第五章 昼にある星
雨は、朝までに上がっていた。
宿の窓を開けると、森の葉から水滴が落ちている。空にはまだ雲が多いが、乗鞍岳の斜面が切れ間から見えた。昨夜は存在さえ確かめられなかった山が、最初からそこにいたような顔をしている。
観測記録には、欠測と入力した。
測れなかったことを残すのは必要だ。しかし、何も得られなかったわけではない。冬子さんと雨の中を歩き、父親の話を聞き、彼女の指で髪を拭かれた。それらは研究の欄へ書けないだけで、昨日から失われるわけではない。
私は紺色のウインドブレーカーの袖を一度折り、荷物をまとめた。
七時五十八分、冬子さんからメッセージが届く。
『着いた。急がなくていいよ』
集合は八時だった。
私はすぐに玄関へ下りる。レガシィは宿の向かいにある駐車スペースへ停まっていたが、冬子さんは運転席ではなく車の前に立っていた。ボンネットが開いている。
「おはよう。何かあった?」
「おはよう。少し変な音がして」
近づくと、エンジンは止まっている。
「故障?」
「まだわからない。今朝また、旅の二日目と同じ細い音がした。前より長かった」
初めて聞く話だった。
声が硬い。車のことになると、彼女は軽口を置いて、聞き慣れない音だけに意識を絞るらしい。
「私にわかることはある?」
「ない。私にも」
冬子さんは携帯で、川越の整備工場へ電話をかけた。これまでの経過を伝え、質問されるたび、走行距離や水温計の位置、エアコンの作動まで迷わず答えていく。
「はい。今のところランプは点いてません。ベルトも、見た範囲では切れてないです。触ってはいません」
しばらく聞いたあと、もう一度始動して音を確認することになった。
冬子さんが運転席へ座り、キーを回す。エンジンは一度でかかった。冷えた機械が回り始める音に、細い唸りが重なったように聞こえたが、数秒で消える。メーターの警告灯も、始動後はすべて消灯した。
『長距離なら、近くで一度見てもらうのが安心かな。充電警告灯が点いたり、音が続いたりしたら、すぐ安全な場所へ停めて』
電話越しの声が、私にも聞こえた。
「わかりました。無理はしません」
通話を終え、冬子さんはボンネットを閉じた。
「今日は整備工場へ寄ろう」
「予約の時間は?」
「飛騨天文台は午後一時。余裕はある」
「でも、見てもらえる店がすぐ見つかるとは」
「昨日、私へ言ったでしょう。データより安全優先」
「先生の言葉」
「今は借ります」
冬子さんは困ったように車を見た。
「壊れるのが怖いわけじゃないの。壊れ方がわからないのが嫌で」
「同じでは?」
「直すか、やめるかを決められないから」
最後の言葉だけが、車以外のことを指しているように聞こえた。
乗鞍高原の整備工場は朝から混んでおり、詳しい点検はできなかった。作業員が目視と電圧だけを確認し、現時点で走行に問題はないと言う。ただし、異音が再発した場合や充電警告灯が点いた場合は停車するよう念を押された。
冬子さんは整備記録の入った黄色いファイルを見せ、前回の点検内容も確認してもらった。
「ちゃんと残しているんだね」
工場を出てから言うと、彼女はファイルを助手席の私へ渡した。
「父の分から全部ある。領収書も」
透明なポケットに、整備明細と請求書が年代順に収められている。二〇〇四年の新車一か月点検から始まり、走行距離の数字が少しずつ増えていた。父親の名前で記録されたページが終わり、母親の名前が二枚続く。その後は宮坂冬子。
「十八万一千キロ」
いちばん新しい記録を読んで、私は声にした。
「この旅行で、もう少し増えた」
「お父さまの地図の場所を回った距離が多い?」
「まさか。ほとんどは通勤や買い物。母を病院へ送ったり、学生の頃に深夜のファミリーレストランへ行ったり。会社の納品を手伝ったこともある」
「地図に残らない道」
「そっちのほうが長い。父だって、星を見に行った距離より、私を保育園へ送った距離のほうが長かったかもしれない」
青い丸のある旅だけが、この車の履歴ではない。整備明細に並んだ数字は行き先を教えないが、誰かが必要として動かした距離を残している。
「十八万キロ分、全部を覚えてはいないよね」
