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第六章 見えないもの

 朝食の席で、遥さんは納豆を百八回混ぜた。

 数えていたわけではない。最初は、いつもより長いと思っただけだ。けれど、彼女が一度もこちらを見ずに箸を動かし続けるので、途中から数え始めた。私が数え始めてから八十三回。それ以前がおよそ二十五回。

「混ぜすぎじゃない?」

 百九回目で声をかけると、箸が止まった。

「そう?」

「泡みたいになってる」

「考え事をしていたから」

「研究?」

「いろいろ」

 その中に私がいるかは、聞けなかった。

 昨夜の観測が終わってから、私たちの会話は短い。車を売ると知られたせいだ。遥さんは所有者ではないし、五日前まで車の存在すら知らなかった。それでも、自分に黙って決められたような顔をした。

 私も、彼女へ言わなかったことを後ろめたく感じている。

 矛盾している。だから、納豆の回数を数えるくらいしかできない。

「今日は神岡だよね」

「うん。カミオカラボを見たあと、周辺の比較点を確認する。夕方には国道361号へ入って、朝日町の宿まで」

「車の点検も」

「忘れてない」

「言ってみただけ」

「そう」

 遥さんは泡立った納豆を、ご飯へ半分ずつ載せた。一度に全部かけないのは、配分を決めているからだろう。

「おいしい?」

「普通」

「報告書にもなってない」

「冬子さんは、今それを聞きたいの?」

 顔を上げた目は、思ったより疲れていた。

「ごめん」

「謝らなくていい。ただ、いつものように話すなら、いつものように戻ったふりをするのはやめて」

 胸の内側を直接押されたようだった。

「いつものって、まだ四日でしょ」

「四日あれば、いつもはできる」

「そういうところだけ柔らかくなったね」

「冬子さんのせい」

「それ、昨日も聞いた」

「昨日より、意味が増えてる」

 遥さんはそれ以上説明せず、味噌汁を飲んだ。

 聞けば答える人だったはずなのに、最近は言葉の途中で止まる。私の影響だと言われると、うれしい。増えた意味が私の欲しいものと違う可能性を考えると、怖い。

 旅はあと二日。終われば元へ戻ると、自分で線を引いた。その線のこちら側にいるうちだけ、曖昧なままでいたかった。


 宿を出る前に、もう一度エンジン音を確認した。

 始動は問題なく、警告灯も消えた。私は時刻と走行距離を書き込み、黄色いファイルを閉じる。何も起きなかった朝ほど、次に何が起きるかを考えてしまう。

「そこまで記録するなら、整備工場になれるんじゃない?」

 遥さんが言う。

「免許も資格もないから無理」

「記録係」

「お客さんの車を全部、自分の父親のものみたいに心配してたら仕事にならない」

「この車だから?」

「そう」

 答えると、遥さんは助手席へ乗り込んだ。

 上宝町から神岡町へ向かう道は、川に沿っている。水面は昨日の雨で濁り、流れが速い。山肌から細い滝がいくつも落ちていた。

 オーディオには父のCDではなく、ラジオを流した。朝の番組で、明日のペルセウス座流星群が紹介されている。二〇二六年は新月と重なり、月明かりの影響が少ない。十三日の未明に多く見られる見込みだという。

「聞いてる?」

「うん」

 遥さんは窓の外を見たまま答えた。

「阿智、晴れるかな」

「今の予報では、夜の前半は雲が多い。未明にかけて晴れる可能性がある」

「詳しいね」

「毎時間見てるから」

「さすが」

「褒めても、予報は変わらない」

 昨日までは、こんなやり取りにも笑えた。今日は、どちらも笑わない。

 信号のない道を進み、道の駅宙ドーム・神岡へ着く。駐車場へ車を停めると、遥さんはすぐにメーターを確認した。

「異常なし」

「私が見てる」

「二人で見たほうが、見落としが減る」

「研究機材と同じ扱い?」

「大切なものは、同じように確認する」

 何を指しているのか聞けなかった。


 道の駅の中にあるカミオカラボは、入場無料の宇宙科学館だった。

 神岡町の地下では、ニュートリノや重力波、ダークマターを調べる研究が行われている。展示室へ入ると、青い光で照らされた空間に、大きな円形のスクリーンがあった。

 遥さんの顔が、今日初めてはっきり明るくなる。

「こういう場所、好き?」

「好き」

「即答」

「わかっていることだから」

 スクリーンに、ニュートリノがほとんど物質と反応せず通り抜けていく映像が映る。太陽や宇宙から飛んできた粒子が、人間の身体も地球も通過する。そのごく一部が巨大な装置の水と反応したとき、弱い光が生まれるという。

