第八章 星のない国道
遥さんが、私の名前から「さん」を外した。
たったそれだけのことが、修理を終えたばかりのエンジン音よりも近くに残っている。
南木曽で国道256号へ折れてから、道は何度も山肌に沿って曲がった。対向車のライトが現れては消え、フロントガラスの向こうには低い雲しかない。私はハンドルを握り、次のカーブ、その次の白線へ目を移す。助手席を見ないのは安全のためであって、顔を見られないためではない。そう言い訳しながら、さっきの声を繰り返し思い出していた。
冬子が好き。
返事を待つと言った遥さんは、それから一度も答えを催促しなかった。ナビの案内が聞き取りにくい場所だけ曲がり角を補い、あとは黙っている。膝の上には、もう閉じたノート。指先が表紙の角をなぞっていた。
「酔った?」
私が聞くと、彼女は首を横へ振った。
「緊張してる」
「告白したほうが?」
「待つほうも、かなり緊張する」
「だったら、すぐ答えたほうがよかった?」
「それは冬子さんが決めることだから」
敬称が戻っている。私だけに答えを急がせないため、彼女なりに境界線を引き直したのだろう。その律儀さが好きだと思った。思ったからといって、今ここで口にすれば、阿智まで待ってほしいと言った自分の言葉が嘘になる。
「あと四十分くらい」
「うん」
「今夜の予約、確認していい?」
私は信号待ちで携帯を渡した。画面には浪合パークの予約票が出ている。
「星空デッキ、オールナイト。翌朝五時まで?」
「一人で行くつもりだった頃に取ったの。一区画だから、二人でも使える」
「最初から椅子が二つある」
「予約したときは、片方を荷物置きにすればいいと思ってた」
「今は?」
「座る人がいる」
信号が青へ変わる。発進すると、隣でシートベルトがわずかに鳴った。遥さんが座り直したらしい。
「測定機材を置いても大丈夫かな」
「問い合わせた。ほかのお客さんの光にならなければ、小型の機材はデッキ内に置いていいって。三脚も区画から出さないこと」
「いつ?」
「予約したときは、カメラ用の三脚についてだけ。今日、修理を待ってる間に、遥さんの機材の条件を聞き直した」
「気づかなかった」
「返事を読んだのは、三岳で遥さんが測ってる間」
「一人でも写真を撮るつもりだったの?」
「撮れたら。でも、一番は父の地図の最後を確かめるつもりだった」
自分でも意味の分かりにくい答えだった。地図は手元にある。最後の文字なら、川越の部屋でも読める。それでも父が目印を付けた場所に立てば、書かれていない続きが見つかるような気がしていた。
死んだ人の考えを、場所が翻訳してくれるはずはない。遥さんに出会う前から、本当は分かっていたのだと思う。
阿智村内の宿へ着いたのは、十九時四十分を少し過ぎた頃だった。
臼田で同行を決めた夜、残りの予約を照らし合わせ、最終日だけは同じ宿の別室へ変更してある。木造の小さなペンションで、玄関には「星見のお客様へ」と書かれた案内が貼られていた。夜中に戻る客は静かに鍵を開けること、廊下では照明を最小限にすること、朝食を不要にする場合は前日までに伝えること。
私たちは受付を済ませ、夜明けに戻ってから九時半まで休ませてほしいと改めて頼んだ。オーナーは慣れた様子で、「運転前に少しでも寝てくださいね」と言う。チェックアウトを十時半まで延ばしてくれたので、二人分の延長料金を払った。
荷物の大半をそれぞれの部屋へ置き、観測機材と防寒具だけを車へ戻す。夕食は木曽の道の駅で早めに済ませていたが、遥さんは売店で買ったおにぎりを一つ、私には小さなパンを持ってきた。
「夜中にお腹が空くから」
「代金は?」
「値札をつけない練習」
