12.お隣さんと冬の港町
十二月に入って最初の日曜日。
美雨は玄関の姿見の前で、くるりと一回転した。
淡いベージュのコートに、お気に入りのニット。くすみブルーのロングスカートの裾がふわりと揺れる。
足元はショートブーツ。小ぶりのショルダーバッグを肩に掛ければ、今日の準備は完了だ。
「うん、これでよし」
鏡の中の自分に頷いて、美雨は携帯端末で時刻を確認した。
今日は、隣に住む晴臣と少し遠くまで出かける約束をしている。
以前から約束していたものの、お互い仕事の都合でなかなか予定が合わなかった。ようやく休日が重なったのが、今日だった。
行き先は、ネオ・トーキョーから電車で一時間ほどの港町。
古い赤レンガ倉庫を改装した商業施設や、海沿いの遊歩道が人気の観光地だ。
晴臣とは、これまでも何度か一緒に出かけている。
カフェに行ったり、書店に立ち寄ったり。今では、休日に二人で出かけることも珍しくなくなっていた。
それでも、今日は少しだけ特別な気がする。
「……楽しみだな」
美雨は小さく呟くと、玄関の扉を開けた。
◇
マンションのエントランスには、すでに晴臣が待っていた。
チャコールグレーのコートに、黒のタートルネック。普段のスーツ姿とはまた違った落ち着いた雰囲気がある。
「おはようございます、立花さん」
「おはよう、水瀬さん」
美雨に気づいた晴臣が、柔らかく微笑む。
「今日はいつもと少し雰囲気が違うね。そのコート、よく似合ってるよ」
「本当ですか? ありがとうございます。立花さんも今日の服装、素敵ですね」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
晴臣は穏やかに笑った。
そんな何気ないやり取りだけで、美雨の気持ちは少し浮き立つ。
「それじゃあ、行こうか」
「はい!」
二人は並んでマンションを出た。
◇
電車に揺られること、およそ一時間。
港町の駅を出ると、潮の香りを含んだ冷たい風が頬を撫でた。
「わあ……!」
美雨は思わず声を上げる。
広い空の下には、青い海がどこまでも続いていた。港には大小さまざまな船が停泊し、その向こうには赤レンガ造りの建物が並んでいる。
「思っていたより、ずっと素敵なところですね」
「そうだね。天気もいいし……水瀬さんの日頃の行いかな?」
「そこは立花さんじゃないんですか」
くすくすと笑う美雨に晴臣は目を細めた。
「じゃあ、まずは倉庫の方に行ってみる?」
「はい。気になるお店がいくつかあるんです」
「僕も調べてきたんだけど、評判のいい菓子店があるみたいでね」
「焼き菓子とかですか?」
「うん。季節限定のシュトーレンがあるらしいんだ」
あまりにも嬉しそうに言うので、美雨は思わず笑ってしまった。
「立花さん、本当に甘いものがお好きですよね」
「僕は甘いものを愛し、甘いものに愛される男だからね」
「もう、なんですかそれ」
「……だめ?」
「だめじゃないですよ。どうせなら、いろんなお店のシュトーレン探しちゃいましょう」
晴臣が楽しそうに笑う。
美雨もつられて笑いながら、赤レンガ倉庫へと続く道を歩き始めた。
◇
赤レンガ倉庫の中には、雑貨店や飲食店が立ち並んでいた。
古い建物の面影を残した高い天井に、暖かな色の照明。店先には小さなクリスマスツリーやリースが飾られ、十二月らしい華やかさが漂っている。
二人は気になる店を覗きながら、のんびりと歩いた。
美雨が雑貨店の前で足を止めれば、晴臣も一緒に店内を覗く。晴臣が菓子店を眺めれば、美雨も一緒に焼き菓子を探した。
晴臣は気になっていた菓子店で目当てのシュトーレンを見つけ、別の店でも一つ購入した。二つの袋を手に、どこか満足そうだ。
どちらからともなく次の行き先を提案し、相談しながら歩く時間が心地よかった。
昼食は港を見渡せるレストランで取ることにした。
窓際の席からは、冬の日差しを受けてきらきらと光る海が見えた。
「水瀬さん、デザートはどうする?」
食事を終えた晴臣がメニューを開きながら尋ねた。
「私は、このチーズケーキにします。立花さんは?」
