第七章 過去から届く光
眠れないまま、午前六時になった。
雨戸の隙間から朝の光が入り、畳の上へ細い線を引いている。私は布団の中で携帯を持ち、冬子さんへの文章を書いては消した。
『昨日はごめんなさい』
それだけでは、何について謝っているかわからない。
『お父さまも戻らない、という言い方は』
読み返すだけで、自分の声が蘇る。
事実なら言っていいわけではない。あのときの私は、冬子さんの考えを正すために言葉を使った。故障した車と亡くなった父親を重ねるのは非合理的だと、彼女も承知していた。それでも、そう思わずにいられない気持ちを、私は間違いとして切り捨てた。
美緒に言われたことを思い出す。
『遥は、私が痛いって言うと、どこが痛いか探し始めるよね。私は手を握ってほしいだけなのに』
当時の私は、場所を特定しなければ治せないと答えた。
今なら、相手が求めたものはわかる。わかったのに、昨日も同じことをした。
送信せずに画面を閉じる。
文章で整えてから渡すのではなく、顔を見て話さなければならない。
七時、荷物をまとめて部屋を出た。廊下は静かで、冬子さんの部屋の扉も閉じている。彼女は九時に工場へ行くと言っていた。私は起こさず、民宿の主人へ鍵を返した。
「朝ご飯、いいんですか」
「あとで戻ります」
「工場なら、まだ開いてないよ」
「車の近くにいたいので」
誰の車なのかは言わなかった。
早川自動車の前へ着いたのは、七時二十分だった。
当然、シャッターは閉まっている。敷地の隅に、レガシィが停められていた。見慣れた濃紺の車体が、ほかの修理車に挟まれている。ナンバープレートも、左後ろの傷も、昨日までと変わらない。
私はフェンスの外から見えるベンチへ座り、小野寺先生へ電話をかけた。
『ずいぶん早いね』
「すみません。昨日の報告について、変更があります」
阿智村へ公共交通機関で先行する案を断り、車の修理を待つこと。木曽の追加測定は、共同観測者が前週に取得したデータを比較に使えること。私の機材でなければならない地点だけを阿智で測ること。昨夜のうちに調べた代替案を説明する。
『研究上は、それで問題ない。もともと安全優先と言ったでしょう』
「はい」
『それでも先に行こうとしていたのは、なぜ?』
「予定していたからです」
『今、残るのは?』
私はレガシィを見た。
「残りたいからです」
電話の向こうで、小野寺先生が小さく笑った。
『研究以外の理由を聞いたのは、初めてかもしれない』
「研究を軽く扱うつもりはありません」
『わかってる。だから代替データまで探したんでしょう。予定を守ることと、目的を守ることは同じじゃない。そこを間違えなければいい』
「目的」
『修士論文の目的は、百瀬さんが一人で全部測ることではないよ』
わかっていたはずだった。研究は再現可能であるべきで、誰が測っても同じ条件なら同じ結果へ近づく。私だけがその場へ行くことに価値があるわけではない。
けれど、人との旅は違う。
冬子さんの隣にいることを、誰かのデータで代替はできない。
「阿智の測定は、予定どおり行います」
『間に合わなくても、無理をしないこと』
「はい」
『宮坂さんにも、よろしく』
「伝えます」
電話を切る。まだ冬子さんへよろしくと言える関係かは、わからない。
八時前、工場の軽トラックが入ってきた。運転していた男性が私を見て、窓を下げる。昨日対応してくれた早川さんだった。
「早いね。車の人は?」
「九時に来ます。私は同乗者です」
「そうだったね。部品屋からは、十時半くらいに届くって連絡があったよ。ほかも見ておくけど、昼過ぎには出せると思う」
「ありがとうございます」
「中、開けるから待ってて」
シャッターが上がり、油と金属の匂いが外へ流れてきた。私は待合室の椅子へ座る。テーブルの自動車雑誌を一冊開いたが、内容は頭に入らなかった。
八時四十七分、入口のベルが鳴る。
冬子さんが立っていた。
明るい灰色の新しい上着を着て、髪は結ばず肩へ下ろしている。私を見た瞬間、足が止まった。
「九時じゃなかった?」
「冬子さんこそ」