「それ、便利に使い始めてない?」
「嫌なら半分ください」
「冗談」
玄関を出る前に、遥さんが私の袖をつかんだ。
「冬子さん」
「何?」
「返事がどちらでも、今夜の観測は最後までやる。気を遣って途中で言わなくていい」
「そういうことを言われると、余計に気を遣う」
「では、撤回します」
「撤回するの?」
「言わなかったことにはできないから、訂正。私は最後まで測るし、冬子さんの返事も聞きたい。順番は任せる」
言い直したあとも、彼女は袖を離さない。
「分かった」
私が返すと、ようやく指がほどけた。濃紺の袖口には、遥さんの爪が押した小さな跡が残っている。その上着はもう一度貸しているだけのはずなのに、彼女のものに見えた。
国道153号を南へ進むと、浪合の夜はさらに暗くなった。
二十時三十分を過ぎた頃に到着し、誘導員の指示で国道沿いの駐車場へ入れる。お盆前の流星群の時期だけあって、県外ナンバーが並んでいた。エンジンを切ると、話し声とドアの閉まる音が急に大きくなる。
私はルームランプが点かない設定を確認してからドアを開けた。四日前なら無意識にしていた動作だ。美ヶ原で測定を台無しにしかけた夜から、降りるたびに確かめている。
「消えてる」
遥さんが助手席の外から言う。
「確認されなくても分かってる」
「責めてない。私も見る癖がついた」
「なら、共同確認ということにしよう」
赤いフィルターを付けたライトを二本持ち、機材を分ける。全天カメラは遥さん、三脚は私。初日は運ぶ順番さえ彼女の指示を待ったのに、今はどのケースを上へ置いてはいけないか分かる。
受付を通り、星空デッキへ向かった。区画を囲う幕の内側には、リクライニングチェアが二脚並んでいる。床にはカメラや小型望遠鏡を置ける余裕があり、周囲の灯りも入りにくい。私が予約した番号を確かめる間に、遥さんはスタッフへ研究目的の測定であることを説明し、機材の位置と消灯時間を相談した。
「二十一時の鑑賞会が終わって、人の出入りが落ち着いてから連続測定します。今は周囲の光源だけ記録します」
「了解」
私は三脚の脚を開き、彼女が決めた目盛りまで伸ばす。水平器の気泡が中央へ入るよう微調整すると、遥さんが横からのぞいた。
「上手くなった」
「助手だから」
「共同観測者」
「今日は、どっち?」
「仕事の間は共同観測者。それ以外は……返事を待ってる人」
逃げ道を残さない言い方をするようになった。私は笑いかけ、途中で目をそらした。
二十一時になると、鑑賞エリアからガイドの声が聞こえ始めた。雲は空の七割ほどを覆い、見えるのは夏の大三角の一部だけ。ガイドは雲の切れ間と方角を言葉で示している。雨天でも話は行われるらしい。集まった人たちはリクライニングチェアや敷物から空を見上げ、雲が動くたびに小さくざわめいた。
私たちもデッキの椅子へ座った。背を倒すと、視界のほとんどが雲になる。遠くの道路を走る車の音は聞こえるのに、ライトは幕で遮られていた。
「晴れなかったら、どうする?」
私が聞く。
「雲量を記録して、明るさの測定値には条件を付ける。流星群は見られない可能性もある」
「がっかりする?」
「する」
「ちゃんと言うんだ」
「雨の乗鞍で学んだから。がっかりしても、誰かの責任ではない」
遥さんは椅子の肘掛けに手を置く。私の手との間は、指二本分ほど。触れようと思えば触れられる距離だった。
「冬子さんは?」
「私は、晴れても晴れなくてもすることがある」
足元の鞄から、父の地図を取り出した。何度も開いたせいで、阿智村のページはすぐに出てくる。青い線が国道沿いを南へ下り、浪合の近くに丸が付いている。その脇の文字を、遥さんへ向けた。
夏。冬子が免許を取ったら、交代で。
