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第七章 過去から届く光

 眠れないまま、午前六時になった。

 雨戸の隙間から朝の光が入り、畳の上へ細い線を引いている。私は布団の中で携帯を持ち、冬子さんへの文章を書いては消した。

『昨日はごめんなさい』

 それだけでは、何について謝っているかわからない。

『お父さまも戻らない、という言い方は』

 読み返すだけで、自分の声が蘇る。

 事実なら言っていいわけではない。あのときの私は、冬子さんの考えを正すために言葉を使った。故障した車と亡くなった父親を重ねるのは非合理的だと、彼女も承知していた。それでも、そう思わずにいられない気持ちを、私は間違いとして切り捨てた。

 美緒に言われたことを思い出す。

『遥は、私が痛いって言うと、どこが痛いか探し始めるよね。私は手を握ってほしいだけなのに』

 当時の私は、場所を特定しなければ治せないと答えた。

 今なら、相手が求めたものはわかる。わかったのに、昨日も同じことをした。

 送信せずに画面を閉じる。

 文章で整えてから渡すのではなく、顔を見て話さなければならない。

 七時、荷物をまとめて部屋を出た。廊下は静かで、冬子さんの部屋の扉も閉じている。彼女は九時に工場へ行くと言っていた。私は起こさず、民宿の主人へ鍵を返した。

「朝ご飯、いいんですか」

「あとで戻ります」

「工場なら、まだ開いてないよ」

「車の近くにいたいので」

 誰の車なのかは言わなかった。


 早川自動車の前へ着いたのは、七時二十分だった。

 当然、シャッターは閉まっている。敷地の隅に、レガシィが停められていた。見慣れた濃紺の車体が、ほかの修理車に挟まれている。ナンバープレートも、左後ろの傷も、昨日までと変わらない。

 私はフェンスの外から見えるベンチへ座り、小野寺先生へ電話をかけた。

『ずいぶん早いね』

「すみません。昨日の報告について、変更があります」

 阿智村へ公共交通機関で先行する案を断り、車の修理を待つこと。木曽の追加測定は、共同観測者が前週に取得したデータを比較に使えること。私の機材でなければならない地点だけを阿智で測ること。昨夜のうちに調べた代替案を説明する。

『研究上は、それで問題ない。もともと安全優先と言ったでしょう』

「はい」

『それでも先に行こうとしていたのは、なぜ?』

「予定していたからです」

『今、残るのは?』

 私はレガシィを見た。

「残りたいからです」

 電話の向こうで、小野寺先生が小さく笑った。

『研究以外の理由を聞いたのは、初めてかもしれない』

「研究を軽く扱うつもりはありません」

『わかってる。だから代替データまで探したんでしょう。予定を守ることと、目的を守ることは同じじゃない。そこを間違えなければいい』

「目的」

『修士論文の目的は、百瀬さんが一人で全部測ることではないよ』

 わかっていたはずだった。研究は再現可能であるべきで、誰が測っても同じ条件なら同じ結果へ近づく。私だけがその場へ行くことに価値があるわけではない。

 けれど、人との旅は違う。

 冬子さんの隣にいることを、誰かのデータで代替はできない。

「阿智の測定は、予定どおり行います」

『間に合わなくても、無理をしないこと』

「はい」

『宮坂さんにも、よろしく』

「伝えます」

 電話を切る。まだ冬子さんへよろしくと言える関係かは、わからない。

 八時前、工場の軽トラックが入ってきた。運転していた男性が私を見て、窓を下げる。昨日対応してくれた早川さんだった。

「早いね。車の人は?」

「九時に来ます。私は同乗者です」

「そうだったね。部品屋からは、十時半くらいに届くって連絡があったよ。ほかも見ておくけど、昼過ぎには出せると思う」

「ありがとうございます」

「中、開けるから待ってて」

 シャッターが上がり、油と金属の匂いが外へ流れてきた。私は待合室の椅子へ座る。テーブルの自動車雑誌を一冊開いたが、内容は頭に入らなかった。

 八時四十七分、入口のベルが鳴る。

 冬子さんが立っていた。

 明るい灰色の新しい上着を着て、髪は結ばず肩へ下ろしている。私を見た瞬間、足が止まった。

「九時じゃなかった?」

「冬子さんこそ」

「目が覚めたから」

「私も」

 十五分早い理由としては同じだった。

「部品は十時半頃に届くそうです。昼過ぎには出られる見込み」

「聞いたんだ」

「はい」

 敬語が戻っていることに気づき、言い直す。

「聞いたよ」

 冬子さんは受付で早川さんへ挨拶し、車の状態を確かめた。オルタネーター以外には、すぐ走行を止めるような異常は見つかっていない。ただし次の車検では、以前の見積もりどおり、複数の整備が必要になるという。

