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魔法乙女は今日もお隣さんに恋をする  作者: 夏野モエギ
第一章 魔法乙女とお隣さん
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02.お隣さんとの約束

 その日の午後十時を少し過ぎた頃。

 美雨は自宅のある十二階建てのマンションに到着し、オートロックを抜けた。

 今日は遅番だったため、帰宅もすっかり遅くなってしまった。


 部屋に戻ったらお風呂に入って、少しだけ本を読んで寝よう。

 そんなことを考えながらエレベーターホールへ向かうと、扉の前に二つの人影があった。

 大きな買い物袋を持つ背の高いスーツ姿の男性と、年配の女性の二人組だ。


「ありがとう、ここまでで大丈夫だよ」

「そうですか? お気をつけて」

「はいはい。お兄さん、ありがとうねえ」


 男性が手にしていた買い物袋を差し出すと、女性はそれを受け取り、エレベーターへと乗り込んだ。

 男性はその場で扉が閉まるのを見届けてから、こちらへ振り返る。

 美雨の姿に気づいた彼は、穏やかな茶色い瞳を柔らかく細めた。


「こんばんは、水瀬さん」

「……こんばんは、立花(たちばな)さん」


 聞き慣れた柔らかな声に、美雨の口元が自然と緩んだ。

 それを悟られないようにしながら、彼のいるエレベーター前まで足を進める。


 立花(たちばな)晴臣(はるおみ)、三十五歳。美雨の隣室に住む七歳年上の男性だ。

 ふんわりとした明るい茶色の髪に、穏やかな瞳。背が高く、すらりとした体格で、顔立ちも整っている。


 今日はネイビーのスーツ姿だった。きっちりと着こなしたその姿を見て、美雨はひそかに思う。


(立花さん、今日も格好いいな)


 もちろん、口には出さないけれど。


「水瀬さん、今帰りなの?」

「はい。今日は遅番だったので」

「お疲れさま」

「立花さんも、今帰りですか?」


 晴臣は頷くと、やや大仰に肩をすくめてみせた。

 その仕草がおかしくて、美雨は思わず笑ってしまう。


「うん。ちょっと仕事が長引いてね」

「ふふ、お互いお疲れさまですね」

「本当にね」


 それから二人は、到着したエレベーターへと一緒に乗り込んだ。

 晴臣の長い指が五階のフロアボタンを押す。

 ぼんやりと光るボタンを見ながら、そういえば、と美雨が口を開いた。


「先ほどの方はお知り合いですか?」

「いや、ここの住民だとは思うけど。マンションの前で、大荷物に困っているようだったから少し運ぶのを手伝ったんだ」


 晴臣は、なんでもないことのように言った。

 彼は出会ったときから、こういう小さな親切を当たり前のようにする。

 誰かに褒められたいわけでも、感謝されたいわけでもない。ただ困っている人がいたから手を貸した。それだけなのだろう。

 美雨は、そんな晴臣の優しさが好きだった。


 やがて、エレベーターが五階へ到着した。

 二人は並んで廊下を歩きながら、他愛のない話を続ける。

 晴臣が小さく笑うと、美雨もつられて口元を緩めた。


 二人がそれぞれの部屋の前に着いたところで、晴臣がふと口を開いた。


「そういえば、水瀬さん」

「はい?」

「今度の日曜日、予定はある?」

「今度の日曜日は、ええっと」


 美雨は端末を取り出し、勤務シフトを確認した。


「……はい。今のところ空いてますよ」


 日曜日は休日で、特別な予定も入っていなかった。


「よかったら、いつものカフェに行かない?」

「ぜひ!」


 考えるより先に返事が出てしまい、美雨は自分でも少しおかしくなった。


 日中にはまだ夏の暑さが残っているものの、季節はもう秋だ。

 いつものカフェにも、そろそろ秋の限定メニューが並ぶ頃だった。


「立花さん、さては新作ケーキがお目当てですね?」

「よくわかったね」

「もう、わかりますよ」

「今回の季節限定ケーキもおいしそうなんだ」


 晴臣は甘いものが好きだ。しかも、かなりの甘党。

 カフェに行けばケーキを二つ、三つと注文するのは当たり前だった。


「ふふ、楽しみですね」

「うん、とても」


 美雨は甘すぎるものが少し苦手だけれど、晴臣が嬉しそうにケーキを食べる姿を見るのは好きだった。


「じゃあ、日曜日に。またメッセージ送るよ」

「はい。おやすみなさい、立花さん」

「おやすみ、水瀬さん」


 そうして二人は、それぞれの部屋へと帰る。

 玄関のドアを閉めて、美雨は小さく息を吐いた。


「……日曜日、か」


 呟いて、自然と頬が緩む。

 晴臣とは、もう三年近い付き合いになる。

 最初は廊下ですれ違うたびに挨拶を交わす程度だった。それがエレベーターで言葉を交わすようになり、近所の店の話をするようになり、気づけば予定の合う休日には一緒にカフェへ行く仲になっていた。