「今も、私たちの中を通ってる?」

「大量に」

「何も感じない」

「ほとんど反応しないから」

「あるのに?」

「感じられることと、存在することは別」

 遥さんは展示の説明を読み、ボタンを押した。スクリーンの中で青白い光の輪が広がる。

「ごくまれに反応したものだけを集めて、元の粒子を調べる。何も起きない時間のほうが、ずっと長い」

「待つ研究なんだ」

「待つだけではないけど、そういう面もある」

「遥さん、待てる?」

 彼女の指がボタンから離れる。

「何を?」

「データ。何も起きない時間」

「必要なら」

「人は?」

 自分で聞いておきながら、答えが怖くなった。

「待ってほしいと言われたら、理由と期限を確認する」

「やっぱり予定表」

「前なら、そう答えた」

「今は?」

 遥さんはスクリーンを見た。光の輪はもう消えている。

「期限がなくても、待つことはあると思う」

「たとえば?」

「答えを言いたくなるまで」

 私を見ないまま言う。

 胸の奥が熱くなり、すぐに逃げたくなった。

「展示、次へ行こうか」

「うん」

 逃げたことを、遥さんは責めなかった。

 別の展示では、実際の観測データを使ったゲームができた。画面に現れる光の輪から、粒子が飛んできた方向を当てる。遥さんは説明を読み終える前に規則を理解し、高得点を出した。

「研究者は出入り禁止にしたほうがいい」

「専門は違う」

「私には全部、宇宙の人」

「冬子さんも、今は現地協力者」

「肩書きだけ」

「昨日の測定値、時刻の読み上げに誤差はなかった。霧の日も助かった」

「一度、室内灯を点けたけど」

「その後はしていない」

「失敗も記録するのに、ずいぶん評価が甘い」

「同じ失敗を繰り返さないことは、評価する」

 遥さんの声には、慰めではない確かさがあった。

 私は次のゲームへ挑戦し、見事に最低点を取った。遥さんは笑わないよう口を結んでいたが、目元でわかる。

「笑っていいよ」

 遥さんはすぐには笑わなかった。口元を手の甲で隠し、画面と私を見比べる。

「今、笑ったら怒るかと思った」

「そんな顔してた?」

「していた。昨日から、どこまで近づいていいのかわからない」

 冗談にするには、声が正直すぎた。私にもわからない、と答えると、遥さんの口元からようやく息が漏れた。つられて私も笑う。明るい笑いではなく、互いの立つ場所を暗がりで確かめるような短い笑いだった。

 数分だけ、昨日の電話より前へ戻れた気がした。


 展示室の奥には、神岡で行われている研究の年表があった。

 父の道路地図にも、神岡の場所へ青い丸がついている。横のメモは『地下で見る宇宙』。日付は二〇一六年の春だった。

「病気が見つかる前?」

 遥さんが尋ねる。

「半年くらい前。父の最後の出張が富山で、その帰りに寄ったのかもしれない」

「カミオカラボができたのは、もっとあとだと思う」

「じゃあ、研究施設の記事を見たのかな。中には入れないだろうし」

「一般の人が研究施設そのものへ入るのは難しいね。でも、この町まで来た可能性はある」

「また、来たかどうかわからない場所」

 私は地図を閉じようとした。

「今日は、どちらでもいいとは思わない?」

「昨日は思った。でも、ここは知りたい」

「なぜ?」

「父が、病気になる直前に何を見ていたのか知りたいから」

「直前だと知っていたわけではない」

「わかってる」

 声が強くなる。

 遥さんは一歩下がった。

「ごめん。否定したかったわけでは」

「研究者って、知らないことを知らないままにできない?」

「わからないままにすることも必要。ただ、事実と推測は分ける」

「父が来たかもしれないと思うのは、推測?」

「そうなる」

「来ていないかもしれないも?」

「同じ」

「何も決められないね」

「決める必要がある?」

 展示室の青い光の中で、遥さんの顔は白く見えた。

 彼女は間違ったことを言っていない。父の地図だけでは、実際に神岡へ来たかはわからない。来たことにすれば美しいし、来なかったことにすれば未完の旅が一つ増える。どちらも私の都合だ。