「覚えていたら、運転中に前を見られない」
「それでも、走ったことは消えない」
「メーターを交換しなければ」
「今は、そういう例外を聞いてない」
冬子さんが少し笑った。
「名前が変わってるでしょ」
「うん」
「車検証も名義も私なのに、工場で『お父さまのレガシィ』って言われることがある。ずっと見てもらってるから」
「嫌?」
「前はうれしかった。今は、よくわからない」
私はページを閉じた。
「私には、冬子さんの車に見えるよ」
彼女はすぐに答えず、前方の信号を見た。青へ変わり、車が動き出す。
「ありがとう」
運転音に紛れそうな声だった。
国道158号を西へ進み、安房トンネルを抜けると岐阜県へ入った。
長いトンネルの中では、車内の橙色の計器だけが目立つ。冬子さんはハンドルの上へ軽く両手を置き、一定の速度を保っている。私は水温計と警告灯をときどき確認した。
「見張られると、車が緊張しそう」
「異常を見落とさないため」
「さっき工場で大丈夫と言われたでしょ」
「異音が再発しないとは言われていない」
「助手席の人まで心配性になった」
「冬子さんの影響です」
「悪いことを教えたみたい」
トンネルを出ると、山の形が変わった。深い谷の向こうに雲がかかり、道路脇の川が白く泡立っている。昨夜の雨で水量が増えているらしい。
奥飛騨温泉郷の入口を通り、高山市上宝町へ向かう。飛騨天文台は、北アルプスに囲まれた山の中にある。一般の観光施設ではないため、今日の訪問は小野寺先生から先方へ事前に依頼してもらっていた。私の研究そのものを天文台で行うのではなく、観測環境の管理方法を聞き、周辺の測定地点を確認するためだ。
「私まで入っていいの?」
山道へ入る前、冬子さんが尋ねた。
「見学できる範囲は限られるけど、同行者として伝えてある」
「研究室の人に、何て説明したの?」
「現地協力者」
「間違ってはいないけど、大きな肩書きをもらったなあ」
「照明の管理と機材運搬を手伝っている。事実でしょう」
「うん。昨日、一度失敗したことは?」
「報告していない」
「隠蔽?」
「研究結果へ影響していないので、報告事項ではありません」
冬子さんは笑った。
「遥さん、少し私に甘くなってない?」
「基準は変えていない」
「じゃあ、私が慣れたのかな」
答えは出さなかった。
天文台へ続く道は細く、木々の間を何度も折れながら上っていく。対向車が来れば、待避できる場所まで戻らなければならない。冬子さんはカーブの手前で速度を落とし、ミラーのない場所では窓を少し開け、エンジン音へ耳を澄ませた。
「運転、代わらなくていい?」
「この道で初めての人には代われない」
「私は免許を持っている」
「知ってる。私の車も保険に入ってる。でも、今日は駄目」
「いつならいい?」
聞いた瞬間、冬子さんの指がハンドルの上でわずかに動いた。
「そのうち」
「予定は?」
「決めない練習中でしょ」
「それは会話についてだけだと思っていた」
「適用範囲を広げる」
また先送りされた。
私は窓の外を見る。木漏れ日がフロントガラスを走り、彼女の横顔を明るくしては消していく。
運転席へ座らせたくないのは、私の技術を信用していないからだけではない。あの場所を譲ることが、彼女にとって何を意味するのか。まだ聞くべきではない気がした。
天文台では、名取由佳さんという研究員が迎えてくれた。
三十代半ばくらいの女性で、小野寺先生とは共同研究会で顔を合わせるという。私はオンラインで一度話したことがあるが、直接会うのは初めてだった。
「百瀬さん、災難だったね。車、大丈夫?」
挨拶より先に聞かれる。
「レンタカーは工場です。今は宮坂さんの車へ同乗しています」
「宮坂です。突然お邪魔してすみません」
冬子さんが頭を下げる。
「聞いてます。現地協力者さんでしょう。百瀬さん一人だと機材を抱えたまま谷へ落ちそうだから、助かります」
「落ちません」
「去年、雪の中でケーブルへ足を取られた人が何を言ってるの」
冬子さんの視線が私の足元へ下がった。
「怪我は?」
「ありません。転んだだけ」
「聞いてない」
「心配させるほどではないと思った」
