49 匣入り娘―再起
――飛沫を散りばめたのは血ではなく、火花だった。
鋼と鋼が衝突する高く澄んだ刃鳴りが肌を震わせる。瑞里の刃が弾かれて、ぎらりと白い光を刀身に纏った。釈神が振り下ろした瑞里の刃を弾いたのは、刃毀れの酷い刃――日華だ。
「こいつを殺すのはオレだ! 死に失せやがれ!」
自分が放った罵声さえも八つ裂きに切り裂くかの如く、秀作が猛攻を揮。
「おやおや、じゃれついて……。まるで猫のようだ」
釈神はぎょろりと眼球を孝里へと向けた。
「足元にいられるのは邪魔ですね」
「がっ……」
鳩尾に尖った爪先が食い込んで、身体が浮いた。空中に血の珠が散らばったのが見え、降下。右側面を床に打ち付けた。
上手く呼吸ができない。強烈な吐き気と痛みで全身が痙攣した。目を開いているのに、視界が真っ白に眩んで何も見えない。心臓が暴れている。少しだけでも気を抜けば意識を失う。
――死んでいないのが不思議な容体だ。
「まあ、わざわざこのわたくしが手を下さずとも死ぬでしょう。肉親殺しでその干戈のように醜く刃毀れされてしまっては嫌ですしね」
釈神は汚い物を軽蔑するかのような眼差しで日華を睨み、艶めかしい仕草で瑞里の刀身を撫でた。怒りで孝里の意識が鮮明に晴れだす。
秀作が斬りかかり、受け止めた釈神。鍔迫り合いながら秀作は怒鳴った。
「黙れ! よくも日華を!」
喉元に食らい付かんばかりの迫力だ。
「お知り合いのようですね。もしや、貴方が秀ちゃん?」
釈神は冷笑を浮かべた。
「であれば、祈瀬孝里がオニイチャン、というわけですね。ずっと、喧しく騒いでいたんですよ。秀ちゃん、助けて。お兄ちゃん、助けて、とね。従順であれば、我が信者に下賜しても良いと考えていたのですが……あまりにも煩いので、近くに置いてやりたくもない」
「……どれだけ日華の命を粗末にすりゃ気が済むんだ……ッ!!」
「お前……!!」
日華が殺害され、干戈へと転生しているという事実に湧き上がるのは、怒りとそれを超越した殺意だ。
安西と日華が織りなす親子の光景が大好きだった。孝里も秀作も、幼い頃に親との交流は同じ事件の中で起こった個々の都合で断絶している。安西親子は父子家庭だが、明るく、日華の思春期で度々安西が肩を落とす姿が見られるものの、それでも二人が幸せだと心の底から感じているのが伝わっていた。
孝里にとって、二人が綾なす日常は、漆黒の闇と極寒の中に灯る蝋燭の火のように眩しくて、暖かくて、かけがえのない憧憬だった。
――それなのに、この男は蝋燭の火を消した。
あまつさえ、我が物顔で瑞里を揮って秀作へと襲い掛かっている。
「瑞里……」
傍らの匣に安置されている瑞里。釈神が奪った刃は、まだ干戈としては不完全だろう。刃と鞘は一心同体。鞘の瑞里が目覚めていない今、刃の瑞里も抗えない微睡みに溺れている。だから瑞里は人型にもなれず、拒絶も抵抗もできずにいる。
「どうにか、瑞里を取り戻さないと……」
秀作が戦ってくれている。隙をついて取り返し、鞘に納刀するのが一番の理想なのだが。
「クソ……」
呼吸する度に自分の血がにおう。日華の深く刃毀れした刀身は、体の中を粗く斬り貫いた。
再び、目が霞みだしている。ブランコのように、視界が遠近を繰り返し、シーソーのように意識が浮き沈みしている。
僕は、死ぬのだろうか。
父も殺せず、自分の知らない過去を知ることもできず……秀作に謝ることもできず、瑞里とまた、会話を交わすことさえもできずに。
願っても良いのなら、叶うのなら、藻掻いてでも生き続けたい。やりたいことや、果たさなければならないことが、まだまだたくさんある。
でも、自分じゃもう、叶わないのなら。
蛞蝓のように這いずって、匣に乗り上げた。死体色の冷たい頬に右手を添え、孝里は額を合わせる。胸元から滴る血が、雨音を立てた。
「瑞里、お願いだ。アイツに利用されても……皆を殺さないで。ずっと僕の中にいてくれたのなら、あの人達が僕にとってどれだけ大切な人達なのか、わかってるだろ……?」
「わたくしの干戈を汚すなァッ‼」
秀作の横腹を蹴り飛ばした釈神は、目を血走らせて孝里に飛びかかった。咄嗟に盾として構えた右腕に衝撃が走り、重みがパッと途絶えた。燃え盛るような痛み。ドタン、と音がして、視界の端に脱力した腕が落ちて弾んだ。