 それでも、今は正しさを差し出されたくなかった。

「外へ出よう。お腹すいた」

「冬子さん」

「冷却時間」

 私は先に歩いた。


 道の駅の食堂は混んでいた。

 私たちは窓際の二人席へ座り、飛騨牛コロッケの定食を頼んだ。遥さんは何度か話しかけようとしたが、私はメニューや窓の外を見て避ける。

 携帯が震えた。

 母からではなく、買い取り業者からの確認メッセージだった。十四日十七時、出張査定。車検証と整備記録を用意すること。私は『承知しました』と返信した。

「売るんだね」

 遥さんが画面を見ていた。

「昨日、話したでしょ」

「最初は、と言った」

「何が?」

「最初は、地図の最後まで行って終わりにするつもりだったって。今は変わったのかと思った」

「変わらない」

 言い切ると、自分の胸まで痛んだ。

「この旅で、何も?」

 その聞き方では、野辺山からここまでの道が、私の決心を変えるために用意された証拠みたいだった。楽しかった。助手席が空いていないことにも慣れた。だからこそ、旅行を終えた勢いだけで四十万円を出せるほど、生活は簡単ではない。

「お金を軽く見ないで。遥さんの機材だって、研究費がなければ動かせないって言ってた。好きになったら維持費が消えるわけじゃない」

 遥さんは箸袋の端を親指で押さえた。折り目のない紙へ、白い筋が一本つく。

「軽く見ていない。だから、売るなとは言えない」

「じゃあ、何が言いたいんですか」

 問い詰めたのは私なのに、答えが来るまでの数秒に耐えられず、窓の外へ目を向けた。駐車場では、知らない家族が笑いながら荷物を積んでいる。ここから逃げる理由なら、いくらでも拾えた。

「私は、旅が終わっても、この車の助手席にまた乗ることがあると思っていた。研究で必要だからではなく、冬子さんに会うために」

 声は途中で一度細くなったが、遥さんは言い直さなかった。

「だったら、どうして今まで言わなかったの」

「言えば、何かを要求することになる気がした。車を残してほしいとか、私のために予定を変えてほしいとか。そういう言い方にはしたくなかった」

「何も言わないまま、わかってほしかった?」

 遥さんは答えなかった。黙ることで肯定したのか、答えを探しているのか、私にはもう区別がつかない。

「でも、冬子さんは旅が終われば元に戻ると言った。車も売る。私が言葉を探している間に、全部を終わらせる準備をしている」

「九年前から終わってるものを、今まで引き延ばしてきただけです」

「お父さまのこと?」

「車のことです」

「同じにしてるのは冬子さんでしょう」

 その一言で、胸の内側に張っていたものが音もなく切れた。食堂の話し声や食器の触れる音だけが、不自然にはっきり聞こえる。

「遥さんに何がわかるんですか」

「わからないから聞いてる」

 聞けば答えが出る。いつもならそういう遥さんの問い方が、今は私の中身を勝手に開けようとする手に思えた。

「聞けば全部答えてもらえると思わないで。こんな短い旅で、私の決め方まで変えようとしないでください」

 普段は使わない丁寧さが、自分の声を刃へ変えていく。それでも止められなかった。

「最初は、私には父の地図を読める人が必要で、遥さんには測定地点まで運ぶ車が必要だった。それでよかったでしょう。途中から別の意味があるような顔をして、肝心なことは言わない。私が車を売れば困るから、今じゃなくてもいいと思ってるんじゃないですか」

「そんなふうに思っていたの?」

「違うなら、顔じゃなくて言葉で言って」

 遥さんの唇が動く。けれど声は出ない。私は、その沈黙を待てなかった。

「阿智へ着けば契約は終わりです。私も、そのつもりで始めた」

「冬子さんは、それでいいの」

 答えようとすると、喉の奥で言葉が絡んだ。いい、と言い切れば、旅の外で会いたいと思い始めた自分まで否定する。よくない、と認めれば、父の地図を終わらせるために積み上げた年月が崩れる。

「それでいいから決めたんです。父は関係ない。車を残すか売るかは、私が自分で決めています!」

 周囲の視線が集まった。

 私は口を閉じる。遥さんも俯いた。

 運ばれてきた定食を、二人ともほとんど話さずに食べた。コロッケの味は覚えていない。


 食堂を出たあと、朝の約束どおり神岡町内の整備工場へ寄った。

 古い住宅の間にある小さな工場で、電話をすると、昼休み明けに短時間なら見られると言ってくれた。私は黄色いファイルを渡し、旅の途中で断続的に聞こえた異音について説明する。