「立花さんと出かけるの、楽しみだな」


 そうして、美雨はいつの間にか晴臣のことを好きになっていた。

 ただし、晴臣が美雨をどう思っているかは、わからない。彼は誰にでも親切で、細やかな気遣いを忘れない人だから。


 だからこそ、自分に向けられる優しさが恋愛感情からなのかどうか、美雨には判断できなかった。

 美雨には相手の気持ちを見極められるほどの恋愛経験がない。

 学生時代に告白され、一度だけ付き合った相手はいた。けれど、結局恋愛感情が芽生えることはなかった。


 こんなにも誰かを好きになったのは、晴臣が初めてだった。

 会えた日は、いつもより少しだけ帰り道が短く感じる。もっと一緒にいたい。

 そして、できることなら、彼の恋人になりたい。


「……なんてね」


 美雨は小さく独り言をこぼし、ブレスレット型の変身デバイスを専用のトレーに置いた。


 日曜日、晴臣とカフェ。

 それだけで、明日の仕事も頑張れそうだった。



◇



 気づけば、午後十一時を少し回っていた。

 どうにも気持ちが落ち着かず、眠れないまま時間が過ぎてしまった。


 美雨は気分を変えようと、ベランダへ出る。

 風呂上がりの肌に、涼やかな夜風が心地よかった。遠くからは、虫の声がかすかに聞こえている。

 美雨が目を細めていると、ふと隣のベランダから小さな物音がした。


「あれ、水瀬さん?」


 続いて仕切りの向こうから、晴臣の声がする。


「立花さん、こんばんは……って、二度目ですね」

「あはは、本当だ。ちょっと、夜風に当たりたくなってね」

「私もです」


 二人は隣り合ったベランダの仕切り越しに話す。

 互いの顔は見えないけれど、声はすぐ近くから聞こえてきた。

 こんなやり取りをするようになったのは、親しくなってからのことだ。


 最初は全くの偶然。

 たまたま同じ時間にベランダへと出て、挨拶を交わした。それが何度か続いて、自然と短い会話をするようになっていたのだ。


「水瀬さん、今日は忙しかった?」

「そこそこですね。立花さんは?」

「僕も。会議が長引いてね」

「お疲れさまです」


 美雨の労わるような言葉に、晴臣の声が柔らかくなる。


「ありがとう。水瀬さんは、明日も仕事?」

「はい。明日も遅番です」

「そっか。じゃあ、明日は少しゆっくりできるのかな」

「そうなんですけど……読みかけの本があって」


 先日、図書館で借りたファンタジー小説だ。

 剣と魔法が織りなす、きらきらとした世界。

 活字ならジャンルは問わずなんでも読むけれど、美雨は中でもファンタジーが一番好きだった。


「面白い?」

「とっても! 今も続きが気になってます」

「それは……危険だね」

「はい、危険です」


 くすくすと二人で笑う。

 やがて会話が途切れ、静かな時間が流れた。

 遠くの道路を走る車の音と、夜風が葉を揺らす音が聞こえる。

 その沈黙さえ、心地よかった。


「……こういう時間、いいですね」


 美雨がぽつりと言う。

 静かで落ち着く、ゆっくりと流れていくような時間。


「うん、僕も好きだよ」


 仕切りの向こうから、穏やかな声が返ってくる。

 美雨の胸が、きゅうっと締めつけられた。


(そういう言い方、ずるい)


 もちろん、晴臣にそんなつもりはないのだろう。だからこそ、美雨は困ってしまうのだが。


 それからも晴臣と他愛のない会話を続けていると、ふと小さなあくびが漏れた。


「私、そろそろ寝ますね」

「うん。おやすみ、水瀬さん」

「おやすみなさい、立花さん」


 晴臣と挨拶を交わして、美雨は部屋へと戻った。少し開いていたカーテンを閉めて、口元を緩める。


 晴臣と過ごす時間は、いつも穏やかで心地いい。

 つい先ほどベランダに出た気がするのに、もうすぐ日付が変わろうとしていた。


「でも……もうちょっと、話したかったな」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、美雨は小さく笑った。

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