「基準、甘いんじゃない?」
先ほどの言葉を返される。名取さんが声を立てて笑った。
「いい人を見つけたね」
「偶然です」
「同行を決めたのは偶然ではありません」
冬子さんが訂正する。
私は彼女を見た。冬子さんは名取さんに向けて言ったはずなのに、なぜか私のほうが言葉を受け取った気がした。
説明を受けながら、公開可能な範囲を見学する。飛騨天文台には、太陽を観測するための大きな設備がある。夜空を見る天文台だと思っていた冬子さんは、ドームレス太陽望遠鏡の説明板の前で足を止めた。
「昼間に星を見るんだね」
「太陽も恒星だから」
「知識では知ってたけど、同じものって感じがしない」
「距離が近すぎるから、見え方も調べ方も違う。でも、星であることは同じ」
冬子さんは道路地図のコピーを出した。飛騨天文台の近くにある青い丸。その横には、父親の字で『昼の星』と書かれている。
「これ、太陽のことだったんだ」
「可能性は高いね」
「父、来たのかな」
日付はない。
名取さんがコピーを覗き込んだ。
「一般公開や市民向けの催しもあるから、参加した可能性はあります。でも、記録が残っているかは難しいな」
「大丈夫です。調べなくて」
「いいの?」
「来たかどうかより、父がここを知っていたことはわかったから」
美ヶ原での言葉を思い出した。実際に行った場所か、行きたかった場所か。二日前の冬子さんは、その区別を気にしていた。
「変わったね」
私が言うと、彼女はコピーを畳む手を止めた。
「何が?」
「美ヶ原では、来たかどうかわからないことを気にしていた」
「二日経ったから」
「二日で?」
「遥さんといると、一日が長いの」
「疲れるという意味?」
「いろいろ起きる、という意味」
「同じでは」
「違う」
名取さんが私たちを見比べ、何か言いかけてやめた。
その表情の意味を尋ねるより先に、次の設備へ案内された。
観測室では、太陽の像がモニターへ映し出されていた。白く均一な円ではない。表面には細かな模様があり、端へ行くほど暗くなる。別の画面には、波長ごとに分けられた光が横長に表示され、その中を黒い線が何本も走っていた。
「欠けているんですか」
冬子さんが画面へ顔を近づける。
「光の一部が吸収されているの」
名取さんが答えた。
「太陽の大気にある元素が、特定の波長の光を吸収する。その暗い線を調べると、そこに何があるかがわかります」
「ない光から、あるものがわかる?」
「そう。見えないものを、見えないまま調べるのも天文学だから」
冬子さんは、黒い線をじっと見ていた。
「遥さんの研究も?」
「私は、見えなくなった星の数そのものより、星を隠している地上の光を測っている。少し違うけど、見えない理由を調べる点は似てる」
「見えない星が、消えたわけじゃないと証明するため?」
「星が存在することは、私が証明しなくてもわかっている」
「そうじゃなくて」
冬子さんは言いかけ、やめた。
名取さんが別の画像を呼び出す。太陽の縁から、炎のようなものが伸びていた。
「これは少し前に観測したプロミネンス。私たちが今ここで見る太陽も、厳密には八分ほど前の姿です。光が届くまで時間がかかるから」
「八分前」
「宇宙では、近いほうだよ」
冬子さんが窓の外へ目を向ける。雲の向こうで、現在の太陽はもう別の姿をしている。けれど地上にいる私たちは、八分前の光で明るくなっていた。
「亡くなった星が、まだ見えていることもありますよね」
彼女が尋ねる。
「可能性としては。ただ、人の寿命で変化を確認できないほど遠い星も多いし、肉眼で見える星が今どうなっているかを一つずつ断定はできない」
「ロマンのない答え」
「不正確なことは言えないから」
「でも、昔の光を今見ているのは本当?」
「本当。太陽なら約八分、ベガなら約二十五年。距離のぶんだけ前の姿を見ている」
「じゃあ、この前見たベガは、私たちより少し年上なんだ」
「今届いている光が出た時期なら、そうなるね」
「遥さんが生まれる前」
何気ない言葉だったが、私は急に、自分たちの年齢を光の距離として考えた。二十五年前に放たれた光が、二十五歳の冬子さんの目へ届いている。彼女が父親と過ごした時間も、父親を失ってからの九年も、その光の旅より短い。