 遥さんは待合室の端へ座り、ノートパソコンを開いた。画面を見ているが、ほとんどキーを打っていない。

 整備士はメモへ目を通してからエンジンをかけ、電圧を測る。何度か回転数を上げても、警告灯は点かなかった。発電量もその時点では基準内。ただ、オルタネーター付近からわずかな唸りが聞こえるという。

「今すぐ動かなくなる数字ではないです。でも、年式と距離を考えると、発電機かベルト周りが弱っていても不思議はないですね。遠出の途中なら、警告灯が点いたら走り続けないでください」

「交換したほうがいいですか」

「ここで分解して調べるなら、今日一日は預かることになります。今は正常に発電しているので、交換を勧めるとまでは言えません」

 正しい答えだった。壊れていないものを、可能性だけで取り替えることはできない。

「この先、木曽へ行きます」

「高山から361号ですか。途中は店が少ないから、違和感があれば高山市街で停まるのが安心です」

「わかりました」

 点検料を払い、結果をファイルへ書き足す。遥さんはいつの間にか近くへ立っていた。

「今日は、ここで泊まる?」

「異常は出てない。朝日町まで行きます」

「整備士さんは、壊れないと言っていない」

「壊れるとも言ってないでしょう」

「確率がわからない」

「だから、警告灯が点いたら停める。安全な場所までの地図も見ておく」

「私が運転を代われば?」

「運転手を変えても、発電機は変わりません」

「冬子さんが音ばかり気にして疲れる」

「遥さんは、私から運転席まで取り上げたいんですか」

 言う必要のない言葉だった。

 遥さんの表情から、残っていた温度が消える。

「そういう意味ではない」

「なら、私が運転します」

「わかった」

 彼女は車へ戻った。

 整備士から鍵を受け取り、私はもう一度礼を言う。今日は異常なし。その言葉に安心するより、異常が見つからなかったことを責めたくなった。

 何か一つ悪い部品が決まれば、それを交換して先へ進める。父の死も、車を売ることも、遥さんとの関係も、そんなふうに原因と処置が決まればいいのに。

 現実は、正常な数字を出したまま、聞き慣れない音だけを残している。


 神岡を出たのは、午後二時過ぎだった。

 国道を南へ向かい、高山市街を経て361号へ入る。助手席の遥さんは、行程表もノートも開かなかった。窓の外を見たまま、必要な案内だけを短く読む。

「次、二キロ先を左」

「わかりました」

「その先は、しばらく道なり」

「はい」

 名前を呼ばなくても会話はできる。

 それが、こんなに遠いとは知らなかった。

 父のCDをかける気にもなれず、ラジオも消した。エンジンとタイヤの音だけが続く。朝には消えていた高い唸りが、ときどき混ざった。

「音、してない?」

 遥さんが先に気づいた。

「してる」

「停めよう」

「安全な場所を探す」

 道路脇は狭く、すぐには停車できない。水温計は正常。警告灯もまだ点いていない。私は速度を抑え、道の駅ひだ朝日村までの距離を標識で確認した。

 数分後、メーターパネルの赤いランプが点いた。

 バッテリーの形をした、充電警告灯。

「点いた」

「見えてる。道の駅まで三キロ」

「走って大丈夫?」

 ここには停車帯がなく、路肩へ寄せれば車線を塞ぐ。道の駅が、地図上で確認できる最も近い安全な退避場所だった。

「今はハンドルもブレーキも正常。電装品を切って、道の駅まで速度を落とす。ほかの異常が出たら、車線上でも停める」

 エアコンとオーディオを切り、昼間なのでライトは使わない。遥さんが携帯で道の駅の入口を確認する。

「次の右。入口、見えた」

 ウインカーを出し、駐車場へ入る。建物から少し離れた平らな場所へ停め、エンジンを切った。

 キーを抜くと、車内が静まり返る。

「再始動しないほうがいいね」

「うん。ロードサービスに電話する」

 手が震えていた。

 携帯の画面を二度押し間違える。遥さんが手を出しかけ、途中で止めた。

「代わろうか」

「大丈夫」

 保険会社へ連絡し、現在地と警告灯、異音を伝える。担当者から、エンジンをかけずに待つよう指示された。到着まで約一時間。

「安全な場所へ停められてよかった」

 遥さんが言う。

「そうですね」

 私の返事だけが他人行儀に浮いた。遥さんは助手席の足元にある機材へ一度目をやり、それから私を見る。

「ここで待つ。今日は周辺確認だけだし、明日の測定にもまだ間に合う。直らなければ、冬子さんを置いていく以外の方法を考える」

「研究の予定を、私の車と一緒に止めるの?」

「止めるんじゃない。変える」

 今朝までの遥さんなら、代替案を先に並べたはずだった。今は何も決まっていないまま残ると言っている。そのことがうれしくて、同じだけ怖い。私は自分から遠ざけておいて、追ってきた彼女へまで腹を立てていた。

「父が、終わらせたのかも」

 口からこぼれた言葉は、考えたものよりずっと幼かった。

「何を?」

「この旅。もう十分だって」

 遥さんの眉がわずかに寄る。

「故障は故障だよ。お父さまの意思ではない」

 正しい。旅の二日目に聞いた細い音も、神岡の工場で聞こえたわずかな唸りも、さっき点いた警告灯も、全部つながった機械の故障だ。父の意思が発電機へ宿るはずはない。

「わかってる。そんなこと、私が一番わかってる。部品が寿命になっただけで、父が地図の中から止めたわけじゃない。それでも今くらい、そう思わせてよ。途中で車が止まったら、もう行かなくていいって言われた気がしたの」

