第六章 見えないもの
朝食の席で、遥さんは納豆を百八回混ぜた。
数えていたわけではない。最初は、いつもより長いと思っただけだ。けれど、彼女が一度もこちらを見ずに箸を動かし続けるので、途中から数え始めた。私が数え始めてから八十三回。それ以前がおよそ二十五回。
「混ぜすぎじゃない?」
百九回目で声をかけると、箸が止まった。
「そう?」
「泡みたいになってる」
「考え事をしていたから」
「研究?」
「いろいろ」
その中に私がいるかは、聞けなかった。
昨夜の観測が終わってから、私たちの会話は短い。車を売ると知られたせいだ。遥さんは所有者ではないし、五日前まで車の存在すら知らなかった。それでも、自分に黙って決められたような顔をした。
私も、彼女へ言わなかったことを後ろめたく感じている。
矛盾している。だから、納豆の回数を数えるくらいしかできない。
「今日は神岡だよね」
「うん。カミオカラボを見たあと、周辺の比較点を確認する。夕方には国道361号へ入って、朝日町の宿まで」
「車の点検も」
「忘れてない」
「言ってみただけ」
「そう」
遥さんは泡立った納豆を、ご飯へ半分ずつ載せた。一度に全部かけないのは、配分を決めているからだろう。
「おいしい?」
「普通」
「報告書にもなってない」
「冬子さんは、今それを聞きたいの?」
顔を上げた目は、思ったより疲れていた。
「ごめん」
「謝らなくていい。ただ、いつものように話すなら、いつものように戻ったふりをするのはやめて」
胸の内側を直接押されたようだった。
「いつものって、まだ四日でしょ」
「四日あれば、いつもはできる」
「そういうところだけ柔らかくなったね」
「冬子さんのせい」
「それ、昨日も聞いた」
「昨日より、意味が増えてる」
遥さんはそれ以上説明せず、味噌汁を飲んだ。
聞けば答える人だったはずなのに、最近は言葉の途中で止まる。私の影響だと言われると、うれしい。増えた意味が私の欲しいものと違う可能性を考えると、怖い。
旅はあと二日。終われば元へ戻ると、自分で線を引いた。その線のこちら側にいるうちだけ、曖昧なままでいたかった。
宿を出る前に、もう一度エンジン音を確認した。
始動は問題なく、警告灯も消えた。私は時刻と走行距離を書き込み、黄色いファイルを閉じる。何も起きなかった朝ほど、次に何が起きるかを考えてしまう。
「そこまで記録するなら、整備工場になれるんじゃない?」
遥さんが言う。
「免許も資格もないから無理」
「記録係」
「お客さんの車を全部、自分の父親のものみたいに心配してたら仕事にならない」
「この車だから?」
「そう」
答えると、遥さんは助手席へ乗り込んだ。
上宝町から神岡町へ向かう道は、川に沿っている。水面は昨日の雨で濁り、流れが速い。山肌から細い滝がいくつも落ちていた。
オーディオには父のCDではなく、ラジオを流した。朝の番組で、明日のペルセウス座流星群が紹介されている。二〇二六年は新月と重なり、月明かりの影響が少ない。十三日の未明に多く見られる見込みだという。
「聞いてる?」
「うん」
遥さんは窓の外を見たまま答えた。
「阿智、晴れるかな」
「今の予報では、夜の前半は雲が多い。未明にかけて晴れる可能性がある」
「詳しいね」
「毎時間見てるから」
「さすが」
「褒めても、予報は変わらない」
昨日までは、こんなやり取りにも笑えた。今日は、どちらも笑わない。
信号のない道を進み、道の駅宙ドーム・神岡へ着く。駐車場へ車を停めると、遥さんはすぐにメーターを確認した。
「異常なし」
「私が見てる」
「二人で見たほうが、見落としが減る」
「研究機材と同じ扱い?」
「大切なものは、同じように確認する」
何を指しているのか聞けなかった。
道の駅の中にあるカミオカラボは、入場無料の宇宙科学館だった。
神岡町の地下では、ニュートリノや重力波、ダークマターを調べる研究が行われている。展示室へ入ると、青い光で照らされた空間に、大きな円形のスクリーンがあった。
遥さんの顔が、今日初めてはっきり明るくなる。
「こういう場所、好き?」
「好き」
「即答」
「わかっていることだから」