「わかりました。今日は発電機だけお願いします」

 彼女はそう答えた。

 売るか乗るか、その判断を変えたわけではない。

 待合室へ戻ると、隣ではなく向かいの椅子へ座る。机一つ分の距離があった。

「昨日のこと、謝りたい」

 私から切り出した。

「今?」

「顔を見て言いたかったから」

「車が直ってからじゃ駄目?」

「直ることと、私が言ったことは別」

 冬子さんが視線を上げる。

「『お父さまも戻らない』という言い方をした。事実を言えば、冬子さんの気持ちを正せると思った。違った。私は、あなたを傷つけるために正しさを使った。ごめんなさい」

「傷つけるつもりだった?」

「その瞬間は、黙らせたかった。怖かったから」

「何が?」

 答えようとすると、昨日より喉が詰まった。事実を述べるだけなら難しくない。そこへ自分の感情を含めた途端、どの言葉も不正確に思える。

「車を売ったら、旅のあとに会う理由までなくなると思った。会いたいと言えば、それだけで理由になるのに、私は言えなかった。だから冬子さんの決め方が間違っていることにすれば、止められると思った」

「正直だね」

「意図がなかったことにして、軽くしたくない」

 冬子さんは机の木目を見た。

「父が戻らないのは、本当。車が壊れたのも父のせいじゃない。私もわかってた」

「うん」

「それでも、遥さんから言われたくなかった」

「どうして?」

「一緒に、わからなくなってくれると思ったから」

 目が合う。

「車を売るのが正しいか、地図を最後まで辿れば終われるのか。遥さんなら、正しい答えを出せなくても、私の隣で考えてくれると思ってた」

「考えたい。昨日は、隣にいるより先に間違いを直そうとした。もうしないと約束するだけでは、たぶん足りない。次は答えを出す前に、私にもわからないと言う」

 冬子さんの口元が、わずかに動いた。

「そこは遥さんらしい」

「私は、どこまで変わればいい?」

「変われとは言ってない」

「でも、同じことはしたくない」

「なら、次に私が間違ったことを言ったとき、すぐ正さないで。一回だけ、一緒に間違って」

「そのあと正しても?」

「一回なら」

「わかった」

「あと、私も謝る」

 冬子さんは膝の上で両手を組んだ。

「遥さんが、車を研究のために使ってるだけだと言った。違うって知ってたのに」

「最初は、移動手段として乗った」

「今は?」

 質問が、まっすぐ届く。

「冬子さんが運転しているから乗りたい」

 彼女の指が動いた。

「それ、ずるい言い方」

「どこが?」

「まだわからないなら、いい」

 美ヶ原の店で、彼女が同じことを言った。近いと言われたとき。あの頃から、冬子さんは私より先に気づいていたのかもしれない。

「わかりたい」

「今じゃなくていい。部品が来るまで時間があるから、朝ご飯を食べない?」

「民宿で食べていないの?」

「食べたけど、付き合う。昨日は納豆を数えたお礼」

「数えていたんですか」

「遥さんが百八回も混ぜるから」

「百九回です」

「自分でも数えてたの?」

「最後の一回は、冬子さんが話しかけたあと」

 数が合ったことで、二人とも笑った。

 昨日から初めて、何も引っかからず同じ場所へ笑いが届いた。


 工場近くの喫茶店で、冬子さんはトーストと二杯目のコーヒーを頼んだ。私は朝食を取っていなかったので、卵とサラダのついたモーニングにする。

「さっき、誰かと電話してた?」

「小野寺先生。木曽の追加測定は、共同観測者のデータを使えることになった」

「じゃあ、電車で阿智へ行けたんじゃない?」

「行かなかった」

「機材が重いから?」

「それもある。でも、残りたかったから」

 冬子さんはコーヒーカップを持つ手を止めた。

「昨日、先に行けばいいと言われたときも、行きたくなかった。冬子さんを置いて測定へ行っても、たぶん後悔する」

「研究より私?」

「比べない」

「私が元恋人に言えなかった答えだ」

「冬子さんが教えたから」

「私は、言えなかったのに」

「言えなかったことからも、教えられる」