 最後は叫び声になった。近くにいた家族がこちらを見る。私はドアを開け、外へ出た。

 日差しは強いのに、指先が冷たい。濃紺のボンネットへ手を置くと、走ってきた熱が掌へ伝わった。

「何でも正しくしないで」

 車越しに言う。

 遥さんも助手席から降りた。

 すぐに答えは返ってこなかった。遥さんは開いたドアに片手を置き、言葉を出しかけては飲み込む。いつものように、正確な形へ整えようとしているのがわかった。

「間違っていると思っても、そうだねと言えばいいの? 私は、どこまで一緒に間違えばいい?」

「今だけでいい。一緒にわからなくなって。直し方も次の予定も出さないで、私と同じ場所にいてよ」

 遥さんの指がドアの縁を強くつかんだ。

「それでは車は直らない。お父さまも戻らない」

 その言葉で、音がすべて消えた。

 遥さん自身も、言った瞬間に顔色を変えた。

「ごめん。今のは」

 私は首を振った。謝罪まで聞けば、今の言葉を受け取ったことになる気がした。

「聞きたくない。父が戻らないことは九年前から知ってる。遥さんに正しい答えとして渡してもらわなくても、毎日知ってる。だから今は、名前も呼ばないで」

 私は車の反対側へ回った。

 毎日それを知るために、私は車へ金を払い、傷を直し、遅れた時計を直さず、父のCDを聴いてきた。

 戻らないものを戻そうとしていたわけではない。

 それでも、もう一度失わないようにしていたのかもしれない。

 私は道の駅の建物へ入り、冷たい水を一本買った。遥さんの分まで手に取ってから、棚へ戻す。今の彼女に渡せば、受け取ることを強いる気がした。

 外へ出ると、遥さんは車から少し離れた日陰で電話をしていた。

「はい。明日の木曽は、到着時刻が読めません。車両故障で」

 研究室への連絡らしい。

「私は無事です。宮坂さんも怪我はありません。修理の見込みが出るまで、ここにいます」

 私の名前を、名字で呼んでいる。

『公共交通機関で先に移動するように』と言われているのか、遥さんはしばらく黙った。

「機材の輸送が難しいので。それに、現地協力者を一人で残せません」

 現地協力者。

 便利な肩書きだと思った。友人でも恋人でもなく、大学へ説明できる関係。それでも、先に行かず残る理由にはなっている。

「はい。今夜中に、改めて連絡します」

 電話を切った遥さんと目が合った。

「先に行けばいいのに」

「聞いていたの?」

「聞こえただけ」

「機材を全部持って、ここから移動するのは現実的ではない」

「また合理的な理由」

「合理的なら、何が悪いの」

「何も」

 遥さんは自動販売機へ向かい、水を二本買った。戻ってくると、一本を車の屋根へ置く。

「ここに置いておく。要らなければ飲まなくていい」

「私は買いました」

「なら、予備」

 手渡しをせず、彼女はまた日陰へ戻った。

 私は自分の水を半分飲んだ。それから車の屋根に置かれた一本を取り、直射日光の当たらない助手席へ移す。

 受け取ったわけではない。温くならないようにしただけだ。

 自分へそう説明しなければならないほど、私たちは遠くなっていた。


 ロードサービスの作業員は、電圧を測るとすぐに首を振った。

「発電してないですね。おそらくオルタネーターです。ここでは直せないので、工場まで運びます」

 レガシィは積載車へ載せられた。

 五日前、遥さんのレンタカーが同じように運ばれていくのを二人で見た。今度は私の車で、彼女は少し離れた場所に立っている。

