05.雨の日の記憶
会議を終えた晴臣は、昼休みにオフィスの窓から外を眺めていた。
空には鈍い色をした厚い雲が広がっている。今にも雨が降りそうだ。
そんな空を見て晴臣はふと、ある雨の日のことを思い出した。
◇
──三年前。
それは、まだ美雨と晴臣が隣人になる前のこと。
晴臣は外勤先からの帰り、急な雨に降られていた。
手には仕事で使った小型の機材ケース。
今日の予報は終日晴れだったため、傘は持っていなかった。
絶対に濡らすわけにはいかないケースを服の中に隠すように抱え、近くの建物の軒下へ駆け込んだ。
しばらく雨は止みそうもない。
さて、これからどうしようかと、晴臣は息を吐いた。
ぽたり、濡れた前髪から滴が落ちる。チャコールグレーのスーツもすっかりと濡れていた。
こんな格好ではタクシーはもちろん、電車やバスを利用することも気が引ける。
「……あの、よかったら使ってください」
ふと、すぐそばから声がした。
晴臣が顔を上げると、一人の女性が真っ白なハンカチを差し出していた。
艶やかな黒髪は肩につかない程度の長さで整えられていたが、雨のせいか少し濡れて重たそうな印象だった。
そんな彼女は少し疲れた顔をしている。
けれど、その瞳はまっすぐに晴臣を見ていた。
「ハンカチ、なにもないよりはマシだと思うので、使ってください」
「え?」
「あ、さっきコンビニで買ったばかりなので新品未使用です!」
別にそこは晴臣も気にしていなかったのだが。
そこで晴臣は、彼女も急な雨に降られ、自身のためにハンカチを買ったのだと思い至った。
それならなおさら、受け取るわけにはいかない。
晴臣は、ゆるゆると首を横に振った。
「でも、あなたが濡れているでしょう」
「大丈夫です。私の会社、もうすぐそこなんで……走れば一分もかかりませんし。なんなら傘も使っちゃってください。さっき買った普通のビニール傘ですけど」
そう言って、女性は傘も差し出して笑った。
晴臣は、また首を横に振る。
そんなことをしても、この女性にはなんのメリットもない。
「僕は、なんとかなりますから。あなたが無理しなくていいんですよ」
すると彼女は一度まばたきをして、大きく首を横に振った。
静かな水面のような凛とした瞳が、晴臣をまっすぐに捉える。
「無理はしてません。私よりもずぶ濡れなあなたに声をかけずに通り過ぎたら、後悔しそうで……ただ、私がそうしたいと思っただけなんです」
その言葉が、妙に心に残った。
誰かに褒められたいわけでも、見返りが欲しいわけでもない。
ただ、自分がそうしたいから。自分が後悔しないために、そうする。
誰かのために行動することを、こんなにも自然に自分の意思として語る。
その姿が晴臣にはやけに眩しく思えた。
「……ありがとうございます」
晴臣がハンカチと傘を受け取ると、女性はほっと息を吐いた。
「それじゃあ、お気をつけて」
そう言って雨の中を小走りに去っていく。
晴臣はしばらくその後ろ姿を見送っていた。
それが美雨との最初の出会いだった。
◇
その後、晴臣は会社へほど近く、通勤に便利だからと選んだマンションに引っ越した。
まさか隣室にあのときの女性が住んでいるとは夢にも思わなかったけれど。
引っ越しの挨拶に粗品を持って隣室を訪ねると、出てきたのはあの雨の日の女性だった。
晴臣は、すぐに彼女だと気づいた。
「あなたは、あのときの」
美雨も驚いた顔をした。
それから、まじまじと晴臣の顔を見る。
「あなたは……傘の、濡れネズミだった人!」
「……いや、まあ、そうなんですけどね?」
「あ、違っ……すみません! つい、じゃなくて!」
途端におろおろと慌て出す美雨に、晴臣は吹き出した。
どうにもツボに入ってしまったらしく、肩を小刻みに震わせている。
「ふ、くくっ……すみません、僕の方こそ……ははっ」
「……いえ、恐縮です」
美雨の独特な語彙にまた笑いが込み上げてくるが、どうにかそれを飲み込んで、晴臣は彼女を見た。
あの日、雨に濡れていた黒髪は、今日は毛先が少しだけ外側に跳ねている。
澄んだ美雨の瞳が晴臣を見上げて、首を傾げた。
「あの?」
「今度、ハンカチと傘のお礼を持ってきますね」
「えっ、いいですよ。そんな、お気になさらず」
「僕が、したいんです。ね?」
「……それなら、まあ」
そこから、二人のご近所付き合いが始まった。
最初は挨拶だけ。
次第に、近所の店の話をするようになった。スーパーでかち合うこともあった。
休日にカフェへ行くようになったのは、もっと、ずっとあとだ。
美雨の好きな本。苦手な甘さ。仕事が忙しいときの表情。嬉しいときの笑い方。
晴臣は、少しずつ彼女を知っていった。
そして、いつの間にか──誰よりも大切な存在になっていた。
最初から恋だったわけではない。
ただ、気づいたときには、美雨と過ごす日常が手放せなくなっていた。
◇
晴臣は再び窓の外へ目を向けた。
ぽつり、ぽつり。小さな雨粒が落ちてきて、窓を濡らしていく。
「……日曜日、楽しかったな」
噛み締めるように、小さく呟く。
次は、どこへ行こうか。美雨が行きたいと言っていた場所は、どこも魅力的だった。
どれも一緒に行きたい。彼女が笑ってくれるなら、何度でも。
(本当に、どうしようもない)
晴臣は、苦笑した。
自分でも呆れるほど、美雨が好きだった。