 冬子さんが窓の外を見る。道路を軽トラックが通り過ぎ、店内に朝の光が揺れた。

「車が直ったら、阿智へ行こう」

「うん」

「木曽は?」

「時間があれば寄る。無理なら通過する」

「行かなくていいの?」

「目的と予定は同じではないから」

「先生に言われた?」

「どうしてわかるの」

「遥さんが急に上手なことを言うから」

 私はトーストをちぎった。

「借りた言葉でも、理解して使えば自分のものになる」

「それ、私の上着も?」

 紺色の袖を見る。

「これは、まだ借り物」

「あげるって言ったら?」

「理由を聞く」

「似合うから」

「それだけ?」

 冬子さんは答えず、カップへ口をつけた。

 昨日なら、私もそこで質問を止めただろう。けれど、わかりたいと言ったばかりだ。

「冬子さん。私が言葉にするまで待つと言った?」

「昨日、展示で」

「期限がなくても?」

「そう言ったのは遥さん」

「冬子さんは、待ってくれる?」

 彼女はゆっくりカップを置いた。

「旅が終わるまでは」

「そのあとも待ってほしいと言ったら?」

「何を待つのかによる」

「まだ説明できない」

「じゃあ、説明できるまで。今度は、期限を決めない」

 胸の内側にあった硬いものが、少しずつほどける。

 期限がなくても待つと言われることが、こんなに安心するとは知らなかった。


 十時四十分、リビルト品のオルタネーターが工場へ届いた。

 作業中、私たちは工場の前を流れる小さな川まで歩いた。夏の日差しが戻り、先日の雨で水が勢いよく流れている。

 冬子さんは護岸の上へ腰を下ろし、紙の道路地図を広げた。神岡から朝日町まで、昨日走った線を指で辿る。

「父の印、ここにはないの」

「朝日町?」

「うん。故障した道も、工場も、喫茶店も。全部、父の地図の外」

「道路そのものは載ってる」

「そうじゃなくて。父が行きたかった場所じゃない、という意味」

「それでも、来たね」

「車が壊れたから」

「私たちが来たことは同じでしょ」

 冬子さんは地図を見つめた。

「父の印がない場所にも、ちゃんと何かあるんだね」

「当たり前だよ」

「知ってた。でも、見てなかった」

 彼女は鞄から青いボールペンを出し、工場の場所へ小さな丸を書こうとした。ペン先が紙へ触れる直前に止まる。

「書かないの?」

「これは父のペンだから」

「冬子さんの字を書いてはいけない?」

「今まで、一度も足してないの。どこまでが父の記録かわからなくなるから」

「別の色を使えばいい」

「持ってない」

 私は筆箱から赤いボールペンを出し、差し出した。

「使う?」

 冬子さんは受け取らず、しばらく見ていた。

「今は、まだ」

「わかった」

 私はペンを戻す。

「阿智へ着いたら、貸して」

「うん」

 昨日の私は、彼女の答えを今すぐ出そうとした。今日は待てる。

 川の音を聞きながら、二人で地図を見た。何も書き込まない時間にも、意味はあった。


 修理が終わったのは、十三時十分だった。

 交換された古いオルタネーターが、工場の床に置かれている。黒ずんだ金属の塊で、外から見ただけではどこが壊れているかわからない。

「古い部品、持って帰ります?」

 早川さんが冬子さんへ尋ねた。

「持って帰る人がいるんですか」

「記念にって人も、たまに。普通はこっちで処分します」

 冬子さんは部品を見た。

 父が運転していた頃から使われていたものかもしれない。途中で交換歴がなければ、二十二年間、この車へ電気を供給してきた。

「処分してください」

 答えは、思ったより早かった。

「いいの?」

 私が聞くと、彼女はうなずく。

「壊れた部品まで残したら、車の中が部品庫になるでしょ」

「そうだね」

「父のものかもしれないけど、役目は終わったから」

 言葉のあと、冬子さんは一度だけ古い部品へ頭を下げるように視線を落とした。

 新しいオルタネーターの発電量は正常。ベルトの状態も確認され、異音は消えている。早川さんは、充電警告灯が再び点いた場合は走らないこと、今日のうちは休憩のたびに状態を見ることを説明した。

