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52 黎明-六年の欺瞞の結果

 見えるのは、噴き上がる災い。崩落した天井から螺旋状に、血飛沫のようなそれは高く空へと伸びていく。


 血のにおいを帯びた吹き荒ぶ風は、常人であればすぐに押し飛ばされて地面を転がっていく威力だ。しかし、干戈・安西日華ノ太刀を所持し、常人を超越した身体能力を有した秀作は、何度も孝里の名を風に撒かれながら呼びかけ駆け寄った。


「ジジイ!」


 孝里は目を開いている。やはり、見間違いではなく、確かに孝里の虹彩は赤く光っている。だが、何度呼び掛けても反応はない。意識が遠い所にあるかのように虚ろだった。


「おい、ジジイ! 起きろ! これ、一体何なんだ?!」


 孝里の胸から放たれているモノからは、強烈な悪穢を感じる。悪寒が体内を駆け巡っている。心臓が爆発寸前で持ち堪えるかのような、痛みを伴う動悸を響かせていた。


「地獄、ですよ」


 耳の中でドンドンと鳴る心音に重ねるように、釈神が答えが聞こえて来た。


「この国で一番有名な、地獄。懐かしいですね」


 秀作の脳裏を過るのは、令架地獄顕現災害だ。しかし、すぐさま払拭する。その災いは、護国五指師達が収束したはずだ。


 釈神は秀作の不信を見透かしたかのように片笑んだ。


「十年前の令架地獄顕現災害は、収束はしましたが終決はしていません。完全なる消滅は、不可能だったのです」

「それが何でジジイの中にある?!」

「宿主ですから」


 あっけらかんと言い放たれる言葉に、秀作は大きく目を見開いた。何を言われたのか、全く理解ができない。

「十年前に開いた地獄も、祈瀬孝里の中から解き放たれた災いでした」


「……はぁ?」


 釈神は呆れ顔をした。


「貴方も理解力がありませんね。こう言えばお分かりですか? 十年前の令架地獄顕現災害は――祈瀬孝里が引き起こしたものなのです」


 ぶつ。と、全ての音が途絶えた。じわじわと染み出すかのように、甲高い耳鳴りが押し寄せてくる。


「嘘だ」

「信じるも信じないも貴方次第ですが……祈瀬孝里が貴方に誠実であったことなど、あるんですか?」


 釈神の声は、ぼわんぼわんと反響するかのように聞こえていた。


 嘘だと、どうして思ったのか。秀作は、孝里がこれ以上の詐称や嘘を行使していないという確証のない自信に縋りたかったからに他ならない。それは、まだこれまでの全ての日々が偽りではないと願っているからだ。


 オレに命を懸けたんだぞ。誠実の理由を記憶の中から引き摺り出す。三年前、闇の中で行われた惨劇と血のにおいを思い出した。あの日と同じ血のにおいは、濃厚に香り立っている。


 釈神の眼が赤く光り始めた。孝里と同じ、幽かな赤に。秀作は、奴の目から視線を逸らすことができなかった。頭の中がぼんやりとして、釈神の声が耳元で話されているかのようにくっきりと聞こえ始める。


「ずっと欺かれていたではありませんか。日澄よすがの子である事を隠し、我が目的のために大勢を利用してきた。貴方も、貴方の御友人や、大切な人達を。日澄よすがが最後に使った愛刀たる祈瀬瑞里を取り返すために」


 釈神の言葉は、秀作の心に墨汁のように染み込んでいく。黒く濁って広がり、在りし日々の日向のように眩しい思い出が陰り、そして侵食されていく。


 あの日々が嘘だったってのか?


「ああ、可哀想に」


 釈神の二つの赤い光が細い線になった。


「貴方から多くのモノを奪った邪悪を、そうとは知らずに慕い続けてきた哀れな人の子……その恨み、晴らさずにはいられねえよなぁ?」


 釈神の声と口調が変化した。それは、よく知る自分の声だ。


「正直になれよ。今は、退獄師としての正義感とか倫理とか、信条とか信念とじゃ、ンな仇討ちの邪魔にしかなんねえモンは捨てちまえよ。家族を殺された遺族の一人として、オレには祈瀬孝里を殺すことへの正統な理由が十分にある」


 後ろ肩から囁かれる嘲笑交じりの自分の声音が、これ程までに醜悪なモノとは思わなかった。だがこれが、自分の奥底の本心なのだろう。約六年もの間築き上げてきた関係は、もう木っ端みじんに瓦解している。孝里に対して秘めていた信頼も信用も――憧憬も。


「オレがこの手に掴んでいるモンは何だ? 日華だ。コイツの片割れのせいで殺されて、こんな姿になっちまった。父親も、その子供も――皆、テメエから大事なモンを奪っていく」


 秀作は、自分がいつの間にか日華を逆手に掴んで持ち上げているのに気付いた。鋩の標準は、優しい声音を作り、笑い声を上げ、自分を元気づけ、応援し、時々情けない声を漏らし、もっと時々人を守らんと威勢を発し、卵焼きをうまいうまいと言って飲み下す喉元を狙っている。


