56 黎明―需要と供給と犠牲
「――これで、妾達が言っている事が真であると理解したかえ?」
女の声に、世界が怯えるように震え出した。視界が切り替わり、孝里の目の前にはあの薄く開いた岩壁の扉が聳え立っている。
戻って来た。しかし、孝里の心は先程の光景の中に取り残されてしまっているかのうように、今をしっかりと認識する事ができない。
自分の身の内から飛び出して行ったモノが、授業やテレビで見た迎神門として形成された。日澄よすが顕現させたはずの地獄が、自らの体内から放出されった。父は何もしていない。姿さえ無かった。
扉の隙間の闇の中から、人外然とした三つの目が孝里を見下ろしている。
山羊や羊のような横長の瞳孔をした老爺の目。
長い睫毛の下の蛇のような女の目。
加虐心に満ちた獲物に狙いを定める猫のような男の目。
孝里には三つの目に写る自分の姿は小さく細く、どんな表情をしているのかは見えない。だが、三つの目が愉悦に三日月のように狭まったので、この三体のお気に召した絶望の表情をしているのだろうという事はわかった。
「嘘をつくな。どうせまやかしだろ」
「至って真実」
男が言う。
「信用できない。だってお前達は禍身じゃないか」
「其方は自分を信用できるのかえ? 何故なら其方は半擬神ではないか」
女が言う。同じ会話を交わした気がする。影倚にも言われた事だ。彼の言う事だから信憑性があって、だから希死念慮に似た使命を抱いたのに。まだ自分が人間のつもりでいるらしい事を自覚して、増々自己嫌悪が深まっていく。禍身に指摘されてしまったのも悔しく腹立たしい。
左手で拳を握れば、爪が掌に食い込んだ。その痛みは鈍い。
孝里も世間も、あの迎神門を開いたのは日澄よすがと断定して彼を罵倒し、恨み、殺したいという怨念を抱いている。秀作も両親の仇を討つために退獄師を目指しているのに。
斎場衆と結託し、地獄を顕現させた大罪人こそが日澄よすがである――十年のこの常識が覆ろうとしているのだ。この事が真実ならば日澄よすがは冤罪だ。そして本当の犯人は……
「僕が……?」
だが孝里には、十年前に斎場衆と関りを持った記憶はない。これもまた忘れているのだろうか?
「でも、だって、それなら……父さんは?」
「知らぬ」
老爺が答えた。続けて言う。
「爺や共は外に出ておったからな」
「はあ~ぁ。数百年振りに自由だと思ったのに、迎神門の破壊と同時に厄介な鎖のせいでまたこの地獄に逆戻りだったぜ」
十年物の落胆の溜め息を深々と吐き出して、男は嘆いた。
「……あの爆発は何だったんだ?」
「斎場衆が起こしたもんだ。奴等がオマエを攻撃して迎神門を開かせ、オマエは奴等の思惑通りに実行した。オマエにはそのつもりはなかっただろうが、共同作業だな。オマエは殺戮に加担したんだ。オマエは顕現を堪え切れなかったんだ!」
ハハハ……と、笑う男の目が閉じて見えなくなった。
「全部全部人のせい! 自分の大罪を父になすり付け、勝手に憎悪して殺す為の力を備えようと奮闘した。滑稽だなぁ……」
「……知らなかったんだ、何もかも。自分の事だって」
「不知は時に大罪を齎す。そして教えなかった者もまた大悪党。オマエの親きょうだいも罪人に変わりなし」
老爺の声は諭すようだった。自分の罪を認めさせるかのように。老爺は続けた。
「この世はおぬしにとって生き辛いものよ。人としても擬神としても。露呈すれば全ての人間がおぬしを退治しようと蜂起するだろう。あの黎明社の者共もそうだ。バレぬうちに、今のうちに、再び地獄を顕現させ、異形の罪人の世に変えてしまえばよい。おぬしと同じ、大罪を背負う者共の世に。さすれば、おぬしも片割れも、生き易い世となるだろう……」
声が優しく破滅を誘う。
「僕達が、生き易い……?」
三体は深く笑んだ。
「そうだ。ほら、あの閂の太刀を外せ。オマエの為に、世界を地獄に変えてやろう」
「……僕の為に……」
孝里はおもむろに微笑み、そして決心したように頷いた。
「――なら、余計に扉を開くわけにはいかないな」
孝里は再び扉を押し始めた。頭上から「な」やら「え」やら漏れ出た老爺と男の素っ頓狂な声が降り注いだが関せず続ける。女の禍身は手で口元を隠したかのようなくぐもった笑い声を上げていた。
靴底は砂を後方に寄せるばかりで一歩どころか半歩の進展もない。片腕だからではなく、例え右腕が健在だったとしても難航していた事は間違いない。三体の禍身は扉の縁を掴んでいるだけで押し開こうともしていなかった。単純な力不足である。
だが孝里は威勢を張った。
「手を離した方がいい。指を挟むぞ」
女の笑い声が更に激しく、そして甲高くなった。
「ホホホホホ! 威勢の良い! ……妾の美しい指を腫らすわけにはいかんのぅ」
