀作は沈黙したまま剣呑な目付きで孝里を見た。
「力を貸して欲しい」
「……チッ」
秀作は釈神を見据えた。孝里には同意を示したとわかった。
――これが、最後の協力戦になるんだろうな。
この戦いが終われば、きっと自分は秀作の完全なる敵として日華の鋩を突き付けられる関係になるだろう。
『――いつか、同じ戦場に立って戦おう』
交わした約束を思い出す。あの時は味方同士として共通の敵を討ち滅ぼそうという意味だったのに。討ち果たされる敵が自分だったなんて。でも、これもまた報いかもしれない。
孝里は無理矢理納得して、釈神へと向き直った。




