08.魔法乙女の恋愛相談
金曜日、午前六時四十五分。
昨日のギアビーストとの戦闘から一夜が明け、美雨はいつも通り中央第三地区魔法乙女支援センターへと出勤していた。
「美雨ちゃん、おはよう」
事務室の前を通りかかると、聞き慣れた声がした。
美雨が顔をほころばせて振り返ると、書類を手にした女性が立っていた。
「おはようございます、紫乃さん」
佐藤紫乃は胸元まで伸びたゆるい巻き髪を揺らしながら、手元の書類を軽く持ち上げた。
「昨日の戦闘報告書、確認したわよ」
「ありがとうございます。もしかして、なにか不備がありましたか?」
「ううん、いつも通り問題なし。ただ、ちょっと気になることがあって」
「気になること、ですか?」
紫乃の言葉に首を傾げる。
不備がないなら、一体どんなことが気になっているのだろう。
「美雨ちゃん、相手は六本脚のギアビーストだったんでしょう? どうやって倒したの?」
「どうやって、というと……蹴り、ですかね。あ、いや、最終的には拳だったんですが」
「……そうなの。動きが速かったと聞いているけれど」
「はい。それなら脚を減らせばいいかなと思って、脚を中心に破壊しましたね」
紫乃は一瞬言葉を失ったが、やがて小さく笑うと懐かしそうに目を細めた。
「美雨ちゃん、相変わらずね」
「えっ、なにがですか?」
「ううん。ちゃんと倒せたなら、それでいいのよ」
そう言いながらも、紫乃の口元には笑みが残っていた。
紫乃は美雨より一つ年上の二十九歳。現在は支援センターの事務職として働いているが、以前は魔法乙女として現場に立っていた。
美雨が魔法乙女になったばかりの頃には、訓練や実務を教えてもらったこともある。
「紫乃さんだったら、どうしてましたか?」
「そうねえ。私は美雨ちゃんみたいに前に出るタイプではなかったから……まずシールドで攻撃を防いで、仲間が動きやすい状況を作ったかしらね」
「なるほど」
「でも、昨日は美雨ちゃん一人だったんでしょう?」
美雨は頷いた。
近接戦闘を得意とする美雨は、ほかの魔法乙女と組んで行動することもあるが、基本的には単独での任務が多い。
「動きが速いなら、脚を狙うのは正解ね……方法は美雨ちゃんらしいけれど」
紫乃はくすりと笑った。
「でも、怪我がなくてよかったわ」
「ありがとうございます」
彼女は現場を離れた今でも、こうして美雨たち後輩の魔法乙女のことを気にかけてくれる。
美雨にとって紫乃は頼れる先輩でもあり、気兼ねなく話せる友人でもあった。
◇
昼休み、美雨が休憩室で昼食を取っていると、紫乃が飲み物を片手にやってきた。
「美雨ちゃん、ここいい?」
「もちろんです」
紫乃は向かいの席に腰を下ろした。
マグカップに入ったカフェオレから湯気が上がっている。
「美雨ちゃんは、明日も早番だったわよね?」
「そうですね」
「そうよねえ。休みか遅番なら、今晩食事にでも誘ったのだけれど」
残念そうに呟く紫乃に首を傾げる。
ランチならともかく、彼女から夜の食事に誘われるのは珍しい。
「今日、旦那さんいないんですか?」
「ええ、そうなのよ。うちのハニーちゃん、今は出張中でね。お弁当も自分の分だけだとやる気が出なくって、今日はコンビニで買ってきちゃったわ」
紫乃は笑いながらサンドイッチの包み紙を剥がした。
「相変わらず仲良いですね」
「まあね」
紫乃はサンドイッチを一口食べると、ふと思い出したように笑った。
「そういえば、美雨ちゃんはどうなの? 気になってる彼とは、なにか進展があったのかしら」
その言葉に、美雨は先日晴臣と出かけたときのことを思い浮かべた。
カフェでは嬉しそうにケーキを食べ、書店にも付き合ってくれた。帰り際には、また一緒に出かける約束もした。
けれど、二人の関係が変わったわけではない。
「……紫乃さん」
「なあに?」
「紫乃さんと旦那さんって、告白はどちらからだったんですか?」
「あら、どうしたの急に」
「ちょっと、聞いてみたくなって」
「ふふ、実は私なの。ハニーちゃんは照れ屋さんだから……美雨ちゃんも、気になっている彼に告白したいの?」
美雨は少し迷ってから、口を開いた。
「その人とは一緒に出かけたりしてるって、前に言ったじゃないですか」
「そうね」