 冬子さんが支払いを済ませ、キーを受け取る。

「運転、代わろうか」

「今日は私が」

「まだ?」

「阿智まで行ったら、考える」

「期限ができた」

「これは必要な期限」

 笑い方が、昨日より近く戻っていた。


 国道361号を東へ進む。

 高山市朝日町を抜け、山とダム湖の間を走る道。昨日とは違い、オーディオから父のCDが流れていた。発電機を交換したせいで音が変わったかと聞くと、冬子さんは「わからない」と正直に答えた。

「変わらない気もするし、静かになった気もする。意識してるから、余計に」

「測定器があれば比較できる」

「昔の音を録ってないから無理でしょ」

「それでも、今の音は残せる」

「録る?」

「必要なら」

「今日はいい。忘れたくなったら、そのまま忘れる」

 窓の外に、高根乗鞍湖の水面が見えた。雲は残っているが、青空のほうが広い。道は長峰峠へ向かって上り、県境を越えて再び長野県へ入る。

 開田高原の手前で休憩した。エンジンを止め、再始動する。警告灯は正常に消え、異音もない。冬子さんは黄色いファイルへ、交換時の走行距離と費用を書き込んだ。

「新しい部品の最初の記録」

「うん」

「それも、次の人のため?」

 冬子さんのペンが止まる。

「今は、まだわからない」

「売るかどうか?」

「そう。査定は断らない。でも、値段を聞いてから、もう一度考える」

「お父さまのため?」

「自分のため」

 答えは静かだった。

「乗りたいなら、修理費を払って乗る。無理だと思ったら売る。父がどう思うかは、勝手に想像しない」

「一緒に考えてもいい?」

「車の家計相談?」

「それも。これからのことも」

「これから?」

「まだ説明の途中」

「待つんだったね」

 冬子さんはファイルを閉じた。


 木曽観測所へ着いたのは、十六時を過ぎていた。

 観測所までの数キロは狭く曲がりくねった山道で、冬子さんは対向車が来るたび待避場所を探した。見学可能時間が終わるまで、あまり余裕はない。それでも彼女は速度を上げない。

「間に合わなくてもいいよ」

「遥さんが行きたい場所でしょ」

「安全のほうが目的」

「学習したね」

「誰の影響だと思ってるの」

「私」

「即答」

「わかってることだから」

 駐車場へ車を置き、展示室へ急ぐ。見学者はほかに一組だけだった。

 大きなドームの中には、口径百五センチのシュミット望遠鏡がある。広い範囲を一度に捉えることに向いた望遠鏡。その焦点面には、多数のCMOSセンサーを組み合わせたトモエゴゼンという観測装置が搭載され、短い間隔で空を撮り続けている。

「動画みたいに星を撮る?」

 冬子さんが説明を読む。

「急に明るくなったり、動いたりする天体を見つけやすい。空の広い範囲を繰り返し見ることで、変化を捉える」

「変わったものを探す望遠鏡」

「変わる前を記録しているから、変化がわかる」

 展示パネルには、星が急に明るくなる現象や、地球へ近づく小天体の軌跡が並んでいた。別の一角には、天体までの距離と光が届く時間の関係が図で示されている。

 冬子さんが、一枚の銀河の画像の前で足を止めた。

「遠い星は、昔の姿を見てるんだよね」

「うん。距離が一光年なら約一年前、千光年なら約千年前に出た光を見る」

「今は、もうない星かもしれない」

「可能性はある。恒星の寿命は種類によって違うし、距離もあるから、全部がそうという意味ではないけど」

「遥さんは、そういう光を見て、寂しいと思わない?」

 私は画像を見た。画面に届いた光は電気信号へ変わり、処理され、人の目に見える色と明るさになっている。出発した時刻と受け取った時刻は違っても、途中の時間が消えるわけではない。