 早川自動車という小さな整備工場へ運ばれ、正式に点検してもらう。発電機の故障で間違いないが、新品部品はすぐに用意できない。高山市内に適合するリビルト品があり、翌日の昼頃なら交換できる見込みだという。

「ほかに傷んでいるところも見てもらえますか」

「もちろん。ただ、車検を通すとなると、別の日に預からないと全部は見られないね」

「売る予定なので」

 言うと、工場の主人はレガシィと私を見比べた。

「そうか。なら、明日走れるようにするところまででいい?」

「はい」

 返事をしたあと、遥さんが何も言わないことを確かめた。

 工場の近くにある民宿を紹介してもらい、二部屋を取った。荷物を車から下ろす。全天カメラのケースを、遥さんと二人で持ったが、互いに目を合わせなかった。

 民宿へ着く頃には、夕方の光が山の後ろへ沈み始めていた。

「明日の朝、八時に工場へ行きます」

 廊下で遥さんが言った。

「私は九時に行きます。作業は昼からでしょう」

「じゃあ、私は先に行く」

「自由にしてください」

 部屋へ入り、扉を閉めた。

 薄い畳の匂いがする。窓から工場の看板は見えない。父の地図も、黄色いファイルも、車の中へ置いてきた。

 十六歳の冬、父はもう運転できなくなっていた。

 病院へ行く前の日、ベッド脇の棚からレガシィの鍵を出し、私に渡した。免許を取るまで母に預けておけ、と言った。

『あの車、冬子が運転したら似合うと思うんだよな』

 私は泣きそうになるのが嫌で、まだ高校生だよ、と怒った。

『知ってる。だから、待つんだよ』

 父はそう言った。

 待てなかったのは、父のほうだった。

 亡くなったあと、車は半年近く動かさなかった。バッテリーが上がり、母と二人で整備工場を呼んだ。エンジンがかかった瞬間、父が帰ってきた気がして、私は駐車場で泣いた。

 免許を取って初めて運転した日も、母が助手席にいた。自宅の周りを一周するだけのつもりが、私は怖くなって最初の角を曲がれず、十分近く同じ場所へ停まっていた。

『お父さんの車だからって、お父さんみたいに運転しなくていいのよ』

 母はそう言った。

 私は父のシート位置を動かせず、ペダルへ足を伸ばしていた。結局、母がレバーを引き、座席を前へ滑らせた。背もたれも起こし、ミラーも私に合わせた。そのとき初めて、父が運転していた車の景色ではなく、私の視界で道路が見えた。

 それでも、運転席を誰かへ譲ることだけはできなかった。母が運転しようかと聞いても、友人が代わると言っても断った。父から渡された鍵を、また誰かへ渡せば、今度こそ返ってこない気がしたからだ。

 今日、故障した車は工場にある。鍵も整備士へ預けている。それだけで、胸の中が空になったようだった。

 今日、同じように電気がなくなった。

 父が終わらせたわけではない。遥さんの言うとおり、部品が寿命を迎えただけだ。それでも、正しい言葉ほど、今は聞きたくなかった。

 携帯には、遥さんとのやり取りが残っている。

『着いた』

『今日はありがとう』

『ちゃんと髪を乾かしてから寝てね』

 新しいメッセージはない。

 私も送らなかった。

 見えなくても存在するものがあると、午前中に知った。身体も地球も通り抜け、まれにしか反応しない粒子。その光を捉えるため、人は暗い地下で待ち続ける。

 けれど、人の気持ちは装置では測れない。

 今、襖一枚と廊下を挟んだ向かいの部屋に遥さんがいる。それなのに、気配さえわからなかった。

 私は布団へ横になり、照明を消した。

 星も、車も、父の地図も見えない夜だった。


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