04.悪の組織の部長さん
月曜日、午前九時十分。
ネオ・トーキョー中央区にある高層オフィスビル。
その上層階で、晴臣は端末に表示された資料を確認していた。
ネイビーのスーツに、落ち着いた色のネクタイ、黒縁のメガネ。普段、美雨が見ているのと大きくは変わらない姿だ。
ただし、ここは美雨に話しているような、ごく普通の会社ではなかった。
表向きは都市インフラ関連のシステム会社が入居するオフィスビル。
だが、その地下には、一般には存在を知られていない施設が広がっていた。
株式会社ダークネス。
ネオ・ジャパン共和国政府が秘密裏に管理する企業のひとつであり、晴臣はその作戦運用部の部長を務めていた。
「立花部長、おはようございます!」
明るい声とともに、朝倉航が近づいてきた。
晴臣の部下で、作戦運用部の中でも判断力に優れた若手社員だ。
「おはよう、朝倉くん」
「また一週間始まっちゃいましたね……そういえば、部長は昨日の休みなにしてたんですか? 俺は積んでたプラモの組み立てしてました!」
「それはいい休日だね……僕はカフェでお茶したくらいかな」
「はあ、部長がカフェ」
カフェでお茶をする晴臣のイメージが湧かないのか、航が首を傾げる。
「なにかおかしい?」
「いや、別に……ちなみに誰とです?」
「知り合いと」
「女性ですか?」
ぐいぐいと距離を詰め、遠慮なく踏み込んでくる航に、晴臣は深く息を吐いた。
それからメガネのフレームを指先で押し上げる。
「朝倉くん」
「はい」
「今日の会議資料、できてる?」
「部長、話を逸らしましたね」
「できてる?」
穏やかに笑いながらも少しだけ冷たくなった声音に、航は晴臣からそっと視線を逸らした。
「……できてます」
「それはよかった」
晴臣の声に温度が戻る。
航は息を吐くと、肩をすくめた。
「部長って、そういうところありますよね」
「どういうところ?」
「絶対に答えたくない質問は、仕事の話にすり替えるところです」
「便利だよ」
手元の資料に目を走らせながら晴臣が言った。
その姿に少しばかり呆れながら、航も会議資料の準備を始める。
「否定はしないんですね」
「朝倉くん、会議まであと二十分だからね」
「はいはい。ちゃーんと、お仕事しますよっと」
航は笑いながら資料を片手に複合機に向かう。
晴臣は端末に浮かび上がる資料を眺めた。
今日の議題は、中央第三地区におけるギアビーストの運用計画。
先週の戦闘データをもとに、安全基準と負荷設定を確認する。
市民の避難を最優先とし、想定外の危険が生じた場合は即時停止。それが、ダークネスの基本方針だった。
世間から悪の組織と呼ばれているダークネス。
実際、彼らは機械仕掛けの怪物を街に送り込み、魔法乙女と戦わせている。
けれど、その目的は街の破壊でも世界征服でもなかった。
ダークネスが担っているのは、政府が秘密裏に進める都市防衛事業の一部だ。
ギアビーストを用いた実戦形式の訓練と、関連技術の検証。それが、彼らに与えられた役割だった。
晴臣は資料をスクロールする。画面には、先週の戦闘記録が表示されていた。
対象魔法乙女──アクア・アムール。
その名前を見た瞬間、晴臣の表情がわずかに柔らかくなった。
水瀬美雨。
隣人の彼女がアクア・アムールであることを、晴臣は知っている。
約二年前、中央第三地区への新型ギアビースト投入を控え、安全性の確認が行われた。
その際、近接戦闘を得意とする魔法乙女への危険が指摘され、緊急対応に備えた限定的な名簿が作成されたのだ。
作戦運用部の部長として、その資料を確認する必要があった晴臣は、そこで初めて知った。
アクア・アムールの正体が、隣人の水瀬美雨であることを。
もちろん、晴臣が採用に関わったわけではない。美雨が魔法乙女になったのは、全くの偶然だった。
しかし、その頃には、すでに晴臣と美雨は隣人として親しくなっていた。