遥さんは声に出さず、一文字ずつ読んだ。私の父の字を読むとき、彼女はいつも急がない。
「これが最後?」
「最後。ここから先に印はない」
「いつ書いたもの?」
「たぶん、私が中学生の頃。父が病気になる前」
その頃の私は、父の運転を信用していなかった。山道で車酔いすると、後席から何度も休憩を要求した。父が「免許を取ったら冬子が運転すればいい」と笑い、私は「絶対、お父さんより上手くなる」と言い返した。
免許を取ったのは、父が死んで二年後だ。
助手席に父を乗せたことはない。交代する相手がいなくなってから、運転席だけを引き継いだ。
「この地図を見つけたのは、免許を取ったあと。母が車の名義を私へ移す前だった」
「だから、阿智まで来ようと思った?」
「すぐには思わなかった。仕事を始めて、お金をためて、車検を何度か通して。そのうち行くつもりではいたけど、行ったら終わる気がした」
「何が?」
「父の行けなかった旅が。車を残しておく理由も」
地図を閉じかけて、やめる。文字を隠せば話まで終わるような気がした。
「今年、修理の見積もりを見たとき、もう無理だと思った。四十万円以上かけて乗り続けるのは、思い出だけでは決められない。だから最後に地図を全部たどって、阿智へ着いたら売ろうって」
「うん」
「でも、故障したら、地図の途中でも終わりにしようとした」
「うん」
「遥さんにひどいことを言って、父が終わらせたことにしようとした」
遥さんは否定しない。私が自分で認めるべきことを、優しい言葉で薄めないでいてくれる。
「今は?」
「査定は受ける。修理の見積もりも取り直す。それから、私が決める。乗り続けるかもしれないし、売るかもしれない」
「どちらを選んでも、聞く」
「止めない?」
「冬子の車だから」
不意に敬称を外され、胸の奥が跳ねた。告白のときとは違う、確かめるような呼び方だった。
「そう言ってほしかったのかもしれない」
私は地図を膝へ置く。
「父が大切だったことと、この車を持ち続けることを、同じにしなくていいんだよね」
「私は、そう思う。でも、決めるのは冬子」
「さっきから、名前を使いすぎ」
「練習してる」
「何の?」
「呼んでもいいか分からないから」
その答えで、待たせている時間の形が見えた。遥さんは、私が最後の印へ着くまで言葉を止めてくれたのではない。私が自分で線を引ける場所まで、隣にいてくれたのだ。
空はまだ曇っている。
星が出るまで待てば、晴れたことを何かの許可にできる。流星が飛ぶまで待てば、偶然へ答えを預けられる。けれど、私はもう父にも、車にも、空にも決めてもらいたくなかった。
「遥さん」
「はい」
「今から言うことに、観測条件はつけないで」
彼女が椅子の背を起こす。暗さに慣れた目が、まっすぐ私を見た。
「私は、遥が好き」
初めて呼び捨てにした名前は、思っていたより短い。口にしたあとも、どこにもぶつからず、二人の間に残った。
遥は瞬きをした。
「今、『さん』を取った」
「そこから確認する?」
「大事だから」
「返事。私は遥が好き。旅のあいだだけじゃなくて、帰ったあとも会いたい」
遥の唇が動き、声にならない。告白したときにはあれだけ言葉を並べた人が、返事を受け取ると黙ってしまう。
「理由も説明したほうがいい?」
「できれば」
「やっぱり必要なんだ」
「なくても信じる。でも、聞きたい」
私は椅子から立ち、彼女の前へ回った。膝が触れそうな場所にしゃがむ。
「困ってる人のために、予定を変えられるところ。間違えたとき、正しかったことまで捨てずに、間違えた部分を謝れるところ。星の話をすると早口になるところ。私が黙ると待ってくれるのに、逃げようとすると怒るところ」