「きれいに説明しすぎた?」
冬子さんが私の顔を覗き込む。
「何が?」
「黙ったから。研究者に素人のたとえを聞かせたかなって」
「違う。考えていただけ」
「何を?」
「まだ言葉になっていない」
「遥さんにも、そういうものがあるんだ」
「たくさんある」
冬子さんが微笑む。
その表情を見て、言葉になっていないものがまた一つ増えた。
名取さんから、観測施設の外灯を必要な範囲だけ下向きにし、観測時には不要な灯りを消すといった運用を聞く。私は質問をし、許可を得た内容だけノートへ記録した。冬子さんも隣でメモを取っている。
「何を書いてるの?」
「現地協力者だから」
「研究に使う?」
「遥さんが忘れたら、教える」
「忘れない」
「じゃあ、私の記念」
彼女のノートには、設備の名前よりも、『太陽は八分前』『黒い線で元素がわかる』といった言葉が大きく書かれていた。その下に、小さく『父の昼の星』とある。
私は見なかったふりをした。
午後三時、天文台を出た。
昼の太陽は雲に隠れたり現れたりを繰り返していた。夜の予報は晴れ。今日は観測できる可能性が高い。
車へ戻ると、冬子さんは始動前にボンネットを開けた。液量を目で確認し、異臭がしないか確かめている。私は助手席で整備工場の位置を検索した。
「高山と神岡に何軒かある。今なら営業時間内」
「音が出なければ、今日はこのまま行く。明日、神岡で一度見てもらう」
「大丈夫?」
「無理はしない。警告灯が点いたら停める。約束する」
「わかった」
エンジンは一度で始動した。朝のような音は聞こえない。メーターにも異常はなかった。
山道を下り始めて二十分ほどで、冬子さんの携帯が鳴った。画面には『母』と表示されている。
「ごめん、出てもらっていい? スピーカーにして」
「私が?」
「運転中だから。切ってもいいけど、続けてかかってくると心配で」
私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あれ? 冬子?』
「運転中なので、同乗している百瀬です。スピーカーにします」
『ああ、すみません。旅行で一緒の方?』
「はい」
冬子さんがダッシュボードのホルダーを指さす。私は携帯をそこへ置いた。
「お母さん、何?」
『ごめんね。買い取りの人、十四日の十七時に決まったから。車検証と整備記録を用意しておいてって』
私の手が、膝の上で止まった。
「わかった。帰ったら出しておく」
『本当に旅行の翌日で大丈夫?』
「夕方なら平気」
『無理しないでね。車も、冬子も』
「うん。今、山道だから切るね」
『気をつけて。百瀬さんにも、よろしくお伝えください』
通話が終わった。
車内には、エンジン音だけが残る。
「車を売るの?」
「そのつもりです」
「聞いていない」
「言ってなかったから」
「なぜ」
「言う必要がなかったので」
私が使いそうな答えだった。
「この旅が最後?」
「たぶん」
「それなのに、私を乗せたの?」
「助手席は空いてたから」
「そういうことではなくて」
「わかってます」
冬子さんの両手が、ハンドルを握り直す。
「でも、遥さんを乗せたことと、売ることは別です」
「私には別に思えない」
「どうして?」
答えられなかった。
私はこの車に四日しか乗っていない。所有者でも家族でもない。売却へ意見を言う権利はない。
それでも、阿智から帰ったあとも車が走っているものだと思っていた。次の観測、次の道路、次の助手席を、知らないうちに想像していたらしい。
「車検に四十万円以上かかります。その先も壊れるかもしれない。燃費もよくない。今なら、少しは値段がつくそうです」
冬子さんは前を向いたまま続けた。
「合理的でしょう」
「そうだね」
「遥さんなら、わかってくれると思った」
合理的であることと、納得できることは同じではない。
私自身がそれを説明できずにいる。元恋人が欲しがっていたのも、こういう時間だったのかもしれない。解決策を出さず、正しさを決めず、ただ一緒に困る時間。