だからこそ、資料に彼女の名前を見つけたときは驚いたのだ。
けれど、それ以上に彼女らしいと思った。
困っている人を放っておけないけれど、ただ優しいだけではない。
誰かのために行動するときも、彼女は自分の意思で動いていた。そして、それを大げさに語らない。
そんな彼女だからこそ、晴臣は──。
晴臣は端末の資料を閉じた。
今今は仕事中だ。必要以上に彼女のことを考えるべきではない。
それは、わかっている。それでも、昨日の美雨が浮かべた笑顔が頭から離れなかった。
『立花さんと一緒だと楽しいので』
何気なく言われた言葉。美雨にとってはきっと、特別な意味を込めたつもりではなかったのだろう。
それでも、晴臣には十分だった。
彼女が自分を好いてくれていることには、以前から気づいていた。
ベランダでの会話。休日の誘いに応じるときの嬉しそうな表情。何でもない話をしているときの、柔らかな笑顔。
そして、昨日の言葉。
(ああ、弱ったな)
これでは、ますます美雨のことを好きになってしまう。
彼女と過ごす時間は、驚くほど心地いい。無理に会話を続ける必要もなければ、互いの時間を尊重できる。冗談の感覚も、話すテンポも合う。
美雨は晴臣を自分が理想とする男性像にはめ込まない。
甘いものが好きなところも、一人の時間を大切にするところも、自然に受け入れてくれる。
晴臣は、これまで何人かの女性と交際したことがある。
好意を寄せてもらう機会は少なくなかったものの、実際に付き合ってみると、あまり長続きしなかった。
『思っていたのと違う』
そう言われたことが、何度もある。
優しくて、なんでも合わせてくれそう。いつも恋人を優先してくれそう。
そんな印象を持たれることが多かった。
実際の晴臣は、かなりマイペースだ。
仕事も趣味も大切にするし、一人で過ごす時間も好きだった。
相手を大切にしていなかったわけではない。
ただ、恋人を生活の中心に置くタイプではなかったのだ。
けれど、美雨と過ごすときは違った。
一人でいることも楽しいけれど、二人で過ごす時間がかけがえのないものに思えたのだ。
晴臣自身、そんな自分の変化に少し驚いていた。自分が、こんなにも誰かを好きになるとは思わなかったのだ。
しかも、その相手は、自分の隣室に住んでいる。近すぎるほど近い距離にいるのに、手を伸ばすことはできない。
晴臣は静かに目を伏せた。
美雨の気持ちには、気づいている。
それでも、その思いに応えるわけにはいかなかった──少なくとも、今は。
「立花部長!」
航の声で、晴臣は現実に引き戻された。
暗くなった端末から顔を上げる。
「会議室、準備できました!」
「ありがとう。すぐ行くよ」
「……あと、先週の運用報告書なんですけど」
「うん?」
言いづらそうに航が言葉を詰まらせる。
それから眉根を寄せて、晴臣にギアビーストの運用報告書を差し出した。
「承認欄が一つ増えてます」
晴臣は一瞬、目を閉じた。
それからメガネを外し、親指と人差し指で眉間を押さえると低い声で答えた。
「……また?」
「またです」
「先月も増えたよね」
「増えました」
一体、たった数枚の運用報告書で何人の承認が必要なのやら。
呆れたように晴臣は息を吐き出すと、会議室に向けて足を進めた。
「承認する人が増えると、確認が遅くなるんだけどな」
「それ、会議で言います?」
「言うよ」
「さっすが、立花部長!」
尊敬の眼差しを向けてくる航に苦笑する。
晴臣は、ただ仕事に合理性と効率を求めているだけだった。
「安全に関係する確認は必要だけど、同じ内容を三回も承認する意味はないからね」
「正論です」
航が即座に頷き、晴臣もそれに応じた。
悪の組織にも、会議がある。承認欄が増えることもある。
そして、悪の組織の部長さんは今日も、書類と増え続ける承認欄を相手に戦っていた。