「寂しいと思うことはある。でも、偽物だとは思わない」

「偽物?」

「光が発せられたとき、その星があったことも、今ここへ届いたことも本当だから。過去の姿を見ているけど、光を受け取っているのは現在でしょう」

 冬子さんは黙り、展示ケースへ映る自分の顔を見た。

「父の地図も、そうなのかな」

 すぐに、そうだとは言えなかった。

 天体の光と、人が遺した文字は同じではない。星に意思はなく、地図を書いた人には意思があった。けれど、その人が今も同じことを望んでいると、残された文字だけで決めることはできない。

「似ているところはあると思う。でも、同じとは言わない」

「どう違う?」

「私には、お父さまが今どう思うかはわからない。地図から勝手に代弁もできない。ただ、そのとき書いた気持ちがあったことと、冬子さんが今それを受け取っていることは、どちらも嘘ではないと思う」

「受け取ったら、書いた人の望みどおりにしなきゃいけない?」

「光を見た人が、光の出た場所へ行かなければならないわけではない」

「天文学の話?」

「今は、地図の話」

 冬子さんが、かすかに笑った。

「過去から届いたものは、受け取った人がどうするか決めていい?」

「私はそう思う。捨てても、持っていても、別の意味を見つけてもいい。過去だったから価値がないわけでも、過去に大切だったから今も従わなければならないわけでもない」

「昨日の遥さんなら、もっと短く言った」

「故障は故障、って?」

「うん」

 胸が痛んだ。冬子さんは責める口調ではない。それが余計に、私の言葉が残した傷の形をはっきりさせる。

「あれは、地図の話をする言葉ではなかった」

「今のは?」

「一緒にわからなくなるための言葉を探した」

「見つかった?」

「まだ途中」

「なら、一緒に考える」

 冬子さんは再び銀河の画像を見上げた。

「この旅も、父の地図から始まった。でも、遥さんに会ったことまで父が決めたわけじゃない」

「うん」

「車が止まったことも」

「それは、オルタネーター」

「一回、一緒に間違ってくれる約束は?」

「今のは車の安全に関係するから、訂正が必要」

「例外が多そう」

「規則は運用しながら改善する」

 冬子さんの笑い声が、ドームの内側へ小さく反響した。

「遥さんみたい」

「私?」

「会った日の時刻も、雲の量も、食べたものも覚えてる。変わったところを見つけるため?」

「食べたものは記録していない」

「胡桃蕎麦、山賊焼き、ハンバーグ、飛騨牛カレー」

「冬子さんが覚えてる」

「本当だ」

 彼女は笑った。

「変わったのは、どこ?」

 私が尋ねる。

「遥さんの?」

「うん」

「値札をつけなくなった。敬語が減った。蕎麦以外もおいしいと言えるようになった」

「最後は違う」

「私の上着を、自分のものみたいに着てる」

 袖を見る。返す時期を決めていなかった。

「冬子さんは?」

「何が変わった?」

「助手席が、自分の場所みたいになった」

「それは、遥さんが変えたんでしょ」

「変えてよかった?」

 冬子さんは望遠鏡を見上げた。

「今は、そう思ってる」

 今の次が欲しい。

 私は展示室の時計を見た。閉館時刻ではなく、阿智までの時間でもない。言うべき言葉を、また予定の後ろへ置こうとしていないか確かめた。


 観測所を出たあと、木曽町三岳の予定地点で短い測定を行った。

 太陽がまだ山の上にあるため、本測定ではない。気温と湿度、周囲の光源位置だけを記録し、全天カメラで空を撮る。追加データは共同観測者のものを使うと決めたので、日没まで待つ必要はない。