「それが、迷ってるんだよね。ショートケーキもいいし、チョコレートケーキも捨てがたい」
「……それなら、両方頼んだらどうですか?」
「うん、そうしようかな。せっかくだからね」
真剣な顔で頷く晴臣に、美雨は吹き出した。
「甘いもの、好きですね。この前もケーキを三つ食べてましたもんね」
「水瀬さん、よく覚えてるね」
「ふふ、忘れませんよ」
二人で笑い合う。
こんなふうに、なんでもないことで笑える時間が好きだった。
◇
午後は、海沿いの遊歩道を散策することにした。
倉庫街から少し離れると、観光客の姿もまばらになり、波の音がよく聞こえるようになった。
「ここから下りられるみたいだね」
晴臣が指さした先には、海沿いへ続く石段があった。
晴臣は先に数段下りると、振り返って美雨に手を差し伸べた。
「足元、気をつけてね」
「あ、ありがとうございます」
美雨はその手を取った。晴臣の手は、大きくて温かかった。
もちろん、これくらいの石段なら一人で何の問題もなく下りられる。魔法乙女として日々ギアビーストと戦っているのだから、むしろ得意な方だ。
けれど、晴臣が差し伸べてくれた手を断る理由なんてなかった。
石段を下り終えると、晴臣はそっと手を離した。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
美雨は笑顔で答える。
けれど、手のひらにはまだ、彼の温もりが残っているような気がした。
(もう少しだけ、つないでいたかったな)
そんなことを考えてしまった自分に、美雨は少しだけ苦笑する。
晴臣は何事もなかったように、海の方へと視線を向けていた。
「向こうまで歩いてみようか。あ、この先にフォトスポットがあるらしいけど……水瀬さん、写真撮る?」
「いいですね!」
美雨は彼の隣に並び、再び歩き始めた。
遊歩道の先にあるフォトスポットでは、二人で海を背景に写真を撮った。
近くにいた観光客が声をかけてくれたので、せっかくだからと二人並んだ写真も撮ってもらった。
◇
日が傾き始めると、港町の景色は昼間とは違う表情を見せた。
赤レンガの建物が夕日に染まり、海面には細長い光の道が伸びている。遊歩道の街灯も、ぽつぽつと灯り始めていた。
「きれいですね」
「うん。来てよかったね」
二人は海を見渡せる場所で足を止めた。
しばらく並んで景色を眺めていると、晴臣がふと口を開いた。
「暖かくなったら、また来てみたいね」
「いいですね」
「うん……今とはまた違った景色が見られそうだから」
美雨は晴臣を見上げた。
「……私も、また来たいです」
「じゃあ、春になったらまた一緒に来ようか」
「ふふ、約束ですよ?」
「うん、約束」
晴臣はいつものように、優しく微笑んだ。
春になったら、また二人でここへ来る。
今日と同じように並んで歩いて、カフェに入って、なんでもないことで笑い合う。
そんな未来を想像すると、自然と嬉しくなった。
けれど、そのときも自分たちは今と同じ関係なのだろうか。
ただの仲の良いお隣さんとして、彼の隣を歩いているのだろうか。
美雨はそっと晴臣の横顔を見つめた。
(そんなの、私は──)
その先に続く思いを、美雨はまだ言葉にできなかった。
◇
帰りの電車では、今日撮った写真を二人で見返した。
「この写真、よく撮れてるね」
「本当ですね。海がすごくきれい」
「水瀬さんにも送っておくよ」
「ありがとうございます。私が撮った写真も送りますね」
いつも通りの会話。いつも通りの穏やかな時間。
けれど、美雨の心には夕暮れの港で感じた気持ちが残っていた。
春になったら、また一緒に出かけられる。けれど、その先もずっと同じように過ごせるとは限らない。
もし、晴臣に好きな人ができたら。
もし、その人と恋人になったら。
今のように、二人で休日を過ごすことはなくなるかもしれない。
今の関係を壊したくない。ずっと、そう思っていたけれど、なにもしなければこの関係が続くというわけでもないのだ。
「水瀬さん?」
隣から声を掛けられ、美雨は顔を上げた。
「どうかした?」
「あ、いえ。なんでもないです」
「疲れた?」