「目が覚めたから」
「私も」
十五分早い理由としては同じだった。
「部品は十時半頃に届くそうです。昼過ぎには出られる見込み」
「聞いたんだ」
「はい」
敬語が戻っていることに気づき、言い直す。
「聞いたよ」
冬子さんは受付で早川さんへ挨拶し、車の状態を確かめた。オルタネーター以外には、すぐ走行を止めるような異常は見つかっていない。ただし次の車検では、以前の見積もりどおり、複数の整備が必要になるという。
「わかりました。今日は発電機だけお願いします」
彼女はそう答えた。
売るか乗るか、その判断を変えたわけではない。
待合室へ戻ると、隣ではなく向かいの椅子へ座る。机一つ分の距離があった。
「昨日のこと、謝りたい」
私から切り出した。
「今?」
「顔を見て言いたかったから」
「車が直ってからじゃ駄目?」
「直ることと、私が言ったことは別」
冬子さんが視線を上げる。
「『お父さまも戻らない』という言い方をした。事実を言えば、冬子さんの気持ちを正せると思った。違った。私は、あなたを傷つけるために正しさを使った。ごめんなさい」
「傷つけるつもりだった?」
「その瞬間は、黙らせたかった。怖かったから」
「何が?」
答えようとすると、昨日より喉が詰まった。事実を述べるだけなら難しくない。そこへ自分の感情を含めた途端、どの言葉も不正確に思える。
「車を売ったら、旅のあとに会う理由までなくなると思った。会いたいと言えば、それだけで理由になるのに、私は言えなかった。だから冬子さんの決め方が間違っていることにすれば、止められると思った」
「正直だね」
「意図がなかったことにして、軽くしたくない」
冬子さんは机の木目を見た。
「父が戻らないのは、本当。車が壊れたのも父のせいじゃない。私もわかってた」
「うん」
「それでも、遥さんから言われたくなかった」
「どうして?」
「一緒に、わからなくなってくれると思ったから」
目が合う。
「車を売るのが正しいか、地図を最後まで辿れば終われるのか。遥さんなら、正しい答えを出せなくても、私の隣で考えてくれると思ってた」
「考えたい。昨日は、隣にいるより先に間違いを直そうとした。もうしないと約束するだけでは、たぶん足りない。次は答えを出す前に、私にもわからないと言う」
冬子さんの口元が、わずかに動いた。
「そこは遥さんらしい」
「私は、どこまで変わればいい?」
「変われとは言ってない」
「でも、同じことはしたくない」
「なら、次に私が間違ったことを言ったとき、すぐ正さないで。一回だけ、一緒に間違って」
「そのあと正しても?」
「一回なら」
「わかった」
「あと、私も謝る」
冬子さんは膝の上で両手を組んだ。
「遥さんが、車を研究のために使ってるだけだと言った。違うって知ってたのに」
「最初は、移動手段として乗った」
「今は?」
質問が、まっすぐ届く。
「冬子さんが運転しているから乗りたい」
彼女の指が動いた。
「それ、ずるい言い方」
「どこが?」
「まだわからないなら、いい」
美ヶ原の店で、彼女が同じことを言った。近いと言われたとき。あの頃から、冬子さんは私より先に気づいていたのかもしれない。
「わかりたい」
「今じゃなくていい。部品が来るまで時間があるから、朝ご飯を食べない?」
「民宿で食べていないの?」
「食べたけど、付き合う。昨日は納豆を数えたお礼」
「数えていたんですか」
「遥さんが百八回も混ぜるから」
「百九回です」
「自分でも数えてたの?」
「最後の一回は、冬子さんが話しかけたあと」
数が合ったことで、二人とも笑った。
昨日から初めて、何も引っかからず同じ場所へ笑いが届いた。
工場近くの喫茶店で、冬子さんはトーストと二杯目のコーヒーを頼んだ。私は朝食を取っていなかったので、卵とサラダのついたモーニングにする。
「さっき、誰かと電話してた?」
「小野寺先生。木曽の追加測定は、共同観測者のデータを使えることになった」
「じゃあ、電車で阿智へ行けたんじゃない?」
「行かなかった」
「機材が重いから?」
「それもある。でも、残りたかったから」