「そこから進展がなくて……恋人になりたいな、とは思うんですけど」
「けど?」
紫乃が首を傾げる。
美雨は手元の紅茶の入ったマグカップに視線を落とした。
「今の関係もすごく心地よくて……それが変わってしまうのが、少し怖いんです」
美雨はマグカップの縁を、親指でそっとなぞった。
「もし気持ちを伝えて、今みたいに話せなくなったらって思うと、どうしても尻込みしちゃって」
「……そうなのね」
紫乃は美雨の言葉を受け止めるように頷き、優しく微笑んだ。
「美雨ちゃん、その人のことが本当に好きなのね」
「……はい」
美雨は少しだけ頬を赤く染めた。
晴臣が好き。その気持ちだけは、ずっと変わらなかった。
「それなら、無理に急がなくてもいいんじゃないかしら」
「……そうでしょうか」
「ええ。今の関係も大切なんでしょう? それが壊れてしまうのが怖いと思うことは、自然なことよ」
紫乃はカフェオレを一口飲んでから、続けた。
「でもね、美雨ちゃん。恋人になりたいという自分の気持ちも大切にしていいのよ」
「……自分の気持ち」
「そう。今の関係を大切にしたいと思うのも、彼ともう少し近づきたいと思うのも、どちらも美雨ちゃんの大切な気持ちでしょう?」
美雨は、ゆっくりと頷いた。
「だから、焦らなくていいの。ゆっくりと悩んで、自分がどうしたいのかを決めればいいと思うわ」
「……はい」
紫乃はいつものように穏やかに微笑んだ。
「ふふ、また彼とのこと聞かせてね」
「はい。また、相談に乗ってください」
「任せてちょうだい。経験豊富な人妻のお悩み相談室を開いてあげるわ」
「もう……なんですか、それ」
二人の笑い声が休憩室に小さく響いた。
◇
午後四時十五分。
今日は定時で仕事を終え、美雨は支援センターを後にした。
夕方の街を歩きながら、美雨は昼休みに紫乃から言われた言葉を思い返していた。
(自分の気持ちを大切にして、自分で決める)
今の関係が心地よくて、大切だからこそ壊してしまうのが怖かった。
けれど、もし恋人になれたなら、今よりもっと近くで彼と過ごせるのだろうか。そんな未来を想像すると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
(私の気持ち、ちゃんと伝えたいな)
美雨は小さく微笑み、いつもより少し軽い足取りで家路についた。
◇
午後八時。
帰宅し、夕食を済ませた美雨はベランダへと出た。隣の部屋には明かりがついている。
(立花さん、今日は帰ってきてるんだ)
それだけで少し嬉しくなった。
夜風に当たりながら街の明かりを眺めていると、隣からカラカラと窓の開く音がした。
「こんばんは、水瀬さん」
「……こんばんは、立花さん」
聞き慣れた穏やかな声に、美雨の表情が自然と緩む。
「今日はもうお仕事終わったんですか?」
「うん。今日は少し早く帰れたんだ」
「そうなんですね。昨日は遅かったんですか?」
「……そうだね。ちょっと仕事が立て込んでて」
「お疲れさまです」
「ありがとう。水瀬さんにそう言ってもらえると疲れが吹き飛ぶよ」
晴臣の軽口に、美雨は小さく笑った。
それからも二人は、明日の天気や最近見つけたお店のことなど、他愛のない話を続けた。
ときどき会話が途切れても、気まずくなることはなかった。遠くを走る車の音を聞きながら、どちらからともなく次の話題を口にする。
そんな穏やかな時間は、いつもあっという間に過ぎてしまう。
「……そろそろ、戻ろうかな」
晴臣の声に、美雨は名残惜しさを感じる。
「そうですね。明日は土曜ですけど、立花さんはお休みですか?」
「うん、そうなんだけどね。少しだけ仕事が残ってるんだ」
「そうなんですね。無理しないでくださいね」
「ありがとう。水瀬さんも無理しないでね」
「はい、ありがとうございます……おやすみなさい、立花さん」
「おやすみ、水瀬さん」
隣の窓が静かに閉まる。
美雨は、ひとりベランダに残った。
(……好きだなあ)
隣の部屋へ視線を向けながら、美雨はそっと微笑んだ。
いつか、もう少しだけ勇気を持てたのなら、そのときはこの気持ちを伝えられるだろうか。
美雨は夜空を見上げた。秋の夜風が、頬をそっと撫でていった。




