48 匣入り娘―心、刃、毀れ
鈴ヶ谷秀作は、孝里の滅多に無い怒号を物ともせずにゆっくりと歩み寄ってくる。俯きがちで表情を窺うことはできないが、息を整えるためにゆっくりと繰り返される呼吸に熱がこもっているのがわかった。その姿が、孝里には今にも爆発しそうな怒りを堪えているかのように写った。だが、今まさに怒りを感じて肩を震わせているのは自分自身だ。
何故こんな所に? 養成学校を合格したとはいえ、まだ正式な見習い生徒でもなければ干戈も所持していない。それどころか通常武器さえ形態していない、完全な丸腰だ。この一帯が過酷な戦場になることは当然知っていたはず。自殺をしに来たとしか到底思えない。
秀作の真意がわからず当惑も雑じるが、それでも怒りが勝っている。
自殺した信者達が残したシミを踏み越え、信者を模した木像に挟まれた通路を抜け、神楽殿の軒下まで無言のまま歩み寄った秀作に、孝里は声を張り上げた。
「何でいるのかって聞いてるだろ!? ――ッ!」
階段を踏みつけて上ってきた秀作は、何の前触れも無く孝里の胸倉を掴んだ。秀作の銀髪の髪から放たれる洗髪材の香りに汗のにおいが混じっているのさえわかる距離まで強引に引き寄せられる。
「……本当か?」
至近距離にいても聞き取りにくい声量で呟かれた言葉。孝里は主旨不在の問いかけに眉根を寄せた。
「何の事かわからないけど、今は僕に何かを質問してる暇は無いだろ。ここがどこかわかってるよね」
「ああ、わかってる」
「わかってるならどうして来たんだ!」
「やんなきゃいけねえことがあるからだ!!」
秀作は怒鳴り返して牙を剥いた。真紅の眼に沈む瞳孔が小刻みに痙攣しているのが見えた。
「なあ、本当なのか?」
「だから、今はそれどころじゃ」
「日澄よすがの息子って、本当なのか!?」
胸倉を掴み引っ張る秀作の乱暴な力強さが、本当は否定を期待して縋りつく弱々しい懇願なのだと気付いた。その瞬間、孝里は口を開き、そして――
「何言ってるんだよ、そんなわけないだろ!」
――本当に、そう言えていたならばどれほどよかったか。
秀作の眼に映る自分が見えてしまった。
否定することもできずに戦慄く唇。
大きく目を見開いて微塵も動かない眼。
冷や汗が滲む額。
知られてしまった事に絶望した自分の顔。
秀作の眼に映る顔なのだから、当然同じ表情を秀作は見ている。ただでさえ聡い子に、正解を知らしめてしまったのだ。
「ッ!」
秀作は突然、孝里を突き飛ばして右半身を仰け反らせた。踵を返して去ってしまうのかと、孝里はさっきまでの一秒でも早い離脱を願った自分が嘘だったかのように引き留めようとよろめくように一歩踏み出した。
「秀さ」
直後、突如としてぶれた視界。勢いで瑞里が手から離れてしまった。硬いものと歯に潰された頬の痛みに孝里は一瞬唖然とした。拳を振り切った体勢で息を荒げる秀作へと自然に目が動き、自分が彼に殴り付けられたんだと理解するのと同時に――友情の終焉を悟った。
「――クソがぁッ! 何でマジなんだよ!!」
涙で溺れた声で絶叫し、秀作は憎悪に煮え滾る大粒の涙をボタボタと零す目で孝里を睨んだ。純粋な敵意を直に浴びて、握り潰されていた心臓が手放されたかのような動悸が胸を爆発させるかの如き衝撃を放つ。
「どんな気分だった? 毎日ニュースでテメェの親父が起こした災害で出てきた禍身共が、大勢の人間を喰い殺しましたって聞いた時」
「秀」
伸ばした手を痛烈に弾き飛ばされる。
「どんな気分だった? テメェの親父が起こした災害で汚染された町が今も浄化されずに復興の目途が立たねえから、故郷に帰れないって泣いてた婆さんのインタビュー聞いてた時」
「聞いてよ」
一歩踏み出した距離は、突き飛ばされて二歩後退。
「どんな気分だった? オレの両親がテメェの親父が起こした災害で死んだって聞いた時」
「……」
石化したように身体が動かなくなった。今ならば刺されるとわかっていても、何の抵抗もできやしない。
「どんな気分だった? オレが自分の親の仇を獲るために、テメェの親父を殺すって何度も聞かされた時」
「……」
自分の呼吸が小刻みに痙攣するのがわかって、孝里は意味もなく息を潜めた。
「どんな気分だった? 日澄よすがに家族がいたらってテメェが訊いた時、オレ皆殺しにするって言ったよな? なぁ、あの時どんな気分だった?」
秀作は孝里の胸倉を掴み、「なあ、なあ」と呼びかけながら揺らした。
――最悪の気分だったよ。被害者に申し訳なかった。死にたくなったさ。