「……少しだけ。でも、すごく楽しかったです」
「僕も。今日は誘ってくれてありがとう」
晴臣が微笑む。
その笑顔を見た瞬間、美雨は改めて思った。
(やっぱり、私は立花さんのことが好き)
優しくて、穏やかで。甘いものが大好きで、ときどき少し子どもっぽいところもあって、一緒にいると、自然と笑顔になれる人。
◇
マンションに帰り着いた頃には、すっかりと日が暮れていた。
「今日はありがとうございました、立花さん」
「こちらこそ、楽しかったよ」
「私もです。また一緒にお出かけしてくださいね」
「もちろん」
晴臣は柔らかく微笑んだ。
「それじゃあ、水瀬さん……おやすみ」
「おやすみなさい、立花さん」
それぞれの部屋へ戻り、美雨はコートを脱いでソファーに腰を下ろした。
端末を開くと、晴臣から今日の写真が届いていた。
青い海。
赤レンガの街並み。
カフェで食べたケーキ。
そして、二人で並んで撮った写真。
「……楽しかったな」
美雨は小さく呟いた。
写真の中の晴臣は、いつものように穏やかに笑っている。その隣には、嬉しそうな自分がいた。
差し伸べられた手の温もり。春になったら、また来ようという約束。
これからも、晴臣と一緒にいたい。ただのお隣さんではなく、恋人として。
「……私、もうこのままじゃ嫌なんだ」
美雨は端末を胸元に引き寄せた。
以前、紫乃に恋愛相談をしたときのことを思い出す。
あのときは、今の関係が壊れてしまうのが怖かった。もちろん、今だって怖い。
告白して、断られたらこれまでのように話せなくなるかもしれない。隣同士に住んでいるのだから、顔を合わせるたびに気まずくなるかもしれない。
それでも、このままなにも伝えずにいるのは、もう嫌だった。
晴臣が自分をどう思っているのかは、わからない。けれど、自分の気持ちだけは、はっきりしている。
「……よし」
美雨は小さく息を吐いた。
「ちゃんと、伝えよう」
大好きな晴臣に、この気持ちを。
美雨はもう一度、端末の写真を見つめた。画面の中の晴臣は、今日と同じ優しい笑顔を浮かべていた。
◇
一方、隣の部屋では、晴臣がリビングのソファーに腰を下ろしていた。
テーブルの上には、港町で買ってきたシュトーレンの袋が二つ置かれている。
晴臣は携帯端末を手に取り、今日の写真をぼんやりと眺めた。
赤レンガの街並み。
冬の海。
楽しそうに笑う美雨。
「……楽しかったな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
美雨と過ごす時間は、いつだって心地よい。
今日もそうだった。彼女が笑うたびに嬉しくなり、隣を歩いているだけで満たされた気持ちになった。
海沿いの石段で差し伸べた手。
小さな手が自分の手に重なった瞬間、もう少しだけ離したくないと思ってしまった。
そして、夕暮れの港で交わした約束。
『暖かくなったら、また来てみたいね』
あの言葉は、考えるよりも先に口から出ていた。
自分は、彼女との未来を当たり前のように思い描いていたのだ。
「……困ったな」
晴臣は小さく笑った。
美雨への気持ちは、もう何年も前から変わらない。彼女が自分に好意を寄せていることにも気づいている。
けれど、その気持ちに応えるわけにはいかなかった。
両思いになれば、魔法乙女の力は次第に低下していく。
魔法乙女として働く彼女にとって、それがどれほど深刻な問題になるのか。晴臣はよくわかっていた。
だからこそ、今の関係を守らなければならない。
そう、決めていたはずなのに。今日の自分は、なんのためらいもなく彼女と未来の約束を交わしていた。
しかも、それを後悔していない。むしろ、春が来るのを楽しみにしている自分がいる。
「……本当に、困ったな」
晴臣はもう一度、同じ言葉を呟いた。
端末の画面には、笑顔の美雨が映っている。
この笑顔を守りたい。
その気持ちは今も変わらない。けれど、彼女の隣にいるだけで満足できると、いつまで自分に言い聞かせていられるのだろうか。
晴臣は静かに息を吐き、端末の画面を伏せた。
窓の外では、十二月の冷たい風が吹いていた。