冬子さんはコーヒーカップを持つ手を止めた。
「昨日、先に行けばいいと言われたときも、行きたくなかった。冬子さんを置いて測定へ行っても、たぶん後悔する」
「研究より私?」
「比べない」
「私が元恋人に言えなかった答えだ」
「冬子さんが教えたから」
「私は、言えなかったのに」
「言えなかったことからも、教えられる」
冬子さんが窓の外を見る。道路を軽トラックが通り過ぎ、店内に朝の光が揺れた。
「車が直ったら、阿智へ行こう」
「うん」
「木曽は?」
「時間があれば寄る。無理なら通過する」
「行かなくていいの?」
「目的と予定は同じではないから」
「先生に言われた?」
「どうしてわかるの」
「遥さんが急に上手なことを言うから」
私はトーストをちぎった。
「借りた言葉でも、理解して使えば自分のものになる」
「それ、私の上着も?」
紺色の袖を見る。
「これは、まだ借り物」
「あげるって言ったら?」
「理由を聞く」
「似合うから」
「それだけ?」
冬子さんは答えず、カップへ口をつけた。
昨日なら、私もそこで質問を止めただろう。けれど、わかりたいと言ったばかりだ。
「冬子さん。私が言葉にするまで待つと言った?」
「昨日、展示で」
「期限がなくても?」
「そう言ったのは遥さん」
「冬子さんは、待ってくれる?」
彼女はゆっくりカップを置いた。
「旅が終わるまでは」
「そのあとも待ってほしいと言ったら?」
「何を待つのかによる」
「まだ説明できない」
「じゃあ、説明できるまで。今度は、期限を決めない」
胸の内側にあった硬いものが、少しずつほどける。
期限がなくても待つと言われることが、こんなに安心するとは知らなかった。
十時四十分、リビルト品のオルタネーターが工場へ届いた。
作業中、私たちは工場の前を流れる小さな川まで歩いた。夏の日差しが戻り、先日の雨で水が勢いよく流れている。
冬子さんは護岸の上へ腰を下ろし、紙の道路地図を広げた。神岡から朝日町まで、昨日走った線を指で辿る。
「父の印、ここにはないの」
「朝日町?」
「うん。故障した道も、工場も、喫茶店も。全部、父の地図の外」
「道路そのものは載ってる」
「そうじゃなくて。父が行きたかった場所じゃない、という意味」
「それでも、来たね」
「車が壊れたから」
「私たちが来たことは同じでしょ」
冬子さんは地図を見つめた。
「父の印がない場所にも、ちゃんと何かあるんだね」
「当たり前だよ」
「知ってた。でも、見てなかった」
彼女は鞄から青いボールペンを出し、工場の場所へ小さな丸を書こうとした。ペン先が紙へ触れる直前に止まる。
「書かないの?」
「これは父のペンだから」
「冬子さんの字を書いてはいけない?」
「今まで、一度も足してないの。どこまでが父の記録かわからなくなるから」
「別の色を使えばいい」
「持ってない」
私は筆箱から赤いボールペンを出し、差し出した。
「使う?」
冬子さんは受け取らず、しばらく見ていた。
「今は、まだ」
「わかった」
私はペンを戻す。
「阿智へ着いたら、貸して」
「うん」
昨日の私は、彼女の答えを今すぐ出そうとした。今日は待てる。
川の音を聞きながら、二人で地図を見た。何も書き込まない時間にも、意味はあった。
修理が終わったのは、十三時十分だった。
交換された古いオルタネーターが、工場の床に置かれている。黒ずんだ金属の塊で、外から見ただけではどこが壊れているかわからない。
「古い部品、持って帰ります?」
早川さんが冬子さんへ尋ねた。
「持って帰る人がいるんですか」
「記念にって人も、たまに。普通はこっちで処分します」
冬子さんは部品を見た。
父が運転していた頃から使われていたものかもしれない。途中で交換歴がなければ、二十二年間、この車へ電気を供給してきた。
「処分してください」
答えは、思ったより早かった。
「いいの?」
私が聞くと、彼女はうなずく。
「壊れた部品まで残したら、車の中が部品庫になるでしょ」
「そうだね」
「父のものかもしれないけど、役目は終わったから」