スクリーンに、ニュートリノがほとんど物質と反応せず通り抜けていく映像が映る。太陽や宇宙から飛んできた粒子が、人間の身体も地球も通過する。そのごく一部が巨大な装置の水と反応したとき、弱い光が生まれるという。
「今も、私たちの中を通ってる?」
「大量に」
「何も感じない」
「ほとんど反応しないから」
「あるのに?」
「感じられることと、存在することは別」
遥さんは展示の説明を読み、ボタンを押した。スクリーンの中で青白い光の輪が広がる。
「ごくまれに反応したものだけを集めて、元の粒子を調べる。何も起きない時間のほうが、ずっと長い」
「待つ研究なんだ」
「待つだけではないけど、そういう面もある」
「遥さん、待てる?」
彼女の指がボタンから離れる。
「何を?」
「データ。何も起きない時間」
「必要なら」
「人は?」
自分で聞いておきながら、答えが怖くなった。
「待ってほしいと言われたら、理由と期限を確認する」
「やっぱり予定表」
「前なら、そう答えた」
「今は?」
遥さんはスクリーンを見た。光の輪はもう消えている。
「期限がなくても、待つことはあると思う」
「たとえば?」
「答えを言いたくなるまで」
私を見ないまま言う。
胸の奥が熱くなり、すぐに逃げたくなった。
「展示、次へ行こうか」
「うん」
逃げたことを、遥さんは責めなかった。
別の展示では、実際の観測データを使ったゲームができた。画面に現れる光の輪から、粒子が飛んできた方向を当てる。遥さんは説明を読み終える前に規則を理解し、高得点を出した。
「研究者は出入り禁止にしたほうがいい」
「専門は違う」
「私には全部、宇宙の人」
「冬子さんも、今は現地協力者」
「肩書きだけ」
「昨日の測定値、時刻の読み上げに誤差はなかった。霧の日も助かった」
「一度、室内灯を点けたけど」
「その後はしていない」
「失敗も記録するのに、ずいぶん評価が甘い」
「同じ失敗を繰り返さないことは、評価する」
遥さんの声には、慰めではない確かさがあった。
私は次のゲームへ挑戦し、見事に最低点を取った。遥さんは笑わないよう口を結んでいたが、目元でわかる。
「笑っていいよ」
遥さんはすぐには笑わなかった。口元を手の甲で隠し、画面と私を見比べる。
「今、笑ったら怒るかと思った」
「そんな顔してた?」
「していた。昨日から、どこまで近づいていいのかわからない」
冗談にするには、声が正直すぎた。私にもわからない、と答えると、遥さんの口元からようやく息が漏れた。つられて私も笑う。明るい笑いではなく、互いの立つ場所を暗がりで確かめるような短い笑いだった。
数分だけ、昨日の電話より前へ戻れた気がした。
展示室の奥には、神岡で行われている研究の年表があった。
父の道路地図にも、神岡の場所へ青い丸がついている。横のメモは『地下で見る宇宙』。日付は二〇一六年の春だった。
「病気が見つかる前?」
遥さんが尋ねる。
「半年くらい前。父の最後の出張が富山で、その帰りに寄ったのかもしれない」
「カミオカラボができたのは、もっとあとだと思う」
「じゃあ、研究施設の記事を見たのかな。中には入れないだろうし」
「一般の人が研究施設そのものへ入るのは難しいね。でも、この町まで来た可能性はある」
「また、来たかどうかわからない場所」
私は地図を閉じようとした。
「今日は、どちらでもいいとは思わない?」
「昨日は思った。でも、ここは知りたい」
「なぜ?」
「父が、病気になる直前に何を見ていたのか知りたいから」
「直前だと知っていたわけではない」
「わかってる」
声が強くなる。
遥さんは一歩下がった。
「ごめん。否定したかったわけでは」
「研究者って、知らないことを知らないままにできない?」
「わからないままにすることも必要。ただ、事実と推測は分ける」
「父が来たかもしれないと思うのは、推測?」
「そうなる」
「来ていないかもしれないも?」
「同じ」
「何も決められないね」
「決める必要がある?」
展示室の青い光の中で、遥さんの顔は白く見えた。
彼女は間違ったことを言っていない。父の地図だけでは、実際に神岡へ来たかはわからない。来たことにすれば美しいし、来なかったことにすれば未完の旅が一つ増える。どちらも私の都合だ。