しかし孝里は伝える事ができなかった。俯いて、前髪で目元を隠して鼻先の影を見下ろしていた。何か言葉にしなければいけないと我が心を叱咤しても、何を言っても秀作には言い訳にしか聞こえないだろう。何かを言って怒らせて傷付けるくらいなら、このまま刃のような怒りと嘆きと悲しみを、心身で受け止め続けたかった。
孝里の内心を秀作は読み取る事などできはしない。黙秘しているかのような態度に思えて、これ以上の激情は無いと思っていた怒りが更なる高みへと突貫した苦しみに耐えきれなかった。
「どんな気分だったんだよ!!」
慟哭に、ドッと、孝里の胸は痛いくらいに熱くなった。
ああ、黙っているだけでは駄目だ。自分の心を伝えないと。例えそれでも秀作に嫌われたままでも。
自分は秀作に偽り続けてきた。両親を奪った男の息子に心を砕かせてしまった。六年間という大事な期間を、孝里は――楽しんでしまった。決して許されることではない。
三年前、言ったじゃないか。
――「僕は、あんまり不誠実なことをしたくないんだ。基本的に、最大限、善良な善人でいたい」
今の自分はどうなんだ? 我が身可愛さで秀作を欺いて、露呈しても無言を貫くことではぐらかしている。今も昔も大噓付きじゃないか。
秀作には、知る権利がある。自分には、真実を話す責務がある。
言わなければ、伝えなければ。
慄く唇に力を込めた。
――秀作君、ごめん。
孝里はそう口火を切ろうと喉を力ませ――そうして血を吐き出した。
「……は……?」
消えかけた声で呟いたのは秀作だ。呆然とした顔で孝里の胸元を、まるでこの胸の痛みが見えているかのように凝視している。
孝里も同じ表情で、秀作の顔にソバカスのように飛び散り、涙に融けた飛沫の色を見下ろしていた。
「う」
心臓を引っ張るかのような物理的な引力に尻もちをつき、自らの胸元に視線を下ろすと、丁度何か細く薄い銀色が胸の中に引っ込んでいく所だった。
「……あ、え? 痛……」
脈拍に圧されるがまま、血がふつふつと溢れて服を生暖かく湿らせていく。流血は早く、出血量も多い。ズボンにまで血が染み渡っていく。
「何で、血が……」
痛みと自分を見舞う不可解で奇妙な現状に混乱する孝里を、無情にも無慈悲にも、再び背中から胸を突き上げるかのような衝撃が襲った。
背骨を鋸で斬られているような震動が鮮明に感じた。肉と筋肉がプチプチよ断ち切られていく音が耳へと駆け上がっていく。体内が凍り付くような冷酷な痛みだ。
胸から先ほどの銀色のモノが飛び出した瞬間をしっかりと目撃した。反射的にそれを掴むと、深く刃毀れした刃であることに気付いた。
「……あ、僕、刺されて」
――誰に?
秀作ではない。胸を貫くこの刃も、瑞里ではない。だが、孝里はこの刃を知っている。
お に ぃ ちゃ ん
声が聞こえ、恐怖が突沸した。
そんなはずはない。そんな事が、あって良いはずがない。
激痛と失血に振るえる手で、その刃を握り締めようと胸元まで寄せた。だが、刃は孝里の掌を斬り裂きながら、何者かの力任せな勢いによって引き抜かれ、そのまま神楽殿の外へと投げ捨てられた。
がしゃん。今にも朽ち果てそうな一振りの太刀が、薄闇の中で鈍色の光を放っている。
「――に、ちか、ちゃ……」
あの太刀は干戈だ――安西日華だ。
「日華ッ!」
秀作が神楽殿を飛び降りて駆け寄った。刃毀れの深さに、絶望満面の表情で声を引き攣らせている。
事件に巻き込まれて干戈に転生した魂は、心的外傷により刃毀れをしていることが多い。孝里は今、日華が事件に巻き込まれて第一の生を手折られたことを知ることとなった。そして、それに深く関係している者が、日華で自分を刺し貫いたことも。
立ち上がろうと立てた片足が自分の血に滑って転倒した。爪先の尖った靴が見える。
「少年、きっとこんな風に、彼は胸が痛んでいたはずです」
秀作に向かって言い聞かせるような穏やかな声孝里は、血溜まりに頬を擦り付けるように顔を動かした。
漆黒のローブに身を包んだ男が立っている。秀作の眼よりも暗い赤の虹彩が、フードの中でぼんやりと光って見えた。
その男は手に一振りの太刀を下げている――瑞里だ。
「瑞里を……放せ……ッ!」
左腕を支えに上体を起き上がらせ、右手を伸ばす。男は片膝を付き、孝里の右手を空いた手で掬い上げた。
「ああ、可哀想に、苦しいでしょう、痛いでしょう。この釈神が、貴方を救って差し上げましょう――祈瀬瑞里をこれまで守り続けた、その功績を称して」
男――天原祇雲、否、釈神は瑞里ノ太刀を振り被った。歯茎を剥き出しにしたその笑みは、余りにも邪悪に歪んでいた。