言葉のあと、冬子さんは一度だけ古い部品へ頭を下げるように視線を落とした。
新しいオルタネーターの発電量は正常。ベルトの状態も確認され、異音は消えている。早川さんは、充電警告灯が再び点いた場合は走らないこと、今日のうちは休憩のたびに状態を見ることを説明した。
冬子さんが支払いを済ませ、キーを受け取る。
「運転、代わろうか」
「今日は私が」
「まだ?」
「阿智まで行ったら、考える」
「期限ができた」
「これは必要な期限」
笑い方が、昨日より近く戻っていた。
国道361号を東へ進む。
高山市朝日町を抜け、山とダム湖の間を走る道。昨日とは違い、オーディオから父のCDが流れていた。発電機を交換したせいで音が変わったかと聞くと、冬子さんは「わからない」と正直に答えた。
「変わらない気もするし、静かになった気もする。意識してるから、余計に」
「測定器があれば比較できる」
「昔の音を録ってないから無理でしょ」
「それでも、今の音は残せる」
「録る?」
「必要なら」
「今日はいい。忘れたくなったら、そのまま忘れる」
窓の外に、高根乗鞍湖の水面が見えた。雲は残っているが、青空のほうが広い。道は長峰峠へ向かって上り、県境を越えて再び長野県へ入る。
開田高原の手前で休憩した。エンジンを止め、再始動する。警告灯は正常に消え、異音もない。冬子さんは黄色いファイルへ、交換時の走行距離と費用を書き込んだ。
「新しい部品の最初の記録」
「うん」
「それも、次の人のため?」
冬子さんのペンが止まる。
「今は、まだわからない」
「売るかどうか?」
「そう。査定は断らない。でも、値段を聞いてから、もう一度考える」
「お父さまのため?」
「自分のため」
答えは静かだった。
「乗りたいなら、修理費を払って乗る。無理だと思ったら売る。父がどう思うかは、勝手に想像しない」
「一緒に考えてもいい?」
「車の家計相談?」
「それも。これからのことも」
「これから?」
「まだ説明の途中」
「待つんだったね」
冬子さんはファイルを閉じた。
木曽観測所へ着いたのは、十六時を過ぎていた。
観測所までの数キロは狭く曲がりくねった山道で、冬子さんは対向車が来るたび待避場所を探した。見学可能時間が終わるまで、あまり余裕はない。それでも彼女は速度を上げない。
「間に合わなくてもいいよ」
「遥さんが行きたい場所でしょ」
「安全のほうが目的」
「学習したね」
「誰の影響だと思ってるの」
「私」
「即答」
「わかってることだから」
駐車場へ車を置き、展示室へ急ぐ。見学者はほかに一組だけだった。
大きなドームの中には、口径百五センチのシュミット望遠鏡がある。広い範囲を一度に捉えることに向いた望遠鏡。その焦点面には、多数のCMOSセンサーを組み合わせたトモエゴゼンという観測装置が搭載され、短い間隔で空を撮り続けている。
「動画みたいに星を撮る?」
冬子さんが説明を読む。
「急に明るくなったり、動いたりする天体を見つけやすい。空の広い範囲を繰り返し見ることで、変化を捉える」
「変わったものを探す望遠鏡」
「変わる前を記録しているから、変化がわかる」
展示パネルには、星が急に明るくなる現象や、地球へ近づく小天体の軌跡が並んでいた。別の一角には、天体までの距離と光が届く時間の関係が図で示されている。
冬子さんが、一枚の銀河の画像の前で足を止めた。
「遠い星は、昔の姿を見てるんだよね」
「うん。距離が一光年なら約一年前、千光年なら約千年前に出た光を見る」
「今は、もうない星かもしれない」
「可能性はある。恒星の寿命は種類によって違うし、距離もあるから、全部がそうという意味ではないけど」
「遥さんは、そういう光を見て、寂しいと思わない?」
私は画像を見た。画面に届いた光は電気信号へ変わり、処理され、人の目に見える色と明るさになっている。出発した時刻と受け取った時刻は違っても、途中の時間が消えるわけではない。
「寂しいと思うことはある。でも、偽物だとは思わない」
「偽物?」
「光が発せられたとき、その星があったことも、今ここへ届いたことも本当だから。過去の姿を見ているけど、光を受け取っているのは現在でしょう」