「最後は、好きなところ?」
「今はね。それから、私の車を父のものじゃなく、私のものだと言ってくれた」
遥は視線を落とした。目元が少し光っている。
「泣いてる?」
「うん。少し」
否定されると思っていた私は、次の言葉を失った。遥は眼鏡を外して目元を指で押さえ、それでも顔を背けない。
「そこは、理由を探さないんだ」
「うれしいから。今は、それだけで分かる」
遥が涙の残る目で笑う。泣いているときの笑い方まで好きだと思った。
「確認したいことがある」
「何?」
「私たちは、付き合うという理解で合ってる?」
「合ってます」
「敬語」
「合ってる」
私は手を伸ばし、遥の頬へ触れた。冷えている。彼女は逃げずに、掌へわずかに顔を寄せる。
「キスしてもいい?」
一度息をのみ、それから遥はうなずいた。
「うん」
顔を近づける間、雲は動かず、流星も飛ばない。周りの人の声と、遠い車の音がそのまま続いていた。
唇が触れる。短く離れるつもりだったのに、遥の指が私の手首へ添えられ、もう一度触れた。柔らかくて、少し冷たい。どちらからともなく離れたあと、呼吸だけが近くに残る。
「記録は?」
私が聞くと、遥は困ったように眉を寄せた。
「取ってない」
「研究者なのに」
「今は、覚えていればいい」
「忘れたら?」
「もう一度してほしい」
「それは、忘れなくても考える」
答えると、遥は今度こそ声を立てて笑った。鑑賞エリアから「お静かにお願いします」と声がかかり、二人で口を押さえる。笑いを止めようとするほど肩が揺れた。
父の文字は、膝の上で変わらず青い。父が想像した助手席に、父は座れなかった。その未来は、もう取り戻せない。
けれど、叶わなかった約束は、残った人の行き先を縛る命令ではない。
私は最後の青い丸を指でなぞり、地図を閉じた。
二十一時四十五分、鑑賞会が終わった。
一般の鑑賞エリアから人が少しずつ帰り始める。雲の切れ間は西から広がり、最初にこと座のベガが現れた。次にデネブ。アルタイルは薄い雲の向こうで、明るさを変えながら見えている。
「夏の大三角」
私が言うと、遥は機材の時計を合わせながら顔を上げた。
「もう分かるようになった?」
「三つなら」
「十分」
遥はスタッフと決めた時刻に合わせ、全天カメラの撮影を始めた。夜空輝度計を天頂へ向け、雲量、気温、湿度を記録する。私は周囲の人が赤いライトを使った時刻と方向をノートへ書く。
さっきキスをした人と、十分後には雲量を数字で相談している。それが不自然ではないことが、妙にうれしかった。
「北西、三割くらい残ってる」
「南は?」
「一割。薄い雲」
「二十二時三分、南側に一時的な人工光。駐車場方向」
「記録した」
その一回だけ、表示は二十一・一四から十九・九六へ落ちた。等級の差を明るさへ直せば、測定器が受けた空の光は三倍近い。駐車場へ入ってきた車のライトが幕の上端をかすめた時刻と、全天画像の南縁に白い帯が出た時刻が、私の記録した二十二時三分に重なった。
「私のメモ、使える?」
「使える。数値だけなら雲の変化と区別できなかった。冬子の時刻と方向があるから、一時的な光として分けられる」
ライトが消えたあとの三回は、二十一・一五、二十一・一六、二十一・一四。遥は生データを残したまま、十九・九六の一点だけへ注記を付けた。雲量も人の出入りも同時に変わっているため、夜の前半と後半を単純には比べないという。
測定中の遥は、もう返事を待っていた人の顔ではない。けれど画面と空を行き来する目の途中で、ときどき私を確かめるようになった。私はその横顔を邪魔せず見る。
二十二時十八分、北東の空を細い光が横切った。
「今の」
