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45  匣入り娘―脅迫取り引き


 拮抗していた鍔迫り合いを制したのは奏士郎だった。足払いを仕掛け、後方へと体勢を崩したオモカゲの腹部を突くように強かに蹴り飛ばす。呼吸を詰まらせたオモカゲは無表情を苦悶に崩して赤く染まった白砂利の上を背中で滑り、そのまま起き上がれずにいる。


「オモカゲっ!」


 カイが悲壮に叫んだ。彼もまた疲労困憊な様子で呼吸を荒げ、片膝を地に付けている。転移枠は広場内に見当たらず、阿蝉山全域からも消失している。術者のガス欠のせいだ。これで新たなる禍身の排出の問題が解決したものの、それでもすでに数多くの禍身は解き放たれている。


 大量の禍身の残骸が広範囲に渡って飛散している。樹皮のような虹彩の巨大な目玉に、雨雲の色をした光が反射している。踏み締める地面は赤く、白砂利の色は無い。血生臭い臭気と肌に纏わり付く血の脂気がヌメヌメとしていて不快で、奏士郎は袖で頬を拭った。その表情には薄らと冷笑が浮かんでいた。

 

 倒れ天を仰ぐオモカゲに刃を突き立て性急にトドメをさす事もなく、奏士郎は猶予を与えるかの如く追い打ちをかけなかった。オモカゲは大義そうに状態を起こし、無表情に戻って奏士郎を見据えた。「目は口程に物を言う」と言うが、オモカゲの場合は「目は表情程に物を言う」である。痛みへの恨みか、また別の怒りか、激情に光る眼差しを真っ向から受け止めながら、奏士郎は口を開いた。


「なあ、お前だろ。孝里の記憶を改ざんしてんの」

「……」

「いや、孝里が俺のこと忘れちまってる事を責めてるんじゃねえんだぜ? むしろ、ありがてえと思ってるよ」


 奏士郎の孔雀青の目元が美景を眺めるように和らいだ。冷笑から柔和な微笑に氷解し、過去に懐古を馳せる。


「おかげでリスタートだ。前は大失敗しちまったからな……」


 「今度こそだ!」と言う声に歓喜を滲ませ、頬を紅潮させる奏士郎を、カイが鼻で嗤った。そして侮蔑の目を向ける。


「大失敗……そーね、アンタは祈瀬孝里を傷付け、そしてあまつさえ殺しかけた。そのせいで何が起こったかな? アンタが大好きなあの二人が悲しむ羽目になったよなぁっ?」


 カイは肩を上下させる程、快哉を叫ぶかの如く笑い声を上げた。


「……」


  奏士郎から瞬く間に表情が抜け落ち、漆黒の大火を幻視する程の殺気が揺らめく。向けられる強烈な殺意を察知したカイは石化したかのように嘲笑を途切れさせ、顔を強張らせた。恐怖を感じている。血の気が引いて、息を呑んだ。


 鼻先に何かが落ちて来た。雨粒だ。一瞬意識が逸れた。再び奏士郎の挙動に集中しようと見据えた先に、彼はいなかった。


「え……」


 カイの顔が火花に照らされる。奏士郎は舌打ちをした。血肉を斬れば火花は発生しない。防御されたのだ――奏士郎とカイの間に刃を差し込んだオモカゲによって。


「――アタシとも遊びなさいよ」


 オモカゲは耳元で低く笑う女の声に半身を仰け反らせ、己に手を伸ばす苛燐の姿を捉えると、奏士郎の首ごと苛燐を両断せんと白刃を翻す。だが刃は、雨粒を両断した。苛燐は身を低くし、オモカゲの鳩尾(みぞおち)に重い拳を埋めた。その患部はつい先ほど、奏士郎に足を埋められた場所である。オモカゲは宙で血を吐いた。


「オモ……」

「ちょっと静かにしてろよ、クソガキ」


 毛髪を乱雑に掴まれ、後頭部を何かにぶつける。奏士郎のセクシーなテノールに、カイは身体を震わせた。感じているのは命の危機だ。首に刃が押し当てられている。冷たさを感じてカイはすくみ上った。