それでも、今は正しさを差し出されたくなかった。
「外へ出よう。お腹すいた」
「冬子さん」
「冷却時間」
私は先に歩いた。
道の駅の食堂は混んでいた。
私たちは窓際の二人席へ座り、飛騨牛コロッケの定食を頼んだ。遥さんは何度か話しかけようとしたが、私はメニューや窓の外を見て避ける。
携帯が震えた。
母からではなく、買い取り業者からの確認メッセージだった。十四日十七時、出張査定。車検証と整備記録を用意すること。私は『承知しました』と返信した。
「売るんだね」
遥さんが画面を見ていた。
「昨日、話したでしょ」
「最初は、と言った」
「何が?」
「最初は、地図の最後まで行って終わりにするつもりだったって。今は変わったのかと思った」
「変わらない」
言い切ると、自分の胸まで痛んだ。
「この旅で、何も?」
その聞き方では、野辺山からここまでの道が、私の決心を変えるために用意された証拠みたいだった。楽しかった。助手席が空いていないことにも慣れた。だからこそ、旅行を終えた勢いだけで四十万円を出せるほど、生活は簡単ではない。
「お金を軽く見ないで。遥さんの機材だって、研究費がなければ動かせないって言ってた。好きになったら維持費が消えるわけじゃない」
遥さんは箸袋の端を親指で押さえた。折り目のない紙へ、白い筋が一本つく。
「軽く見ていない。だから、売るなとは言えない」
「じゃあ、何が言いたいんですか」
問い詰めたのは私なのに、答えが来るまでの数秒に耐えられず、窓の外へ目を向けた。駐車場では、知らない家族が笑いながら荷物を積んでいる。ここから逃げる理由なら、いくらでも拾えた。
「私は、旅が終わっても、この車の助手席にまた乗ることがあると思っていた。研究で必要だからではなく、冬子さんに会うために」
声は途中で一度細くなったが、遥さんは言い直さなかった。
「だったら、どうして今まで言わなかったの」
「言えば、何かを要求することになる気がした。車を残してほしいとか、私のために予定を変えてほしいとか。そういう言い方にはしたくなかった」
「何も言わないまま、わかってほしかった?」
遥さんは答えなかった。黙ることで肯定したのか、答えを探しているのか、私にはもう区別がつかない。
「でも、冬子さんは旅が終われば元に戻ると言った。車も売る。私が言葉を探している間に、全部を終わらせる準備をしている」
「九年前から終わってるものを、今まで引き延ばしてきただけです」
「お父さまのこと?」
「車のことです」
「同じにしてるのは冬子さんでしょう」
その一言で、胸の内側に張っていたものが音もなく切れた。食堂の話し声や食器の触れる音だけが、不自然にはっきり聞こえる。
「遥さんに何がわかるんですか」
「わからないから聞いてる」
聞けば答えが出る。いつもならそういう遥さんの問い方が、今は私の中身を勝手に開けようとする手に思えた。
「聞けば全部答えてもらえると思わないで。こんな短い旅で、私の決め方まで変えようとしないでください」
普段は使わない丁寧さが、自分の声を刃へ変えていく。それでも止められなかった。
「最初は、私には父の地図を読める人が必要で、遥さんには測定地点まで運ぶ車が必要だった。それでよかったでしょう。途中から別の意味があるような顔をして、肝心なことは言わない。私が車を売れば困るから、今じゃなくてもいいと思ってるんじゃないですか」
「そんなふうに思っていたの?」
「違うなら、顔じゃなくて言葉で言って」
遥さんの唇が動く。けれど声は出ない。私は、その沈黙を待てなかった。
「阿智へ着けば契約は終わりです。私も、そのつもりで始めた」
「冬子さんは、それでいいの」
答えようとすると、喉の奥で言葉が絡んだ。いい、と言い切れば、旅の外で会いたいと思い始めた自分まで否定する。よくない、と認めれば、父の地図を終わらせるために積み上げた年月が崩れる。
「それでいいから決めたんです。父は関係ない。車を残すか売るかは、私が自分で決めています!」
周囲の視線が集まった。
私は口を閉じる。遥さんも俯いた。
運ばれてきた定食を、二人ともほとんど話さずに食べた。コロッケの味は覚えていない。