「ペルセウス群かもしれない。経路だけでは確定できないけど、放射点を逆にたどると近い」
「お願い事、しなかった」
「三回言う時間はなかった」
「遥でも、そういう話するんだ」
「今のは、普通に願えばよかった」
「何を?」
遥は画面ではなく、消えた光の跡を見た。答えが出るまでに、流星よりずっと長い時間がかかった。
「次も、冬子と見られるように」
理屈へ戻ると思っていた私のほうが、返事を失った。遥の耳だけが暗闇でも分かるほど赤い。
雲がさらに減る。天の川は最初、空の濃淡にしか見えなかった。暗さに目が慣れるにつれ、白鳥座から南へ続く薄い帯として浮かび、星の密度が周囲と違うことまで分かる。
父と最後に乗鞍へ行った夜は、雲しか見えなかった。父は助手席に私を乗せ、次はもっと暗い場所へ行こうと言った。私は、その「次」を一つしかない約束だと思い込んでいた。
今夜見えている空を、父に渡すことはできない。
私が見ている。遥と見ている。それで十分だった。
二十三時十二分、遥は最後の連続撮影を終えた。データを二つの媒体へ保存し、ファイル数を確認する。私はまだ次の指示を待っていたが、彼女は夜空輝度計をケースへしまった。
「もう終わり?」
「研究計画で必要な系列は取れた。雲がもう少し減ったら、参考値を一本だけ追加する」
「朝まで測れば、たくさん取れる」
「数が多ければいいわけじゃない。それに、ここからは一緒に空を見たい」
私は返事の代わりに、空いた椅子を指した。
二人で背を倒す。椅子と椅子の間には肘掛けがあるため、手をつなぐには少し腕を伸ばさなければならない。先に動いたのは遥だった。指先が私の小指へ触れ、許可を待つように止まる。
私はその手を取った。
「手は聞かないんだ」
「嫌なら離すと思って」
「正解」
しばらくして、一つ。さらに間を置いて二つ。流星は同じ場所から出るのではなく、空の別々の端に短い線を引いた。見逃したほうが「どこ」と聞き、見たほうが方向を教える。願い事を言う暇はやはりない。
「研究を始めた理由、林間学校だったよね」
私が尋ねる。
「中学二年。長野の高原で、消灯後に先生が外へ連れ出してくれた。天の川を初めて見た」
「それまでは星を見てなかった?」
「千葉の家からも見てた。でも、見えていない星があれほどあるとは知らなかった」
「それで天文学?」
「すぐではない。高校で物理を選んで、大学で観測実習へ行って。人が作った光で、見えるはずのものが見えなくなることを調べたいと思った」
「光が悪いみたい」
「生活には必要。安全にも関わる。消せばいいという話ではないから、難しい」
「また早口になってる」
「嫌?」
「好きなところだって言ったでしょ」
つないだ手に力が入る。暗闇では、遥がどんな顔をしたか見えない。
「冬子は、どうして印刷会社?」
また敬称がない。今度は驚かずに聞けた。
「紙が好きだったから。父の地図の影響も、たぶんある。でも入社してみたら、紙より納期と電話を見てる時間のほうが長かった」
「辞めたい?」
「ううん。面倒だけど、何もなかったところに刷り上がったものが積まれる瞬間は好き。誰かの言葉や写真が、触れる形になるから」
「冬子に合ってる」
「どういう意味?」
「見えないままにしておけないところ」
「遥に言われたくない」
二人で笑う。
零時を過ぎ、一般エリアの客が退館すると、周囲はさらに静かになった。オールナイトのデッキに残った人たちも、話す声を落としている。気温が下がり、遥は濃紺の上着の前を閉じた。私は買ったばかりの灰色の上着を着て、その上から毛布を広げる。
「その上着、いつ返せばいい?」
遥が聞いた。
「八月二十三日」
「日付が決まってる」