 額から鼻筋を通って汗が流れ落ちていく。そのくすぐったさに、少しだけ正気を取り戻したかのような心地になった。だが、正気とはどの状態を指すのだろうか。家族と幼馴染の仇を討たんと、六年間様々な情を抱いていた相手に刃を突き立てて、生き様の善行に関係なく与えられている輪廻転生の権利さえも奪ってしまおうとしているこの悪意も、果たして正気のうちだと言えるのだろうか。


 考え、惑う。


「刺せよ。それが正しいんだ」


 再び、もう一人の自分が唆す。


「そうすりゃあ、オレの大事なモンを奪ってきた仇の一つが死ぬぜ」

「――うわぁあぁああぁああぁあぁあぁッ!!」


 喉に熱くなるような痛みを感じながら、(くずお)れるように、落ちるように、刃を孝里の胸へと突き立てる。


 ――  しゅ う  ちゃん   や  めて


「ッ、ぁ」


 頭の中に響く、日華の弱々しい懇願。


 しかし、全力を出している自分の身体を急速に止める事などできはしない。


 喉仏に鋩が食い込み、じわじわと血が滲み出す――そんな幻覚が見えた。達成を逸ったが故に見えた幻想だった。

 日華の刃は何も刺さなかった。秀作の腕に伝わったのは、喉仏を貫く肉よりも硬い感触ではなく、横に刃を払われた強い衝撃だった。


 鋩が孝里の喉に擦れるその寸前で日華の刃が弾かれたのである。


 妨害した人物は――釈神だ。


「……は?」

「おや?」


 どういうわけか、釈神本人が驚愕している。まるで、妨害が自分の意に反した行動――何者かに一瞬操られていたのだとでも言うような反応だった。


 釈神は「はは」と笑った。


「やはり、双子――家族ですね」


 祈瀬瑞里ノ太刀の鈍色の光を見下ろした。


「祈瀬瑞里……流石は、日澄よすがの血を濃く受け継いだ娘だ」


 秀作は、先程の妨害が釈神ではなく、片割れを想う瑞里の一撃だという事を理解した。


 ほとんどの場合干戈は、主の意志意向に反発心を抱こうとも実行せざるを得ない。武器としての強制力――支配的な主従関係があるのだ。


 しかし、その強制力を凌駕する事ができる干戈が存在する。最もの事例は、干戈の等級が主よりも格上だった場合だ。だがそれでも謀反は稀である。


 瑞里は一瞬だけ、擬神たる釈神の力を超えて孝里を守った。だが全力を出し切ったのだろう。釈神は、瑞里の沈黙を掌に感じてほくそ笑んだ。


 次に瑞里が目を覚ました時、祈瀬孝里は死んでいる。広がり続けるこの地獄、常しえの真紅なる夕暮れを遺して。そうなれば、全てに絶望して自失し、ただの美しき己が干戈となり続けるだろう。


 釈神は華々しく輝かしい未来予想図を想起せずにはいられない。この世の穢れから身を守るべく高天ヶ原に逃げ込んでほとんど出て来ない神々の代わりに、超越跋扈する禍身から自分が祈瀬瑞里を振るって人々を救済する。そうして他の神を捨てさせ、信仰を我が身一極に集めて力を増し、人々の唯一の守護神として立場を確立させる。


 ――わたくしは、ずっと人々を守り示す存在になりたかったのだ。


 釈神には、純粋な善意と正義感が、いつから邪悪に穢れてしまったのかは、もう思い出せない。ただ、がむしゃらに駆け抜けてきたような心の疲労は感じている。どこの分かれ道を間違ってしまったのだろう。その道を故意に選んだのか、それとも迷いながらも、その道しかもう無いと選ばざるを得なかったのかもしれないし、甘い香りのする邪な気配に知らず知らず誘われたのかもしれない。


 一番になりたい。愛される者に、慕われる者になりたい。そのためには、心が健康な者ではなく、病んで救いを求める者に手を差し伸べる方が効率が良かった。


 信徒達は良く尽くしてくれた。

 数人の妻は良く愛してくれた。

 血を分けた子供達は、慕ってくれた。


 世界唯一の神になるという大義の為に犠牲にした大勢の命の為にも、更なる力を、わたくしは求める。


 その為には、わたくしを慕わない他人の命など不要だ。埃のように軽く、そして汚らわしい命を一掃しなければならない。


 退獄師は全滅させる。

 干戈は全て破壊する。

 斎場衆は、首魁を自分に冠するのなら兵隊蟻として利用してやってもいい。


 ――あの美しい御方も、きっとわたくしに情熱のある眼差しを向けてくださるはずだ。


 釈神は、呆然と項垂れている秀作に、再び異能で催眠をかけた。


 秀作には今、もう一人の自分が見え、声が聞こえている。本心の姿に擬態した、釈神が。


「さあ、もう一度、今度こそです。殺しなさい!」

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