食堂を出たあと、朝の約束どおり神岡町内の整備工場へ寄った。
古い住宅の間にある小さな工場で、電話をすると、昼休み明けに短時間なら見られると言ってくれた。私は黄色いファイルを渡し、旅の途中で断続的に聞こえた異音について説明する。
遥さんは待合室の端へ座り、ノートパソコンを開いた。画面を見ているが、ほとんどキーを打っていない。
整備士はメモへ目を通してからエンジンをかけ、電圧を測る。何度か回転数を上げても、警告灯は点かなかった。発電量もその時点では基準内。ただ、オルタネーター付近からわずかな唸りが聞こえるという。
「今すぐ動かなくなる数字ではないです。でも、年式と距離を考えると、発電機かベルト周りが弱っていても不思議はないですね。遠出の途中なら、警告灯が点いたら走り続けないでください」
「交換したほうがいいですか」
「ここで分解して調べるなら、今日一日は預かることになります。今は正常に発電しているので、交換を勧めるとまでは言えません」
正しい答えだった。壊れていないものを、可能性だけで取り替えることはできない。
「この先、木曽へ行きます」
「高山から361号ですか。途中は店が少ないから、違和感があれば高山市街で停まるのが安心です」
「わかりました」
点検料を払い、結果をファイルへ書き足す。遥さんはいつの間にか近くへ立っていた。
「今日は、ここで泊まる?」
「異常は出てない。朝日町まで行きます」
「整備士さんは、壊れないと言っていない」
「壊れるとも言ってないでしょう」
「確率がわからない」
「だから、警告灯が点いたら停める。安全な場所までの地図も見ておく」
「私が運転を代われば?」
「運転手を変えても、発電機は変わりません」
「冬子さんが音ばかり気にして疲れる」
「遥さんは、私から運転席まで取り上げたいんですか」
言う必要のない言葉だった。
遥さんの表情から、残っていた温度が消える。
「そういう意味ではない」
「なら、私が運転します」
「わかった」
彼女は車へ戻った。
整備士から鍵を受け取り、私はもう一度礼を言う。今日は異常なし。その言葉に安心するより、異常が見つからなかったことを責めたくなった。
何か一つ悪い部品が決まれば、それを交換して先へ進める。父の死も、車を売ることも、遥さんとの関係も、そんなふうに原因と処置が決まればいいのに。
現実は、正常な数字を出したまま、聞き慣れない音だけを残している。
神岡を出たのは、午後二時過ぎだった。
国道を南へ向かい、高山市街を経て361号へ入る。助手席の遥さんは、行程表もノートも開かなかった。窓の外を見たまま、必要な案内だけを短く読む。
「次、二キロ先を左」
「わかりました」
「その先は、しばらく道なり」
「はい」
名前を呼ばなくても会話はできる。
それが、こんなに遠いとは知らなかった。
父のCDをかける気にもなれず、ラジオも消した。エンジンとタイヤの音だけが続く。朝には消えていた高い唸りが、ときどき混ざった。
「音、してない?」
遥さんが先に気づいた。
「してる」
「停めよう」
「安全な場所を探す」
道路脇は狭く、すぐには停車できない。水温計は正常。警告灯もまだ点いていない。私は速度を抑え、道の駅ひだ朝日村までの距離を標識で確認した。
数分後、メーターパネルの赤いランプが点いた。
バッテリーの形をした、充電警告灯。
「点いた」
「見えてる。道の駅まで三キロ」
「走って大丈夫?」
ここには停車帯がなく、路肩へ寄せれば車線を塞ぐ。道の駅が、地図上で確認できる最も近い安全な退避場所だった。
「今はハンドルもブレーキも正常。電装品を切って、道の駅まで速度を落とす。ほかの異常が出たら、車線上でも停める」
エアコンとオーディオを切り、昼間なのでライトは使わない。遥さんが携帯で道の駅の入口を確認する。
「次の右。入口、見えた」
ウインカーを出し、駐車場へ入る。建物から少し離れた平らな場所へ停め、エンジンを切った。
キーを抜くと、車内が静まり返る。
「再始動しないほうがいいね」
「うん。ロードサービスに電話する」
手が震えていた。
携帯の画面を二度押し間違える。遥さんが手を出しかけ、途中で止めた。
「代わろうか」
「大丈夫」