「このまま喉斬り裂かれたくはねえだろ?」

「……これじゃあ、どっちが悪者かわかんないわね」


 苛燐は呆れ顔で呟いた。


「善人ばかりが退獄師になるわけじゃあねえだろ」

「そうね」

「ッ……」


 可笑しそうに笑った奏士郎の肩の揺れで、カイの首に刃が赤い線を刻んだ。


「カイ!」


 オモカゲは奏士郎に斬りかかろうとする気概を見せたが、その前に立ち塞がる苛燐と、人質になったカイに不利を察して砂利を踏み締めて堪えた。


 奏士郎は冷淡な笑みを口元に浮かべる。


「犯罪組織の構成員のクセして、いっぱしに仲間思いなんだなぁ……なあ、取り引きしようぜ」

「取り引き……?」


 オモカゲは訝し気に目を細めた。奏士郎は首肯した。


「ああ。お前が俺の言うことを聞いてくれりゃあ、このガキは見逃してやる。ま、今回だけだけどな。もしも断るなら……」


 奏士郎は眩しいほどの爛漫な笑顔を作った。


「コイツは首ちょんぱ!」

「……その子は人間だぞ」

「人間なんざ殺し慣れてるよ。お前の()の同胞を、俺は一体何人殺して来てると思ってんだ?」

「孝里と瑞里と同い年だ」

「あっそ。知ったこっちゃねえよ。だって敵だもん」

「……子供でも殺せるその冷淡さで、かつて孝里を殺しかけた男が、取り引きを真っ当に遂行するとは信じられないな」

「……」

「い゙ッ……!」


 奏士郎はカイの首筋に刃を押し当てた。三本の赤い筋が肌を滑り落ち、鎖骨に血溜まりを作る。オモカゲの表情に焦りが生じる。カイの肩口に顎を乗せた奏士郎は低い声で言った。


「いらんこと言うんじゃねえよ、()()()()が」

「ソウシロー、駄目よ。今コイツを殺しちゃったら、取り引きができなくなちゃうでしょ!」


 苛燐に宥められ、奏士郎は渋々といった様子で刃を僅かに離した。


「……取り引きの内容は?」

「乗る気になったか? まあ、大方予想は着いてるはずだ――孝里の記憶を褪色(たいしょく)させてるお前の異能の、部分的な解除と維持だ」

「んな我が儘な……!」


 刃への恐れを忘れたかのようにカイが詰った。奏士郎は一瞥で沈黙させ、更に言葉を続ける。


「お前の異能は、対象の気配や記憶の希薄なんだってな。封印じゃないから、きっかけがあれば思い出す事ができる。社長先生(神志名白呂)の話は聞いてたから、お前の異能がどんなもんかは頭に入ってたけど……正直言ってすげえよ」


 声音には純粋な賞賛の音色があった。しかし、次には豹変した。


「――俺から二人を奪っちまうんだもん」


 憎悪、悔恨、殺意。差し向ける負の気配は苛燐の刃よりも鋭利だ。息を呑んだカイの喉の音が聞こえて、奏士郎は少し爽快な気分を取り戻した。


「ま、この話はよそうぜ。過去より今の話の方が大事だ」


 奏士郎は本題に腰を据えた。


「俺が解除して欲しいのは、俺らに関する最新の記憶の忘却だ。んで、継続して欲しいのは、俺に関する古い記憶の褪色。厳重に褪色してくれてるみたいじゃねえか。俺のフルネームを聞いても、孝里は俺や苛燐の事を何も思い出さなかった。響の事はまあ、ちょろっとは思い出してたみてえだけど」

「偏らせなければならない程、貴様が孝里に与えた傷は深かったからな」

「ああ。自覚はある。俺も気を病んだからなぁ。酒と煙草がやめらんなくてよぉ、昨晩まで飲んだくれてたんだ。精神安定剤を酒で飲むんだがな、酔いなのか薬の効果なのか分かんねえ心地良さが沁みてよ……もうそんなもんに頼る必要も無さそうだがな。それで、頼まれてくれるのか?」

