10.お隣さんと夜の散歩
木曜日、午後七時過ぎ。
美雨はキッチンの棚を開けたまま固まっていた。
「……ない」
夕食の準備を始めようとしたところで、カレールーを切らしていたことに気づいたのだ。
ストック置き場も確認してみたが、当然ながら予備のカレールーが出てくるはずもない。
「昨日、買っておけばよかったな」
美雨は小さくため息をついた。もうカレーの口になっているというのに。
仕方がない。近所のスーパーまで買いに行こう。
財布と携帯端末を手に取り、薄手の上着を羽織る。玄関で靴を履き、扉を開けた。
すると、ほとんど同じタイミングで隣の部屋の扉も開いた。
「あれ、水瀬さん?」
顔を上げると、そこには晴臣が立っていた。
「こんばんは、立花さん」
「こんばんは。今からお出かけ?」
「はい。ちょっと買い忘れがあって、スーパーまで」
「そうなんだね」
晴臣は穏やかに微笑んだ。その笑顔に、美雨もつられて頬を緩める。
最近は何かとタイミングが合わず、こうして顔を合わせるのは久々だった。
「立花さんもお出かけですか?」
「僕は少し散歩でもしようかと思って。今日はずっと仕事のことを考えていたから、気分転換にね」
「そうだったんですね。お疲れさまです」
「ありがとう。水瀬さんも、お仕事お疲れさま」
晴臣は廊下の先へと目を向けた。
外はもう日が落ちて暗い。
「スーパーなら、僕もそっちの方へ行こうと思ってたんだ。よかったら一緒にどうかな?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「じゃあ、ぜひ!」
二人は並んでエレベーターへと向かった。
思いがけず晴臣と一緒に出かけられることになり、美雨の足取りは自然と軽くなった。
◇
マンションを出ると、夜の空気が頬に触れた。
街灯が歩道を照らし、通り沿いの店の明かりが少し眩しいくらいだった。
「それで、なにを買い忘れたの?」
晴臣が尋ねた。
美雨は真剣な顔で頷く。
「ルーです。カレーの」
「カレールー?」
「はい。カレーを作ろうと思ったら、切らしていたことに気づいて……もう私の口はカレーになってるのに」
「はは、カレーはもうカレー以外考えられなくなっちゃうよね」
「そうなんですよ!」
晴臣は美雨の話を楽しそうに聞いていた。
自然と料理の話から、最近食べたものや仕事帰りの過ごし方へと話題が移る。
こうして二人で歩くことは、これまでにも何度かあった。だから美雨も緊張することはなく、いつも通りに会話を楽しんでいたときだった。
「水瀬さん、危ない!」
「えっ?」
背後から、車輪の回る音が急速に近づいてきた。
振り返ると、スピードを出した自転車が狭い歩道をこちらへと向かってきていた。美雨が避けようとした瞬間、晴臣に腕をつかまれる。
「……っ!」
ぐい、と身体が引き寄せられた。次の瞬間、自転車がすぐ後ろを走り抜けていく。
ふわりと漂う、落ち着いた木の香り。そこに重なる、甘く温かなアンバーの香り。
(これ、立花さんの香りだ)
そう思った途端、心臓が大きく跳ねた。
美雨は晴臣の胸元に抱き寄せられていて、すぐ近くに彼の体温を感じる。
「……水瀬さん、大丈夫?」
頭の上から、聞き慣れた優しい声が降ってくる。
「あっ、はい! 大丈夫です」
晴臣は美雨の顔を確認すると、そっと腕を放した。
「ごめんね、急に引っ張って。腕、痛くなかった?」
「いえ、全然! 助けていただいて、ありがとうございました」
「水瀬さんに怪我がなくてよかったよ」
晴臣は自転車が走り去った方向へと目を向けた。
「随分とスピードが出ていたけど、気をつけてほしいな」
「そうですね」
美雨も頷く。
けれど、頭の中には先ほどの出来事が残っていた。自分を引き寄せた腕の力強さと、ふわりと鼻先をくすぐった香水。
(……びっくりした)
自転車にも驚いたけれど、それ以上に。
美雨はそっと胸元に手を当てた。まだ少し、心臓が速く動いている気がした。
「水瀬さん?」
「な、なんでもないです!」
晴臣は不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は尋ねなかった。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
二人は再び歩き始めた。
◇
スーパーに到着すると、美雨は調味料売り場へと向かった。
「ルー、カレールー……あ、あった」
目当ての商品を手に取る。いつも買っている赤色のパッケージのカレールーだ。
「無事に見つかったね」
「はい。これで無事にカレーが作れます」
そう言って胸を張る美雨に、晴臣が小さく笑った。
「立花さんは、なにか買われますか?」
「そうだね。せっかくだし、少し見ていこうかな」
二人は店内を歩いた。
ふと、晴臣が菓子売り場で足を止める。
「あ、これ新商品だ」
「さつまいものクッキー……立花さん、甘いものがお好きですもんね」
「うん。ちょっと気になるね」
晴臣は楽しそうに商品を眺めている。
「もっと寒くなったら、やっぱりチョコレートだよね」
「そういうものですか?」
「うん。あとアイスかな」
「……アイスは夏なのでは?」