冬子さんは黙り、展示ケースへ映る自分の顔を見た。
「父の地図も、そうなのかな」
すぐに、そうだとは言えなかった。
天体の光と、人が遺した文字は同じではない。星に意思はなく、地図を書いた人には意思があった。けれど、その人が今も同じことを望んでいると、残された文字だけで決めることはできない。
「似ているところはあると思う。でも、同じとは言わない」
「どう違う?」
「私には、お父さまが今どう思うかはわからない。地図から勝手に代弁もできない。ただ、そのとき書いた気持ちがあったことと、冬子さんが今それを受け取っていることは、どちらも嘘ではないと思う」
「受け取ったら、書いた人の望みどおりにしなきゃいけない?」
「光を見た人が、光の出た場所へ行かなければならないわけではない」
「天文学の話?」
「今は、地図の話」
冬子さんが、かすかに笑った。
「過去から届いたものは、受け取った人がどうするか決めていい?」
「私はそう思う。捨てても、持っていても、別の意味を見つけてもいい。過去だったから価値がないわけでも、過去に大切だったから今も従わなければならないわけでもない」
「昨日の遥さんなら、もっと短く言った」
「故障は故障、って?」
「うん」
胸が痛んだ。冬子さんは責める口調ではない。それが余計に、私の言葉が残した傷の形をはっきりさせる。
「あれは、地図の話をする言葉ではなかった」
「今のは?」
「一緒にわからなくなるための言葉を探した」
「見つかった?」
「まだ途中」
「なら、一緒に考える」
冬子さんは再び銀河の画像を見上げた。
「この旅も、父の地図から始まった。でも、遥さんに会ったことまで父が決めたわけじゃない」
「うん」
「車が止まったことも」
「それは、オルタネーター」
「一回、一緒に間違ってくれる約束は?」
「今のは車の安全に関係するから、訂正が必要」
「例外が多そう」
「規則は運用しながら改善する」
冬子さんの笑い声が、ドームの内側へ小さく反響した。
「遥さんみたい」
「私?」
「会った日の時刻も、雲の量も、食べたものも覚えてる。変わったところを見つけるため?」
「食べたものは記録していない」
「胡桃蕎麦、山賊焼き、ハンバーグ、飛騨牛カレー」
「冬子さんが覚えてる」
「本当だ」
彼女は笑った。
「変わったのは、どこ?」
私が尋ねる。
「遥さんの?」
「うん」
「値札をつけなくなった。敬語が減った。蕎麦以外もおいしいと言えるようになった」
「最後は違う」
「私の上着を、自分のものみたいに着てる」
袖を見る。返す時期を決めていなかった。
「冬子さんは?」
「何が変わった?」
「助手席が、自分の場所みたいになった」
「それは、遥さんが変えたんでしょ」
「変えてよかった?」
冬子さんは望遠鏡を見上げた。
「今は、そう思ってる」
今の次が欲しい。
私は展示室の時計を見た。閉館時刻ではなく、阿智までの時間でもない。言うべき言葉を、また予定の後ろへ置こうとしていないか確かめた。
観測所を出たあと、木曽町三岳の予定地点で短い測定を行った。
太陽がまだ山の上にあるため、本測定ではない。気温と湿度、周囲の光源位置だけを記録し、全天カメラで空を撮る。追加データは共同観測者のものを使うと決めたので、日没まで待つ必要はない。
「前の遥さんなら、待った?」
機材を積みながら、冬子さんが聞く。
「予定に入れていたら」
「今は?」
「阿智へ行きたい」
「流星群を見るため?」
「冬子さんの地図の最後だから」
「研究は?」
「もちろん測る。でも、それだけではない」
私たちは国道19号へ出て、南へ向かった。
木曽川に沿う道路を、トラックと一緒に走る。夕方の光が山の上だけに残り、谷の底は早く暗くなる。阿智村までは、まだ距離があった。
道の駅で最後の休憩を取った。
営業終了の近い食堂で、私たちは温かい定食を食べた。今夜は観測が長くなるからと、冬子さんは残さず平らげるよう私を急かしたが、自分のほうが先に食べ終えた。
「今日は、味の感想を言わないんだね」