「……」

「オ、オモカゲぇ〜……」


 情けない声で名を呼ぶことで、カイは嘆願した。これ以上の言葉を紡げば、今にも奏士郎が刃をバイオリンの弦のように横に引いてしまいそうな予感があった。事実、奏士郎はそれをいとも容易くやってのける事ができるのだ。


「……」


 沈黙を貫くオモカゲに、奏士郎は下卑た笑みで挑発する。


「もしかして、まだ取り引き材料が足りねえか? 孝里連れてったあの女の子、ここに引き摺り出そうか?」

「「ッ!!」」


 オモカゲとカイが憤激の気配を放ち、明確な殺意を奏士郎に浴びせかけたその瞬間、奏士郎目掛けて安西が吹っ飛ばされてきた。


「!」


  一瞬、躱わすという選択肢が脳裏を過ったものの、安西が孝里の大事に思う人物の一人だということを思い出して、カイを突き飛ばして捨て、安西を受け止めた。掌がぬめって、血のにおいが鼻腔に粘りつく。安西は満身創痍だ。胸元が爪で抉られている。


 喘鳴を整える間も稼がず、安西はすぐに自立した。猫の禍身もそれなりの負傷をしているが、安西の方が重傷だ。等級は猫の禍身の方が上だったらしい。それでもしぶとく生き残り、立ち向かって行く勇気を与え背中を支えているのは憎悪のおかげか。時折殺意が心の支柱になることを、奏士郎も身をもって知っている。


 しかし、これ以上の負傷は安西に死を招く。彼が死ねば孝里が悲しむ。奏士郎には、容易に殺せる自負があった。意志を挫くかもしれないが、親切心からふらふらと歩を進める安西の背に声を掛ける。


「安西さん、俺が殺しましょっか?」


 安西は口の中に溜まった血を唾液ごと吐き出した。


「いらねえ、俺が殺す!」


 発起の雄叫びを上げて、安西は再度斬り掛かって行った。宮地の刃と強靱な爪がぶつかり合って火花が散った。


 安西を見送る無防備な背中に白刃が迫る。オモカゲが抜き打ちを繰り出したのだ。苛燐は――腕を組んで見ている。


「ざぁんねん」


 奏士郎の背から蒼炎が翼のように噴き出し、オモカゲは咄嗟に身を引いて距離を取る。


「――やはり、強いな。()()が言っていただけある」


 二人が思い浮かべるのは同じ人物だ。鈍色のハンサムショートに、赤蜻蛉のようなカラーサングラスを掛けた神韻の如き顔の美女。


「いつ黎明社に戻った?」

「九年前だ」

「そうか……先程の取り引きの事だが」

「ああ」

「もう遅い」

「……あ゙?」


 オモカゲは微笑みを浮かべた。


「孝里はもう、きっかけさえあれば全て思い出す。鍵は貴様だ、鳳越奏士郎」

「チッ!!」

「余計な事してんじゃないわよッ!!」


 奏士郎と苛燐はオモカゲに向かって飛びかかった。


「出て来い!!」


 カイが怒りに満ちた声で叫ぶ。背後には巨大な転移枠が出現していた。そこから巨大な漆黒の物体が飛び出してくる。角を身体中から生やした一つ目の巨人だ。巨人は物理法則を無視した高速の拳を放ち、奏士郎を殴り飛ばす。


「ッ」


 間一髪結界で防いだものの、一撃の強力さには目を見張るものがあった。


「そいつは甲一級だ。虫ケラみてえに叩き潰されろ!!」


 目と鼻から血を流しながらも、カイの声は高揚している。


「ユウを迎えに。もうそろそろ――天原もここに来る。我々の役目はここまでだ」

「……ッ、ああ」


 カイは力を振り絞って扉程の転移枠を出現させると、最後まで奏士郎を睨み付けながら姿を消した。


「鳳越奏士郎。貴様が本当に双子を大事思っているのなら、ユウを殺すのはやめておけ」

「あ゙ぁ゙?」


 繰り出される拳を刃で弾き返しながら奏士郎は凶悪に応答した。


「これだけは警告しておく――三器(さんき)を欠けさせるな」

 

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