「いやいや、水瀬さん。冬の暖房が効いた中で食べるアイスこそ至高なんだよ」
他愛もない会話をしながら買い物を終え、二人はスーパーを出た。
帰り道も、行きと同じように並んで歩く。ただ、先ほどの出来事を思い出すと、まだ少し落ち着かなかった。
◇
「そういえば、水瀬さん」
思い出したように晴臣が口を開いた。
「あのカフェ、また新しいメニューが出たらしいよ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。季節限定の焼き菓子だって」
「立花さん、もうチェックしてたんですね」
「まあね。気になるお店はつい調べちゃうんだ」
美雨は笑った。
晴臣と過ごす時間は、いつも楽しい。気を遣いすぎることもなく、自然に話せる。
それでも、彼と一緒にいると、ときどき胸が落ち着かなくなる。先ほどの出来事を思い出すと、胸の奥がまた少し熱くなった。
ふと、紫乃の言葉が頭をよぎった。
無理に答えを出さなくてもいい。けれど、自分の気持ちを大切にしてもいい。
美雨は隣を歩く晴臣を見上げた。
「あの、立花さん」
「ん?」
「今度のお休み、もし予定がなかったら」
少しだけ言葉を探す。
ためらいを飲み込んで、勇気を出す。
「また、一緒にお出かけしませんか?」
晴臣は驚いたように美雨を見た。
「一緒にお出かけ?」
「はい。今度は……少し遠くまで足を伸ばしてみるのもいいかなって」
いつもなら近所のカフェや書店に行くことが多い。たまには普段行かない街へ出かけてみたい。
もちろん、それを晴臣と一緒に。
そんな気持ちを込めて、美雨は彼の返事を待った。
「……立花さん?」
晴臣は一瞬だけ黙った。
都合が悪かっただろうか。そう思ったとき、晴臣はいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「うん、いいね。僕も水瀬さんと出かけたいな」
「本当ですか?」
「もちろん。どこに行こうか」
「えっと、まだ具体的には決めていないんですけど」
「じゃあ、これから一緒に考えよう」
美雨は嬉しくなった。胸の奥がじんわりと温かくなる。
今回は自分から誘うことができた。それだけのことなのに、なんだか誇らしかった。
◇
マンションへ戻ると、二人はエレベーターで五階へと上がった。
並んで廊下を歩き、それぞれの部屋の前で立ち止まる。
「今日はありがとうございました、立花さん」
「こちらこそ。一緒に歩けて楽しかったよ」
「私もです」
美雨は買い物袋を持ち直した。中で赤いパッケージのカレールーが揺れる。
「それじゃあ、また」
「うん。またね、水瀬さん」
二人はそれぞれの玄関の扉を開けた。
美雨は部屋へと戻ると、買ってきたカレールーをキッチンへ置く。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれる。
晴臣と次の約束ができた。それも、今回は自分から誘って。
「お出かけ、楽しみだな」
美雨は上機嫌で夕食の準備を始めた。
◇
晴臣は自室へと戻ると、ゆっくりと息を吐いた。
気分転換のつもりで出かけた散歩だった。けれど、思いがけず美雨と一緒に歩くことになった。
晴臣はソファーへと腰を下ろした。
彼女と話している間は、仕事のことを少し忘れられた気がした。けれど、ふと先ほどの出来事が頭をよぎる。
後ろから迫ってきた自転車。
危険に気づいた瞬間、考えるより先に身体が動いていた。美雨の腕を引き、自分の方へと抱き寄せた。
(……小さかったな)
アクア・アムールとして戦う美雨の姿を、晴臣は知っている。
巨大なギアビーストの攻撃をかわし、分厚い装甲を拳で砕く。その強さは、誰よりもよく理解しているつもりだった。
けれど、実際に腕の中へ抱き寄せた彼女は、驚くほど華奢だった。あれほどの力を秘めていることが信じられないくらいに。
腕を引いたときの軽さも、妙にはっきりと覚えている。
晴臣は片手で顔を覆った。
(……弱ったな)
彼女を危険から遠ざけたかった。ただ、それだけだったはずなのに。
思い出すのは、腕の中にいた美雨の姿ばかりだ。
それから、帰り道のこと。
美雨は自分から次の休日に出かけようと誘ってくれた。彼女がどんな気持ちで誘ってくれたのか、晴臣にはわかっている。
そして、自分もまた同じ気持ちだった。
本当ならもっと一緒にいたい。休日だけではなく、なんでもない日にも。隣人としてではなく、もっと近い存在として。
けれど、晴臣は静かに目を伏せた。
魔法乙女の力は、恋愛感情と深く結びついている――恋が実れば、その力は次第に低下していく。
それが、これまでの研究で示されてきた定説だった。
昨日、制御不能となったギアビーストのことが頭をよぎった。
美雨は今も魔法乙女として危険な現場に立っている。彼女の仕事を、未来を、自分の望みだけで危うくするわけにはいかない。
(……水瀬さん)
晴臣は隣の部屋へ視線を向けた。
この壁の向こうに愛しい人がいる。
今日、腕を伸ばせば彼女を抱き寄せることができた。けれど、恋人としてその手を伸ばすことはできない。
この距離を守らなければならない。
そう自分に言い聞かせながら、彼は静かに目を閉じた。