「次の日曜は仕事。二十三日は休み。遥は?」
彼女は携帯の予定表を最低輝度で開いた。
「午前中に研究室のミーティング。午後なら空いてる」
「じゃあ、三鷹。今度は私が、遥のいる場所へ行く」
「国立天文台を案内する?」
「休みの日まで天文でいいの?」
「冬子が嫌でなければ」
「見たい。そのあと、研究じゃない夕食を食べる」
「研究の夕食というものはない」
「今回の食事は、ほとんど観測時刻から逆算してた」
「では、予約する。十八時半」
「早い」
「まだ店も決めてないのに?」
「日付と待ち合わせだけ決めよう。あとは、その日に決めてもいい」
遥は予定表を閉じ、少し考えた。
「十一時半、三鷹駅。天文台のあと、夕食は二人で探す」
「合格」
「何の?」
「間違える余地を残す練習」
また一つ、長い流星が北の空から天頂近くまで走った。今度は二人とも見た。消えたあとに同時に息を吐き、手を握り直す。
零時四十分、遥は主な機材をケースへ収め、携帯のアラームを四時十分に設定した。
「寝るの?」
「二人とも。宿まで運転する人が眠らないと危ない」
「流星群は?」
「必要な測定は終わった。流星も見た。全部を見ることはできない」
「研究者が諦めるんだ」
「選んでる。戻ってからも宿で寝て、朝の運転はそのあと」
私はまだ晴れた空を見ていたかった。けれど、星を一つでも多く見るために、帰る道を危険にするのは違う。見逃した数を、あとで誰かへ報告する必要もない。
二脚の背を倒し、それぞれの毛布を肩まで掛ける。椅子の間へ伸ばした手だけはつないだままにした。
「四時十分」
「三時間半もある」
「そのあと、部屋でも四時間は寝る」
「了解」
瞼を閉じると、見えるものは何もない。隣から遥の呼吸が聞こえ、やがて一定の間隔になる。星を見に来た場所で眠ることも、今夜を過ごす方法の一つだった。
私も手の温度を確かめながら、意識を手放した。
目を開けたとき、遥の顔がすぐ近くにあった。
「四時十分」
「起こし方が近い」
「小さい声で起こそうとしたから」
「驚く」
「ごめん」
謝りながら離れようとする肩をつかみ、頬へキスをした。
「これで、おあいこ」
遥は頬を押さえる。
「何と何が?」
「驚かせたこと」
「釣り合ってない」
「苦情は受け付けます」
「もう一回なら」
聞き返す前に、遥が私の額へ口づける。今度は私が黙る番だった。
東の空がわずかに薄くなり始めている。星はまだ見えるが、天の川は輪郭を失いつつあった。遥は最後の参考値を取り、機材をしまう。私は二脚分の毛布を畳んだ。
鞄の底から赤いペンを探し、遥へ見せる。
「借りる約束」
「どうぞ」
父の地図と一緒に、もう一冊を取り出した。松本の書店で買い、後部座席のポケットへ入れたままだった二〇二六年版の道路地図。父の地図だけでは新しいバイパスや施設が載っていないから必要だと言いながら、包装さえ開けていなかった。
「新しい地図を使うの?」
「うん。雨具を見たあとに買ったほう」
「何に使うか、まだ決めてないって言ってた」
「今、決めた」
透明な包装を外し、長野と岐阜のページを開く。父の青い線を写すつもりはない。野辺山から阿智まで、同じ道をもう一度なぞれば、それは新しい地図ではなく複製になる。
私は赤いペンで、飛騨朝日の位置へ小さな丸を付けた。
「最初が、故障した場所?」
「予定になかった場所だから。車が止まらなかったら、私たちは話せなかった」
「話さずに阿智へ来ていた可能性もある」
「その場合、私は返事をしなかったかもしれない」
「故障してよかったとは言えない」
「修理代もかかったしね。でも、地図に残す場所は、うまくいった場所だけじゃなくていい」
