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55 黎明―令架地獄顕現災害

 ギャッチアップされたベッドの上で、窓の外を眺めている少女がいる。


「瑞里?」


 閉じられたドア越しに小さなナースコールが漏れ聞こえる程の静かな空間に、孝里の声は大きく聞こえたはずだが瑞里は何の反応も示さなかった。


 窓に自分の姿は映らず、床に影は伸びていない。実体が無いことに孝里は気付くと、途端にもどかしい気持ちが押し寄せて来た。


「瑞里、すぐにここを離れて遠くに逃げるんだ!」


 聞こえていないことは当然わかっている。だが、何かの奇跡が起きてこの忠告が届いてくればいいと、一縷の望みをかけて声をかけ続けた。


「ここは今から地獄が顕現する。そうだ……禍狩か、黎明社に通報を……」


 当時、キッズ携帯を双子は与えられていた。毎日のようにメールや通話をしていた。インターネットにも接続していたので、検索すれば番号だってすぐに表示される。


「瑞里、お願いだよ届いて……父さんに殺される……」


 哀願は届かない。孝里は失望に蹲った。遠くから滲むような笑い声が聞こえる。あの三体の禍身の嘲笑だ。


 快晴の空と、風に揺れる木の梢を目に映していた瑞里は、ふと振り返った。


「! み、瑞……」


 自分の存在に気付いたのかと孝里は高揚したが、瑞里は成長した片割れの姿を見ても全く驚いていない様子に、すぐに期待は打ち砕かれた。瑞里には、孝里の姿は見えていない。


 ドアが開き、瑞里の表情が色づいた。孝里が振り返ると、そこには小さな自分がいた。


 八歳の祈瀬孝里だ。


「孝里!」


 華やぐ瑞里とは対照的に、少年孝里の表情は暗いものだ。沈んだ片割れの様子に、瑞里はきょとん顔で問いかける。


「孝里、どうしたの? お父さんは?」


 その父こそが、少年孝里をいじけさせている元凶だった。


「ちょっと仕事に行ってくるって……途中までは一緒だったんだけど」

「あれ? でも、禍身出現警報、鳴ってなかったよ」

「うん。でもお父さん、悪穢に敏感だから」

「……そっかぁ」


 瑞里はしょぼんと小さくなった。


「ごめん……」


 説得できなかった自分が悪いとでも言うように肩を竦ませた少年孝里に、瑞里は苦笑した。


「まあ、仕方ないよね……。お父さん退獄師なんだし、人助けに行く方が重要だよ」

「……でも、今日くらいは他の退獄師達に任せてもよかったのに」

「仕方なーい仕方なーい。孝里ったら、今日はお兄ちゃんの日なんだよ? お父さんが来るまで、可愛い妹を楽しませなくっちゃでしょ?」


 孝里が鬱屈すると、瑞里はいつも明るく振る舞って慰めてくれる。


 瑞里に手招きされて、少年孝里はとぼとぼと歩み寄っていく。ベッドサイドに腰を下ろして。白銀の光が降り注ぐ町の風景を一望した。


「お父さんが守ってくれてるから、この町は今、こんなにも穏やかなんだよ」

「うん……」


 父が命懸けで禍身と戦っている事を知らない人々は、平凡な日常を享受している。命を危ぶまれる事のない、理想の日常。その裏で行われる死闘を知るのは、いつだって後の事だ。


 父は自身の活躍を町民に誇る事はないし、恩着せがましく対価を求める事も無い。しかし、そういった情報は洩れるもので、町民は父が禍身を討伐して平和を齎してくれている事には気付いている。だから気を遣ってくれるし、慕ってくれる。中には退獄師として当然とばかりに更なる対策強化や対応の迅速化をフリーランスである父に呈して来る事があるが、そういった時は町の退獄組織が請け負ってくれる。


 父と町民、そして退獄組織の三つ巴の体制が構築されている。今回の戦いも、近いうちに風のように町中に伝播するだろう。


 他人が父を賞賛してくれるのは、正直言って鼻が高かった。照れ臭くもあった。少しだけ嫌だった。


 賞賛される程、家族の時間が少しだけ奪われているような気がしていたのだ。


 禍身の悪穢を感じれば、父はすぐさま飛び出して行く。一人の犠牲者も出さないために。それは正しい。だが、父が出動する事が当然になりすぎて、町民は「日澄よすがは必ず現場にいなければならない」というような新たな常識を無意識にも抱いている節があった。


 優先すべきは町の日常を守護する事。家族は二の次に。幼い双子のきょうだいも、退獄師を生業にしている父の姿を見て育ってきたのだから理解しているはず。それは自由の搾取だ。しかし、無意識下の傲慢さであってまったく悪意が無い。


 父も、そんな町民達の意思に気付いていたのだろう。当日企画していた家族行事を子供に謝りながら諦め、帰宅すると疲れ切ったように椅子に項垂れている姿を、何度か目撃した事があった。


 父は彷徨っているかのように見えた。少年孝里は、退獄師としての進退についてなのではいかと予想し、かつて訊いた事がある。


「退獄師が、嫌にならないの?」


 すると父は驚いた顔で数秒硬直して、孝里の髪を掻き混ぜながら気丈な声で言った。


「全然? 父さんの天職だし」


 だが、実際は命を懸けて守る事が嫌になったのではないか? 


