54 黎明―胸中に宿るモノ
奏士郎が身じろぎした瞬間、秀作は臨戦態勢に入り攻撃を警戒した。奏士郎は馬鹿にしたように鼻で嗤い、血の滴る手首を再び掲げ――クライマックスを飾る打ち上げ花火の連発の如き轟音が響き渡ったのはその時だった。
「よりんさんの技か」
爆発の連撃。何か強大な力を打ち破る為に行使された事が察せられる。思考の直後、明空の異能の気配が増大した。彼もまた、強力な力をもってして、禍身を撃破せんと発揮したのだろう。
空気を叩くような破裂音が天空を波打つ。
天井から差し込む赤い光芒が昏み、水影の揺らめきが床に這う。天井の穴を見上げれば、血の膜が空を覆い尽くしていた。
「!」
この場所は屋根の下だ。血を浴びる事は無い。だからこそ、奏士郎は孝里の許を離れ、光芒の中に飛び来んだ。
手を椀にして血を受け止める。全身に血を被ったが、ガラスに弾かれた水のように滑らかに血は足元へと流れ落ちて血溜まりを広げていく。結界だ。
「甲一級の血なら、俺の血よりも……」
奏士郎は思案気に呟き、踵を返す。
無防備な奏士郎の背に信徒木像が腕を伸ばすが、苛燐がすかさず斬り落とした。
釈神は完全に逃げ腰だ。大勢引き連れていた信徒が、あっさりと祓除されていくのだ。
「ほら、孝里……」
奏士郎は孝里の傍らに跪き、手の椀を傾ける。
秀作は悍ましい光景に凍り付いていた。
――誰も、釈神が斬り落とされた孝里の右腕に貪り付いた事に気が付かなかった。
◇◆◇◆
目の前に大きな岩壁の扉がある。細く小さな線の鍵穴を開けた重厚な錠前と鎖、そして一振りの太刀の閂が施されているが、扉は奥に封じる何かによって強引に押し開けられて薄く開き、隙間から悲鳴や怒号が赤黒く悍ましい強大な力と共に逃げ出していた。濃密な悪穢を感じる。
それはかつて、感じたことがある悪穢だ。幼い頃――十年前の、九月十三日。後に令架地獄顕現災害と呼称される歴代最大最悪の地獄が顕現した日と同様のモノ。
「何で……」
ここが一体どこで、この扉は何なのか。孝里は判然としない状況に恐れを抱いた。
胸には二つの穴が空き、右手は欠損して断面が闇のように染まっている。不思議な事に、痛みは感じていない。
「僕、死んだのかな……。ということは、ここは地獄の入り口か……?」
岩壁の扉を見上げる。――地獄に繋がっている事には間違いないだろうが、どうやら正統な扉ではないらしい。
地獄の門番たる牛頭馬頭の姿はないし、何よりも賽の河原が無い。いつの間にか、この扉の前に立っていたのだ。
鎖と太刀が軋みながら懸命に完全開扉を防いでいる。だが突破されるのも時間の問題かもしれないという不安を煽る様相だ。閂の太刀は、扉の大きさに比べるとあまりにも不相応で、何故鞘ごと折れていないのかが疑問だ。それよりも疑問なのは、閂鎹は三対あるという事。そのうちの一対は太刀が設置されているが、他二対の閂は不在だ。つまりは、閂の数はあと二本なければならないということだ。
「どうして足りてないんだ」
だが、もしも三つの閂が揃っていても心許無い事に変わりは無かっただろう。
この錠前が崩壊し、岩壁の扉が開いてしまったらどうなるのだろうか。すぐに答えは閃いた。
きっと、十年前と同じ厄災が解き放たれる。
「閉じなきゃ」
二度と、あの地獄を顕現されてはならない。
孝里は扉に駆け寄って、身体を押し当てて踏ん張った。だが当然、巨大な岩壁の扉はビクともしない。
「ぐ、うぅううぅううぅ……!!」