丸の横へ、八月十一日、早川自動車、と書く。次に阿智村を囲み、八月十二日から十三日、遥と、と記した。
最後に東京のページを開き、三鷹へ小さな点を打つ。
「道路地図なのに、電車で行くかもしれない」
遥が言う。
「道具は、使う人が決めればいい」
「研究ノートにも応用できる?」
「それは決められた形式を守って」
赤い線は、阿智から三鷹まで引かなかった。どの道を通るかは、まだ決めていない。二つの点は、線のないまま離れている。
それでよかった。
五時前、デッキを片付けて退館した。
駐車場へ戻ると、レガシィの屋根には細かな露が付いている。遥がタオルでフロントガラスを拭き、私は始動前に警告灯を確かめた。キーを回す。赤い充電警告灯はほかの表示と一緒に点き、エンジンがかかると消えた。低い回転音だけが残り、甲高い唸りはない。
「正常?」
「今は」
「その言い方、前より慎重」
「壊れないとは言わない。でも、音を聞くたびに終わりだとも思わない」
短い距離を私が運転し、宿へ戻った。東の山際は桃色になっていたが、道路はまだ空いている。駐車場へ車を入れると、遥は助手席であくびをかみ殺した。
「九時半まで寝る」
「賛成」
「運転は起きてから相談」
「それも賛成」
廊下で別れる前、遥が濃紺の袖をつまむ。
「これは二十三日まで借りる」
「忘れないため?」
「返す理由があれば、次に会える」
「理由がなくても会う」
そう言うと、遥は眠そうな目で笑った。
「おやすみ、冬子」
「おやすみ、遥」
閉じた扉をしばらく見てから、自分の部屋へ入った。
ベッドに横になり、母へメッセージを送る。
十四日の査定は受ける。でも、その場では決めない。修理の見積もりも取り直して、自分で考える。
送信してすぐ、既読が付いた。
分かった。お父さんじゃなくて、冬子の車なんだから、冬子が決めなさい。
母は、旅行の前から何度も言っていたことを、同じように二行で返した。私が九年かけて、ようやく自分への言葉として読めるようになっただけだった。
笑うと同時に涙が出た。枕へ顔を押しつけ、音を立てないようにしながら泣く。悲しいからではない。父を手放したからでもない。自分のものを自分で選ぶことが、思っていたより怖く、思っていたよりうれしかった。
泣き終える前に、私は眠っていた。
九時二十分、アラームで目を覚ました。
顔を洗い、荷物をまとめ、食堂へ下りる。遥は先に来て、トーストをかじりながら昨夜のファイル数を確認していた。オーナーが用意してくれたコーヒーの香りがする。
「寝た?」
向かいへ座って聞く。
「部屋では四時間半。冬子は?」
「同じくらい。デッキでも寝たから、合わせれば足りてる」
「眠気は?」
「今はない。でも一時間ごとに休む」
「私も運転する」
いつもの申し出だった。美ヶ原へ向かう朝にも、乗鞍を下りる前にも言われ、そのたびに私が断った。
父の地図の最後には、交代で、とある。
けれど、今から鍵を渡すのは、父の約束を代わりに果たすためではない。遥を父の空いた場所へ入れるためでもない。
私が隣に座りたいからだ。
「宿を出る前に、駐車場で練習」
遥がパンを持ったまま止まる。
「運転していいの?」
「保険は運転者限定なし、二十一歳以上補償。前にも言ったでしょ」
「覚えてる。でも、冬子が嫌だと思ってた」
「嫌だった。誰かに、この座席を動かされるのが」
「なら、無理に」
「今は動かしてほしい」
私はコーヒーを飲む。苦さのあとに、少しだけ甘みが残った。
「眠かったり、怖かったりしたら、すぐ交代。最初は飯田まで。高速へ乗るかは、そのとき決める」
「分かった」
「返事が速い」
「断られる前に確定したい」
「運転には慎重なのに、そこは急ぐんだ」