腕は脇腹を押さえる秀作の眼の前まで転がると、ずれた袖から夥しい歯型の傷跡を晒した。
「は?」
唖然とした秀作の声は、孝里には聞こえなかった。
釈神は、孝里の首を掴んで神楽殿の外へと投げ捨てた。瑞里との距離が、あまりにも呆気なく引き離されていく。
もはや、宙を藻掻く力さえも残っていない。空中で散らばった赤い数珠玉のような血が、左手の指先に当たって弾けた。左腕と同じように空中で靡いているはずの右腕は、見えなかった。
地上までの高度が低かったが、落下には勢いがあった。
「ぐっ、うぅ……!」
傷口に落下の衝撃が響き、激痛が迸る。絶叫さえも上がらない。
「ふふ……ふははははッ……‼」
釈神は匣の中を覗き込みながら、恍惚とした笑い声を漏らした。
「これが祈瀬瑞里、日澄よすがの娘! わたくしに相応しい、美しき干戈よ……!」
「や、めろ……」
「クソォッ‼」
秀作は釈神の背へと日華を振り切った。しかし、結界によって防がれる。先ほどまでの剣戟は、釈神が宣ったように、単なるじゃれ合いだったのだろう。
何度も日華を振りかざす。だが、結界はビクともしない。
「しゅ、さく、く……」
猫の足音のように小さな声だったが、秀作は怒声で呼び付けられたかの如く孝里へと顔を向けた。
「おねが、い……瑞里を……助けて……」
霞む視界に涙が溢れる。秀作は大きく目を見開き、雄叫びを上げて釈神の結界を破壊すべく日華を揮った。
「無駄です。たかが人間が、神たるこの釈神を凌駕できるわけがありません」
「テメェは人間だろうが‼」
「いえ、わたくしは違います。人を超越し、神として生まれ変わった」
「何言ってんだこのキチガイが‼」
「神に対して、不敬千万‼」
「じゃあテメェは滑稽千万だ‼ 人間が神にどうなるってんだ! なれるわけねえだろッ!」
釈神は毒笑を秀作へと向けた。
「いいえ、なれますとも。――そのために、信者達を地獄へと堕としたのですから」
「ハア?」
気味の悪いモノを忌む顔で秀作は侮蔑した。
「地獄でわたくしを信仰させたのです。地獄は神――擬神さえも創造し受肉させることができる霊場。苦しみのあまり、宛てのない架空の神へ救いを求めるその信仰を、わたくしへと向けさせただけのこと。結果は成功でしたよ」
釈魂永楽会の信者三百名以上がこの場で集団服毒自殺をした事件の真相を語ったのだと理解した時、孝里は釈神の身勝手さに血反吐を吐き出した。自身の願望のために、自分の幼い子供達や敬虔に慕ってくれた信者達を犠牲にしたのだ。そればかりか、死後もその命を利用している。
「「外道が……!」」
孝里と秀作は符合した。
「人の道を外れた神ですから。そして、この力でわたくしは唯一の神となる……」
瑞里の鋩を下に向け、釈神は大きく振り上げた。
「……あの方を超えて!」
「瑞里!!」
振り下ろされた刃は、瑞里の胸に突き刺さり――孝里は自分の胸に異変を感じた。
肋骨が開くような激痛だ。何かが、胸の奥深くから噴き上がろうとしている。首をもたげてみれば、胸の上――十年前、瑞里に刺された際に残った刺傷の痕の真上に赤黒い渦が浮いている。よくよく見れば、魂縛符や特攻符等に用いられる文字が砂塵のような小ささで渦巻き、それが黒から赤へと明滅を繰り返しているのだ。
それはまるで、呪詛や呪文の文言が散りばめられているかのようだった。その渦は徐々に肥大化していく。何かに押し上げられていると、孝里は感じていた。
「何だよ、これ……」
――悪穢?
感じるのは強大な悪穢だ。禍身との接触の際に感じる悪穢とは、質量も格もまったく異なる。
「ま、さか……」
僕の擬神の部分の悪穢?
とてつもない焦燥に駆られ、孝里は渦を握り潰そうと何度も試みたが、無駄な足掻きだ。
「ジジイ」
秀作の声は震えていた。
「何だよ、それ……」
秀作は指差した。巨大な旋風となり昇って行く赤黒い渦――その奥で仄暗い光を放つ、孝里の朱殷色の眼を。
「――逃げろ! 秀作君!」
渾身の力を振り絞って叫んだ、その瞬間。
孝里の胸が爆ぜた。
祈瀬瑞里ノ太刀――納刀。
――令架地獄顕現災害、再起。