保険会社へ連絡し、現在地と警告灯、異音を伝える。担当者から、エンジンをかけずに待つよう指示された。到着まで約一時間。
「安全な場所へ停められてよかった」
遥さんが言う。
「そうですね」
私の返事だけが他人行儀に浮いた。遥さんは助手席の足元にある機材へ一度目をやり、それから私を見る。
「ここで待つ。今日は周辺確認だけだし、明日の測定にもまだ間に合う。直らなければ、冬子さんを置いていく以外の方法を考える」
「研究の予定を、私の車と一緒に止めるの?」
「止めるんじゃない。変える」
今朝までの遥さんなら、代替案を先に並べたはずだった。今は何も決まっていないまま残ると言っている。そのことがうれしくて、同じだけ怖い。私は自分から遠ざけておいて、追ってきた彼女へまで腹を立てていた。
「父が、終わらせたのかも」
口からこぼれた言葉は、考えたものよりずっと幼かった。
「何を?」
「この旅。もう十分だって」
遥さんの眉がわずかに寄る。
「故障は故障だよ。お父さまの意思ではない」
正しい。旅の二日目に聞いた細い音も、神岡の工場で聞こえたわずかな唸りも、さっき点いた警告灯も、全部つながった機械の故障だ。父の意思が発電機へ宿るはずはない。
「わかってる。そんなこと、私が一番わかってる。部品が寿命になっただけで、父が地図の中から止めたわけじゃない。それでも今くらい、そう思わせてよ。途中で車が止まったら、もう行かなくていいって言われた気がしたの」
最後は叫び声になった。近くにいた家族がこちらを見る。私はドアを開け、外へ出た。
日差しは強いのに、指先が冷たい。濃紺のボンネットへ手を置くと、走ってきた熱が掌へ伝わった。
「何でも正しくしないで」
車越しに言う。
遥さんも助手席から降りた。
すぐに答えは返ってこなかった。遥さんは開いたドアに片手を置き、言葉を出しかけては飲み込む。いつものように、正確な形へ整えようとしているのがわかった。
「間違っていると思っても、そうだねと言えばいいの? 私は、どこまで一緒に間違えばいい?」
「今だけでいい。一緒にわからなくなって。直し方も次の予定も出さないで、私と同じ場所にいてよ」
遥さんの指がドアの縁を強くつかんだ。
「それでは車は直らない。お父さまも戻らない」
その言葉で、音がすべて消えた。
遥さん自身も、言った瞬間に顔色を変えた。
「ごめん。今のは」
私は首を振った。謝罪まで聞けば、今の言葉を受け取ったことになる気がした。
「聞きたくない。父が戻らないことは九年前から知ってる。遥さんに正しい答えとして渡してもらわなくても、毎日知ってる。だから今は、名前も呼ばないで」
私は車の反対側へ回った。
毎日それを知るために、私は車へ金を払い、傷を直し、遅れた時計を直さず、父のCDを聴いてきた。
戻らないものを戻そうとしていたわけではない。
それでも、もう一度失わないようにしていたのかもしれない。
私は道の駅の建物へ入り、冷たい水を一本買った。遥さんの分まで手に取ってから、棚へ戻す。今の彼女に渡せば、受け取ることを強いる気がした。
外へ出ると、遥さんは車から少し離れた日陰で電話をしていた。
「はい。明日の木曽は、到着時刻が読めません。車両故障で」
研究室への連絡らしい。
「私は無事です。宮坂さんも怪我はありません。修理の見込みが出るまで、ここにいます」
私の名前を、名字で呼んでいる。
『公共交通機関で先に移動するように』と言われているのか、遥さんはしばらく黙った。
「機材の輸送が難しいので。それに、現地協力者を一人で残せません」
現地協力者。
便利な肩書きだと思った。友人でも恋人でもなく、大学へ説明できる関係。それでも、先に行かず残る理由にはなっている。
「はい。今夜中に、改めて連絡します」
電話を切った遥さんと目が合った。
「先に行けばいいのに」
「聞いていたの?」
「聞こえただけ」
「機材を全部持って、ここから移動するのは現実的ではない」
「また合理的な理由」
「合理的なら、何が悪いの」
「何も」
遥さんは自動販売機へ向かい、水を二本買った。戻ってくると、一本を車の屋根へ置く。
「ここに置いておく。要らなければ飲まなくていい」
「私は買いました」