しかし、女は腕を伸ばした。孝里の頭部程の指の太さだ。人差し指が頭上に伸ばされ、鋭利な親指の爪で肉を裂く。血が球のように膨らんだ。
「この血をお飲み」
「どういうつもりだ」
自分の血を飲ませようという女の意図が理解できず、孝里は数歩後退して睨み付ける。
「擬神も禍身も、命の巡る血肉を摂る事で力を得る。半擬神たる其方も同じ事じゃ」
「だからどうして……お前の血を飲んで力を得れば、この扉を閉じる事ができるのに」
敵に塩を送るような行為だ。愚行である。
「ホホホ……。閉じた所でまた開く。まあ、あの閂がある所で、どう開いてもこの隙間程度じゃがの」
つまりは、せっかく閉じてもこの三体の禍身は今の幅まで開くことができるという事だ。今までの努力は無駄だったという事である。孝里は歯噛みした。
「なら何で力を僕に与える」
「ポーン、とな、刎ねる所が見てみたい」
「何?」
主旨の欠けた願望に、孝里は聞き返した。
「唯一の神になると宣うあの男が気に食わん。しかし、妾は其方の中から一歩も出る事が叶わぬ。妾では奴の頸を捥ぐ事ができん……だから、其方じゃ。祈瀬瑞里を取り返し、あの男の頸を天高く刎ね飛ばしてみせよ」
「アイツを殺せる血なのか?」
女は目を細めた。
「妾の血とあの下賤を比べるでない。あの者を殺せるかどうかは、其方の力量次第じゃ。妾の血は、あくまでも其方が戦えるように右腕を生やし胸の穴を塞ぐ為のモノ。強大な力が欲しくば、飲み干すしかない」
「……デメリットは何だ?」
この禍身は善意で血を分け与えようとしているのではなく、自身が不快に思うモノを代理で駆除させる為だ。それはわかっている。だが、与えられた血に宿る効能が欠損と負傷の回復というメリットばかりではないはず。当然、悪い部分も含まれている可能性が高い。その説明も無しに力を受け取る事は不用心だ。後々周囲に甚大な被害を齎すような時限爆弾が秘められているのなら、この血を受け取る事は無い。
「退獄師共が、其方を躍起になって殺しにかかる程度よ。命の巡る血肉を喰らう行為は禍身や擬神の生の営み。それに準ずるこれもまた、其方の擬神の血を濃くし、人間の部分を薄める。ただそれだけじゃ」
「人じゃなくなるって事か」
「この量ならば、すこぉしだけ、のぅ。飲み続ければ完全な擬神と化すだろうが。今の其方には僅かに擬神の血が足りぬ。だから、阿蝉山で禍身に噛まれた腕に後遺症なんぞが残ったのじゃ。濃ければ今頃、幼年の願望通りに退獄師になっていただろうに」
右腕を見下ろしたが、そこには何もない。現実に置き去りにされている。
「少しでも人間でいたいのならばやめておけ。右腕も胸の穴もそのままじゃが。ああ、それに……」
――秀作が其方を擬神として殺しに来るやもしれん。
女は怖いモノを小さな子供に言い聞かせるように告げた。
――秀作君、日華ちゃん……。
安西日華の殺害、そして干戈への転生。その死と生は、どちらも望まなかったもの。今にも折れんばかりに刃毀れの酷い干戈・安西日華のその様相は、自分に降りかかる致死の所業への恐怖と絶望の証左だ。
干戈の刃毀れは、心の傷だ。刺された時に感じた苦痛は、きっと日華が死に際に感じたものよりも弱い。
釈神は、瑞里を獲得するまでの使い捨ての干戈とし日華を利用した。
あまりにも許し難い。可能な限りの痛みと苦しみを味わわせてから魂を破壊してやりたい。奴には転生の権利も価値も無い。
そう、孝里が釈神に抱いている憎悪と同じくらいに、秀作も釈神に、そして孝里に対して殺意を漲らせている事だろう。
――もう、あの子達に笑顔を向けて貰える事はないんだろうなぁ。
影を貫く光を、春の如き陽気を、そして日溜まりを失った。
秀作は干戈になった日華の正統な契約者になるだろう。そして、日華と共に自分を殺しに来る。真実の親の仇を討ちに、他の遺族達の想いを背負って。
「……それでもいい。当然の事だ」
孝里は手を椀の形にして血の球へと掲げた。
「僕がもしも、擬神として世界を壊そうとした時は、きっと秀作君と日華ちゃんが殺してくれる。確実に僕を殺してくれる存在がいるなら安心だ」
「其方、自死を選ばずその日まで生き続ける気か?」
「支塚さんが言ってただろ。僕は生きているよりも、死なれた方が迷惑がかかるって。それってつまり、憶測だけど僕が死んだらこの体に封じられてる地獄がまた完全顕現する。でも、もう一度封じる為の器が無い。それを防ぐ為にも、僕は生き続けなくちゃいけない。この地獄が消滅するまでは」「秀作に殺されたら?」
「秀作がそれまで其方を殺さんとは限らんであろう?」
「だから、方法を探すよ。あの子が心置きなく僕を殺せるように、この地獄と――お前達を消滅させる方法を」
「――ッ」
呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ!!