食い縛った歯の隙間から唸り声が洩れた。その瞬間、扉の縁を巨大な三つの手が掴んだ。
鮮やかな真紅の爪をした女の手。
肥厚爪の古木のような老人の手。
無骨で若々しい男の手。
人の形をした手指――生前、強姦や殺人を犯した最悪の罪人達の手指。
あ けて よ ぉ
ひら け ひ ら け
くる し ぃ
た す け て
悪しき者達の懇願が聞こえてくる。
「その苦しみが、生前の悪行の罰だろ……! お前達が悪い事をしたから、地獄に堕ちてるんじゃないか……! 自分勝手な事、言うなよ……!」
いた ぃ よ ぉ
たす け て よぉ
「自業自得だ!」
ずる ぃ ず る ぃ
い きて い る おま ぇ は ず るい
おお ぜ い ころ し た の に
お まぇ が い っ ぱい こ ろし た の に
禍身達の妬みに塗れた泣き言の意味を図りかねて、孝里は反唱した。
「は? 僕が殺した? ……何を……」
いっぱい殺したとは何の事だ。
禍身達は愉快そうに哄笑をさざめかせた。
おま ぇ が ひ らぃ た じゅ ぅ ねん ま え
じ ごく を ひ ら いた
「僕が……?」
そう お ま え
禍身達は一斉に孝里を指差した。
お ま えが いち ば ん い きて ちゃ だ め
「し……信じられると思うか⁉ お前達は禍身じゃないか!」
で も お 前 は 擬 神 の 子
最悪 で 災 厄
お前 の 存 在 は この世 の 地獄
喋り方が徐々に流暢になっていく。
禍身が、鮮明な人としての自我を得ていくような不気味さを感じる。
「居心地が良い? さっきまで苦しいって……!」
発言の齟齬を指摘すれば、三体の禍身は沈黙した。しかしそれも束の間。
ホホホ……
呵呵呵……
ハハハ……
哄笑が響き渡った。
「――何百年も地獄におれば、身体の苦しみにも痛みにも慣れるというもの」
老爺の声が笑い混じりに言った。憐れな演技をやめ、余裕綽々とした軽快な声音だった。
「十八年、見ておったわ。其方の中から其方の事を」
女の声だ。続けて言う。
「今しがたの可愛き友への裏切りも、のぅ」
「無様で愉快だったぞ! ハハハッ!」
若い男の声が嘲笑う。
「黙れ!」
「あなや、怒ってしもうた」
老爺は声音を怯えさせたが、演技だという事は丸わかりだ。
孝里は扉から離れ、助走をつけて体当たりを繰り返した。こん邪悪な奴らを外に出してはいけないと、その一心で。
「扉を閉じる気かえ?」
「当たり前だろ!」
「十年前に開け放ったじゃねえか」
「どうせ嘘なんだろ!」
「嘘ではない」
答えたのは老爺だ。
「おぬしは十年前、この地獄を開いた。その胸から解き放ったのよ」
老爺の指が孝里の穴の開いた胸元を指差す。
「覚えていないのも仕方ねえよ。コイツの記憶は褪せている」
若い男の声が擁護し、女が続く。
「ならば、観せてやればよい。――あの日の真紅を」
バチンと脳が破裂したかのような衝撃と、目の前で弾ける白い閃光。
悲鳴を上げる間もなく、痛みも眩しさも錯覚のように消え失せた。
――いや、眩しい。
白銀の光が、窓一杯に差し込んでいる。見渡せばここは、見覚えのある白亜の部屋。通い慣れたその場所は、十年前、瑞里が入院していた病院の一室だった。
デジタル時計と一体化したカレンダーに記されている日付けは、2053年九月十三日 十三時三十分を指している。西暦を和暦に変換すると、令架三十五年。
令架地獄顕現災害、その当日だった。