「前の遥さんなら、待った?」

 機材を積みながら、冬子さんが聞く。

「予定に入れていたら」

「今は?」

「阿智へ行きたい」

「流星群を見るため?」

「冬子さんの地図の最後だから」

「研究は?」

「もちろん測る。でも、それだけではない」

 私たちは国道19号へ出て、南へ向かった。

 木曽川に沿う道路を、トラックと一緒に走る。夕方の光が山の上だけに残り、谷の底は早く暗くなる。阿智村までは、まだ距離があった。

 道の駅で最後の休憩を取った。

 営業終了の近い食堂で、私たちは温かい定食を食べた。今夜は観測が長くなるからと、冬子さんは残さず平らげるよう私を急かしたが、自分のほうが先に食べ終えた。

「今日は、味の感想を言わないんだね」

 冬子さんが、空いた器を端へ寄せながら言う。

「考え事をしていて、正確に覚えてない」

「研究?」

「違う」

「私に関係ある?」

 箸を置く。ここで曖昧にすれば、また予定の後ろへ隠せる。

「ある」

 冬子さんは問いを重ねず、私の湯飲みに茶を足した。

「じゃあ、あとで聞く」

「どうして今、聞かないの」

「口に食べ物が入ってる人を急かすと危ないから」

「もう飲み込んだ」

「それでも、あとで」

 待ってもらうことが、逃げるための猶予ではなく、言うための余白になる。私は残りを食べ、味の代わりに、その違いを覚えておくことにした。

 食後、彼女は車の状態を確認し、私は売店で夜食と飲み物を買う。二本の水を持って戻ると、一本を手渡した。

「いくら?」

「値札はつけない」

「成長した」

「その代わり、聞いてほしいことがある」

 冬子さんの顔から笑いが消える。

「今?」

「今。阿智へ着いてからだと、地図の終わりに紛れるから」

 駐車場には車の出入りがあり、落ち着いた場所ではない。けれど、最適な場所を待っていたら、私はまた言えなくなる。

 頭の中では、言う順序を決めていたはずだった。ところが冬子さんを前にすると、最初の一文以外がきれいに消えた。腕時計へ触れ、時刻を見ないまま手を下ろす。掌が汗ばんでいた。

「私は、冬子さんが好きです」

 声が敬語へ戻った。

 冬子さんは何も言わない。

「車があるからでも、研究を手伝ってくれたからでもなくて――違う。それも大切だけど、理由を並べて証明したいんじゃない」

 そこで言葉が途切れた。

 駐車場を出ていく車のタイヤが、舗装の継ぎ目を二度踏んだ。売店の自動ドアが開き、店内の音楽が一節だけ漏れ、また閉じる。それだけの時間があっても、次の文は出てこなかった。

 冬子さんは急かさない。水のボトルを胸の前で両手に持ち、私が止まった場所で待っている。

「……名前を呼ばれると」

 声が掠れた。一度息を吸ってから、最初だけを言い直す。

「冬子さんに名前を呼ばれると、次も呼ばれたいと思う」

 そこまで口にすると、決めていた順番はもう戻らなかった。私は冬子さんではなく、レガシィの屋根に映る薄い空を見る。

「困っているときに待ってくれたから、今度は私が待ちたい。旅が終わっても会いたい」

 次の言葉は、唇の裏に張りついた。飲み込めば、説明できる日までまた先送りにできる。それをしたくなくて、形の悪いまま押し出す。

「たぶん私は、理由を全部説明できるより前から、好きだった」

「遥さん」

「敬語になったのは、緊張したから」

「そこじゃなくて」

「もう一度言う?」

「待って」

 彼女は水のボトルを車の屋根へ置き、両手で顔を覆った。

「今、顔を見ないで」

「なぜ?」

「見ないでって言ったら、一回くらい聞いて」

 私はレガシィの反対側へ回り、道路を見る。背後で、冬子さんが長く息を吐く音がした。

「旅行中だから、そう思ってる可能性は?」

「ある」

「あるんだ」

「ないと言い切るのは怖い。でも、帰ってから気持ちが変わるかもしれないから黙るほうが、もっと嫌だった。変わったら逃げずに話す。変わらなかったら、何度でも会いたい」

「ずいぶん不器用な保証」

「これ以上きれいに言うと、嘘になる」

 車の向こうで、冬子さんが笑った。

「名前」

「何?」

「『さん』を取って、もう一度言って」

 私は振り返る。

 冬子さんも、もう顔を隠していなかった。頬が赤い。

「冬子が好き」

 今度は短く言えた。

 彼女は私を見たまま、目を細めた。

「返事、阿智まで待ってもらっていい?」

「うん」

「逃げるためじゃなくて。父の地図を終わらせてから、自分の言葉で答えたい」

「待つ」

「期限があるけど」

「今回は必要な期限でしょう」

「覚えてたんだ」

「今日のことだから」

 冬子さんが水を一本取り、助手席側のドアを開けた。

「乗って、遥さん」

 敬称はまだ残っている。

 私は助手席へ戻った。

 日が沈んだ国道には、街灯が点き始めていた。空には雲が広がり、星は見えない。

 それでも、隣にいる人の返事を待つ時間は、もう空白ではなかった。

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