「命懸け」を甘受する人々に失望したのではないか?


 だから、壊す事にしたのではないか?


 地獄を顕現させ、人は誰しも命を懸けて守る事が当たり前ではないのだと知らしめようとしたのではないか?


 これは全て孝里の予測で信憑性は無い。それに、これが本当にあの禍身達が見せる過去の事実であるのなら、今からわかる事だ。


 日澄よすがには地獄を顕現させる何かしらの理由があり、自分には何の理由も無い。意地の悪い禍身達の、自分を貶める為の虚言に違いない。


「孝里、あれとってよ」


 瑞里は床頭台の後ろを指差した。


「うん!」


 少年孝里は床頭台を動かし、手を伸ばしてそこに隠されていた紙袋を取り出した。


 再度ベッドサイドに座り、紙袋の中身を取り出す。それは、快晴と太陽、蝶と花、そして家族三人の似顔絵をプリントしたエコバッグだった。


 ニコニコと二人で顔を見合わせた瞬間――瓦礫とガラス片が吹雪いた。


「うわぁッ!!」


 孝里は腕で顔を庇った。弾丸のような瓦礫の礫も窓ガラスの破片も、孝里の身体を貫通して対面の壁を破壊する。生身であれば即死は免れなかっただろう。


 ――この爆発に巻き込まれた生身の二人の状態は酷いものだった。


 少年孝里も瑞里も、衝撃波や飛散物に被弾して廊下側の壁際へと転がされていた。全身は裂傷や刺傷、骨折等で死体のように見える。


 病院中から絶叫が上がった。少年孝里の「うぅううぅうぁあぁああぁああぁうぅ……」という苦悶の唸りが悍ましく聞こえる。


 孝里は胸を抑えて藻掻く自分を見下ろしていた。


「僕は、この状態から生き延びたのか……」


 擬神の血が死なせなかったのだろう。記憶にはない苦しみだ。


「!」


 少年孝里の胸の上に赤黒い渦が浮かび上がった。さっきも見た光景だ。これが一体何なのか、孝里には皆目見当もつかない。自身の中の擬神の力なのだろうか。


 赤黒い渦は螺旋状に天に昇り、一本の大樹のように快晴の空へと枝を伸ばしていく。そしてそれは脈打ち始めた。少年孝里の拍動に合わせるように。青に赤が滲んで広がり、白銀の陽光が赤く変色して降り注ぐ。


 見ているだけでも、その禍々しさに怖気が立つ。自分が自分の何を知らないのか、そして何が秘められているのか、それを知らないというのは、酷く不安だ。


「孝里……」


 不幸中の幸いとも言うべきか、瑞里はギャッチアップしていた事によってベッドの下敷きにはならず、隙間から這い出て来た。少年孝里と同様に重傷の体だったが、比較的身体を動かす事ができていた。


 瑞里は少年孝里が放つ渦を掌で押さえつけた。そして敵を捕縛するかの如く、呪詛呪文の文言が瑞里の全身へと纏わりついた。


「どうして……――!」


 瑞里の目が、幽かに赤く光っている。自分ばかりが半擬神だと思い込んでいたが、自分がそうでれば双子である瑞里もそうなのだ。石橋の先で影倚と別れる際にも話をしてたのに、すっかり忘れて衝撃を受けてしまった。


 だが、彼女には自分が半擬神だという自覚があるように思える。八歳ながら、この現状の凄惨さに狂乱せずに落ち着いている――落ち着き過ぎている。


「駄目だよ、孝里。我慢して」


 瑞里の不可解な警告に、孝里は眉根を寄せた。


「起きて、孝里。その扉を、開いちゃ駄目」

「扉?」


 真っ先に彷彿としたのは、三体の禍身を封じ込めている岩壁の扉だった。


「――あの扉の事を言ってるの?」


 だとすると、瑞里は何をどこまで知っているのだろうか。それ以前に――どうして知っている?


「頑張れ、頑張れ孝里……」

「み、ずり……」


 朦朧とした少年孝里の虚ろな目が、瑞里を見上げる。


「苦しい……」

「! 駄目……」


 少年孝里の胸が爆ぜた。拡大した渦の中から腸や龍のような赤い濁流が飛び出し、快晴の空に昇るとアーチ状に変形する。


 あれは何だ?

 何が起きてるの……?


 患者や看護師達も、同じ光景を見ている。だがそれに答える者は、当時誰一人としていない。


 唯一その正体を知っている者は、この災厄の十年後かた来た孝里のみ。


「――【迎神門(げいしんもん)】」


 それは地獄に通じ、禍身と擬神を現世へと迎え入れる門だ。地獄の完全顕現の、その象徴である。

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