「うれしいから」
まっすぐ言われると、まだ受け止め方が分からない。私はカップで口元を隠した。
十時十五分にチェックアウトし、荷物を積む。全天カメラは荷室の奥、三脚は横向き、二人の鞄は急ブレーキでも動かないよう固定する。最後に父の地図と新しい地図を、助手席のドアポケットへ一緒に入れた。
レガシィの運転席側へ回り、鍵を差し出す。
「どうぞ」
遥はすぐに受け取らず、私の手の上にある鍵を見る。黒い樹脂には細かな傷が付き、金属の角は丸くなっている。父が使い、母が二年間保管し、その後は私が使ってきた鍵。
「本当に?」
「二回聞いたら、貸さない」
遥が受け取った。指が掌へ触れ、鍵の重さがなくなる。
「手、震えてる」
「少し。うれしいのと怖いのが、まだ分けられない」
「分けなくていいよ。運転する前に、深呼吸だけして」
「うん」
私は助手席へ乗る。
見慣れているはずの車内が、左右を入れ替えただけで違って見えた。ハンドルの向こうに遥が座り、真剣な顔でシートのレバーを探す。膝とペダルの距離を確かめ、背もたれを起こした。
「動かすね」
「あなたの運転位置に合わせて」
シートが前へ滑る。母が初めて私に合わせ、それからほとんど変えなかった位置から、はっきり離れた。
胸のどこかが痛むと思っていた。実際には、レールの音がしただけだった。
「ミラーも全部変えて」
「戻す位置、覚えてる?」
「また合わせればいい。父と同じ運転をしなくていいし、私と同じでなくていい」
それは、母が初めて私をこの車へ乗せた日に言った言葉だった。あのときの私は、父の位置を守ることばかり考え、聞き流していた。
遥はルームミラー、右、左の順に調整し、ブレーキを踏んだままセレクターを確認する。サイドブレーキ、周囲、警告灯。動作を一つずつ声に出すので、教習所の試験のようだ。
「冬子、近いところに障害物は?」
「左後ろに植木鉢。二メートル以上ある」
「了解」
「肩の力を抜いて」
「抜いてる」
「見れば分かることもある」
私が言うと、遥は一度深く息を吐いた。肩が少し下がる。
エンジンをかける。警告灯が消えるまで待ち、ゆっくりと駐車枠を出た。敷地内を一周し、ブレーキの感触と車幅を確かめる。二周目にはハンドル操作が滑らかになった。
「外へ出られそう?」
「うん。無理だと思ったら、すぐ言う」
「私も言う」
遥がウインカーを出す。
レガシィはペンションの駐車場から国道へ出た。速度は控えめで、後続車が近づくと安全な場所で先へ行かせる。私はナビの次の曲がり角を読み上げる。助手席から見る白線は、運転席からより少し遠い。
山の端には薄い雲が残り、青空に星は一つも見えない。なくなったのではない。昼の光の向こうにあることを、今は知っている。
「怖くない?」
遥が前を見たまま尋ねる。
「少し」
「車を任せるのが?」
「この先を決めるのが」
「私も怖い」
「何が?」
「帰ったら、旅の中みたいには会えない。冬子は仕事があるし、私は観測で急に予定が変わる。喧嘩もすると思う」
「もうした」
「次は、車が故障していないときにも」
「それでも、会う?」
「会う。二十三日、十一時半」
「三鷹駅」
「上着を返す」
「返さなくてもいいけど」
「では、着ていく」
雲の切れ間から日が差し、フロントガラスへ反射する。遥はサンバイザーを下ろし、速度を少し落とした。
父の地図は阿智で終わった。新しい地図には、まだ離れた点が三つあるだけで、間を結ぶ線はない。
行き止まりではない。どの道を通ったか、あとから書ける余白だ。
私は助手席で、遥の横顔と、その先の国道を見る。
星のない明るい道を、父の車ではなく、私の車が走っていた。