「なら、予備」
手渡しをせず、彼女はまた日陰へ戻った。
私は自分の水を半分飲んだ。それから車の屋根に置かれた一本を取り、直射日光の当たらない助手席へ移す。
受け取ったわけではない。温くならないようにしただけだ。
自分へそう説明しなければならないほど、私たちは遠くなっていた。
ロードサービスの作業員は、電圧を測るとすぐに首を振った。
「発電してないですね。おそらくオルタネーターです。ここでは直せないので、工場まで運びます」
レガシィは積載車へ載せられた。
五日前、遥さんのレンタカーが同じように運ばれていくのを二人で見た。今度は私の車で、彼女は少し離れた場所に立っている。
早川自動車という小さな整備工場へ運ばれ、正式に点検してもらう。発電機の故障で間違いないが、新品部品はすぐに用意できない。高山市内に適合するリビルト品があり、翌日の昼頃なら交換できる見込みだという。
「ほかに傷んでいるところも見てもらえますか」
「もちろん。ただ、車検を通すとなると、別の日に預からないと全部は見られないね」
「売る予定なので」
言うと、工場の主人はレガシィと私を見比べた。
「そうか。なら、明日走れるようにするところまででいい?」
「はい」
返事をしたあと、遥さんが何も言わないことを確かめた。
工場の近くにある民宿を紹介してもらい、二部屋を取った。荷物を車から下ろす。全天カメラのケースを、遥さんと二人で持ったが、互いに目を合わせなかった。
民宿へ着く頃には、夕方の光が山の後ろへ沈み始めていた。
「明日の朝、八時に工場へ行きます」
廊下で遥さんが言った。
「私は九時に行きます。作業は昼からでしょう」
「じゃあ、私は先に行く」
「自由にしてください」
部屋へ入り、扉を閉めた。
薄い畳の匂いがする。窓から工場の看板は見えない。父の地図も、黄色いファイルも、車の中へ置いてきた。
十六歳の冬、父はもう運転できなくなっていた。
病院へ行く前の日、ベッド脇の棚からレガシィの鍵を出し、私に渡した。免許を取るまで母に預けておけ、と言った。
『あの車、冬子が運転したら似合うと思うんだよな』
私は泣きそうになるのが嫌で、まだ高校生だよ、と怒った。
『知ってる。だから、待つんだよ』
父はそう言った。
待てなかったのは、父のほうだった。
亡くなったあと、車は半年近く動かさなかった。バッテリーが上がり、母と二人で整備工場を呼んだ。エンジンがかかった瞬間、父が帰ってきた気がして、私は駐車場で泣いた。
免許を取って初めて運転した日も、母が助手席にいた。自宅の周りを一周するだけのつもりが、私は怖くなって最初の角を曲がれず、十分近く同じ場所へ停まっていた。
『お父さんの車だからって、お父さんみたいに運転しなくていいのよ』
母はそう言った。
私は父のシート位置を動かせず、ペダルへ足を伸ばしていた。結局、母がレバーを引き、座席を前へ滑らせた。背もたれも起こし、ミラーも私に合わせた。そのとき初めて、父が運転していた車の景色ではなく、私の視界で道路が見えた。
それでも、運転席を誰かへ譲ることだけはできなかった。母が運転しようかと聞いても、友人が代わると言っても断った。父から渡された鍵を、また誰かへ渡せば、今度こそ返ってこない気がしたからだ。
今日、故障した車は工場にある。鍵も整備士へ預けている。それだけで、胸の中が空になったようだった。
今日、同じように電気がなくなった。
父が終わらせたわけではない。遥さんの言うとおり、部品が寿命を迎えただけだ。それでも、正しい言葉ほど、今は聞きたくなかった。
携帯には、遥さんとのやり取りが残っている。
『着いた』
『今日はありがとう』
『ちゃんと髪を乾かしてから寝てね』
新しいメッセージはない。
私も送らなかった。
見えなくても存在するものがあると、午前中に知った。身体も地球も通り抜け、まれにしか反応しない粒子。その光を捉えるため、人は暗い地下で待ち続ける。
けれど、人の気持ちは装置では測れない。
今、襖一枚と廊下を挟んだ向かいの部屋に遥さんがいる。それなのに、気配さえわからなかった。
私は布団へ横になり、照明を消した。
星も、車も、父の地図も見えない夜だった。