ホホホホホホホホホッ!!
フハハハハハハハハッ!!
内臓まで震動するような大笑だ。しかし孝里は少しの怯みも見せずに真っすぐ見上げる。
邪悪な禍身共の笑い声に、怯む理由等ない。
「何度も同じセリフを聞いた事がある! だがどいつも啖呵切ったばかりで、終ぞ叶わず次代に継承され続けたんだぞ!」
「おぬしで何十代目かのぉ!」
「笑えばいいさ。いずれ笑えなくなるんだし」
孝里は大見栄を切ったわけではない。確実にその気があっての言葉だ。ピタリと笑い声が止む。
「……ほぉ」
「小僧が」
低音だったが好戦的に弾んでいた。
女はまた「ホホホ」と上機嫌に笑った。
「何と生意気な事か。ふふ、ホホホ……」
指が下り、血の球が近づけられる。孝里は手の椀に血を掬おうと踵を上げた。
ズイッと男の腕が伸び、女の人差し指を軽く叩く。「は?」と口を開けた孝里に血の球が降り注ぎ、頭はすっぽりと血に呑まれた。上半身は血塗れになり、口の中には大量の血で溺れるほどだ。咽て噴き出すのを堪え、急いで飲み干し、全身を使って咳き込む。また三体の禍身が笑った。
「っ!?」
身体の奥底から、何かが込み上げてくる。それは二手に分かれ、一方は胸元に、そしてもう一方は右腕へと進行する。拍動に共鳴するかのように、熱が波紋している。
――感覚が伸びている。
と、感じた。顕著なのは右腕だ。
骨が伸び、筋肉がうねり、血管が張り巡らされていく。かつて、似た光景を目撃して衝撃を受けた事がある。
阿蝉山で巨頭の禍身の腕を特攻符で破壊した時だ。
「これって‥…」
あの時の禍身の再生に似ている。やがて腕は完全に再生し、三年振りに歯型の無い自分の右腕を見下ろした。
その右腕を目の前に掲げ、そしてそのまま胸に這わせる。自分の心拍を感じるが、日華の刃による粗い刺し傷が無くなっている。
禍身の血の効果だけじゃない。僕に擬神の血が流れているから、完璧な治癒はできたんだ。
僅かな歓喜と高揚。怪物としての自認。ただの人間は禍身の血を飲めば、その摂取量によっては死に至る。孝里が飲み干した量は、確実に人を殺す。
「さあ、お行き――汚物を飲む前に」
女は手を扉の中へと引っ込めた。
「汚物?」
胡乱な顔で問い返すが、女は何も答えず、目を閉じて闇に消えた。
「また会えるのを楽しみにしておるぞ」
老爺がそう言って女のように姿を消した。残った男の禍身の目としばし睨み合いが続き、禍身が声を発した。
「まあ、脱獄は今日じゃなくてもいいか。今でなくとも、いずれ扉は開く」
「お前達は、生前の悪行を反省して大人しく刑罰を全うして転生しようと考えないか」
「ばぁか。んな事考えてりゃあ、すでに地獄にいねえよ。地獄に堕ちるような罪人ってのは、自己愛ばかりが強くて誠実や真面目に対して怠惰で横着で物臭なんだよ。今、救われたい。今、楽になりたい。今が重要で大事なんだ。一秒先の自分を救う為に、悪い方にやる気を出すもんだぜ」
「それがお前か」
「そう。それが儂だ」
男は猫の目を三日月のように細めた。闇に融け始める。
「じゃあな。近いうちにでも儂を解放しろよ」
男の手が扉から離れ、ぱちんと指を鳴らす。
その瞬間、手の椀に満たした血を傾ける奏士郎が現れた。血のにおいを纏って、やけに食欲をそそる――生きた人間が首を晒して、喰らい付けるその距離に。