冬子さんが、空いた器を端へ寄せながら言う。
「考え事をしていて、正確に覚えてない」
「研究?」
「違う」
「私に関係ある?」
箸を置く。ここで曖昧にすれば、また予定の後ろへ隠せる。
「ある」
冬子さんは問いを重ねず、私の湯飲みに茶を足した。
「じゃあ、あとで聞く」
「どうして今、聞かないの」
「口に食べ物が入ってる人を急かすと危ないから」
「もう飲み込んだ」
「それでも、あとで」
待ってもらうことが、逃げるための猶予ではなく、言うための余白になる。私は残りを食べ、味の代わりに、その違いを覚えておくことにした。
食後、彼女は車の状態を確認し、私は売店で夜食と飲み物を買う。二本の水を持って戻ると、一本を手渡した。
「いくら?」
「値札はつけない」
「成長した」
「その代わり、聞いてほしいことがある」
冬子さんの顔から笑いが消える。
「今?」
「今。阿智へ着いてからだと、地図の終わりに紛れるから」
駐車場には車の出入りがあり、落ち着いた場所ではない。けれど、最適な場所を待っていたら、私はまた言えなくなる。
頭の中では、言う順序を決めていたはずだった。ところが冬子さんを前にすると、最初の一文以外がきれいに消えた。腕時計へ触れ、時刻を見ないまま手を下ろす。掌が汗ばんでいた。
「私は、冬子さんが好きです」
声が敬語へ戻った。
冬子さんは何も言わない。
「車があるからでも、研究を手伝ってくれたからでもなくて――違う。それも大切だけど、理由を並べて証明したいんじゃない」
そこで言葉が途切れた。
駐車場を出ていく車のタイヤが、舗装の継ぎ目を二度踏んだ。売店の自動ドアが開き、店内の音楽が一節だけ漏れ、また閉じる。それだけの時間があっても、次の文は出てこなかった。
冬子さんは急かさない。水のボトルを胸の前で両手に持ち、私が止まった場所で待っている。
「……名前を呼ばれると」
声が掠れた。一度息を吸ってから、最初だけを言い直す。
「冬子さんに名前を呼ばれると、次も呼ばれたいと思う」
そこまで口にすると、決めていた順番はもう戻らなかった。私は冬子さんではなく、レガシィの屋根に映る薄い空を見る。
「困っているときに待ってくれたから、今度は私が待ちたい。旅が終わっても会いたい」
次の言葉は、唇の裏に張りついた。飲み込めば、説明できる日までまた先送りにできる。それをしたくなくて、形の悪いまま押し出す。
「たぶん私は、理由を全部説明できるより前から、好きだった」
「遥さん」
「敬語になったのは、緊張したから」
「そこじゃなくて」
「もう一度言う?」
「待って」
彼女は水のボトルを車の屋根へ置き、両手で顔を覆った。
「今、顔を見ないで」
「なぜ?」
「見ないでって言ったら、一回くらい聞いて」
私はレガシィの反対側へ回り、道路を見る。背後で、冬子さんが長く息を吐く音がした。
「旅行中だから、そう思ってる可能性は?」
「ある」
「あるんだ」
「ないと言い切るのは怖い。でも、帰ってから気持ちが変わるかもしれないから黙るほうが、もっと嫌だった。変わったら逃げずに話す。変わらなかったら、何度でも会いたい」
「ずいぶん不器用な保証」
「これ以上きれいに言うと、嘘になる」
車の向こうで、冬子さんが笑った。
「名前」
「何?」
「『さん』を取って、もう一度言って」
私は振り返る。
冬子さんも、もう顔を隠していなかった。頬が赤い。
「冬子が好き」
今度は短く言えた。
彼女は私を見たまま、目を細めた。
「返事、阿智まで待ってもらっていい?」
「うん」
「逃げるためじゃなくて。父の地図を終わらせてから、自分の言葉で答えたい」
「待つ」
「期限があるけど」
「今回は必要な期限でしょう」
「覚えてたんだ」
「今日のことだから」
冬子さんが水を一本取り、助手席側のドアを開けた。
「乗って、遥さん」
敬称はまだ残っている。
私は助手席へ戻った。
日が沈んだ国道には、街灯が点き始めていた。空には雲が広がり、星は見えない。
それでも、隣にいる人の返事を待つ時間は、もう空白ではなかった。