「昨日、お母さまから電話が来たと言っていたね」
「聞こえてた?」
「内容は聞いていない。留守の確認だと」
「嘘ではありません。家のことも聞かれたから」
「でも、隠した」
「まだ決めたくなかったんです。遥さんに話したら、本当に最後になる気がして」
初対面のときにも使わなかった敬語が、言葉の端へ混じっている。
「私は、何も決められないよ」
「知ってます」
「なら」
「知っていても、言えないことはあります」
山道が終わり、視界が開ける。谷の上には青空が見えていた。
私たちの間だけ、雨が残ったように重かった。
道の駅で遅い昼食を取った。
駐車場へ入る前、冬子さんはいつもより長く車の音を聞き、メーターを確認した。異常はない。エンジンを止めたあとも、運転席へ数秒座ったままだった。
「先に入っていて」
「待つよ」
「一人になりたいわけではありません。記録を書くだけ」
「敬語になってる」
「遥さんも、さっきから声が硬いよ」
私は反論せず、助手席で待った。
冬子さんは黄色いファイルを開き、今日の日付と走行距離、点検内容を書き込む。父親の整備記録へ、自分の字を重ねていく。
「売る車にも、書くんだね」
「売るからこそ、次の人に必要でしょう」
「次の人」
「買い取り店のあと、誰が乗るかはわからないけど」
「廃車になる可能性は?」
「あります。年式も距離も、値段がつくほうがおかしいくらいだから」
胸の奥が痛んだ。
「それでも売る?」
「そういう話をするために停まったんじゃないです」
ファイルが閉じられる。
「ごめん」
「遥さんが謝ることじゃない。私が決めることだから」
冬子さんは車を降りた。私は少し遅れて続く。
食堂では、二人とも飛騨牛の入ったカレーを選んだ。向かい合って座っても、話すことが見つからない。テレビから観光地の映像が流れ、隣の席では家族連れが翌日の予定を相談している。
「どうして、今なの?」
半分ほど食べたところで聞いた。
「何が?」
「売ること。この車は二十二年経っている。去年でも来年でもなく、今決めた理由」
冬子さんはスプーンを置いた。
「九月に車検が切れるから。それに、父は四十三で亡くなった。私は二十五。父と同じ年になるまでこの車へ乗ろうとしたら、あと十八年あります」
言葉を区切っても、冬子さんはスプーンへ手を戻さなかった。
「前は、そこまで残せたら父より長く乗ったことになる、そうしなきゃいけないって思ってた。誰に言われたわけでもないのに。そんな約束を一人で作って、一人で払えなくなったから、地図の最後まで行って終わりにしようとしたんです」
「それが、この旅?」
「最初は、そのつもりでした」
「今は違う?」
冬子さんは答えず、水を飲んだ。
私を乗せたことで、何かが変わったのかもしれない。期待した瞬間、彼女は窓の外の車へ目を向ける。
「でも、変わったからといって、乗り続けられるわけじゃない。好きだけでは払えないものがあるから」
「維持費」
「現実的でしょう」
路肩で初めて話したとき、車も研究も、見えない部分へお金がかかると笑った。今は同じ言葉が、二人の間に境界線を引く。
「合理的だと思う。でも、正しいとわかれば何も感じなくなるわけではない。私はたぶん怒っている。でも、冬子さんにか、売るという決定にか、何も聞かなかった自分にか、まだ分けられない」
「遥さんにも、わからないことが増えたね」
「冬子さんと会ってから」
彼女が顔を上げる。
言葉を続ければ、言おうとしていることに名前がつく。私は水のグラスへ手を伸ばし、そこで止めた。
「困る?」
「少し」
冬子さんは笑わなかった。
「私も」
それ以上は話せなかった。
その夜、私たちは上宝町の小さな宿へ泊まった。
夕食後、宿の裏手にある草地を借りて機材を設置する。街灯は遠く、南側の空が広く開けていた。天気予報どおり雲は減り、二十一時には天の川が淡い帯になって見え始める。
冬子さんは赤色灯を持ち、時刻を読み上げた。
「二十一時十二分」
「記録した。次、五分後」
「了解」
会話は測定に必要なことだけだった。
最初の五回は、一平方秒角あたり二十一・二八等から二十一・三三等の間に収まった。数値が大きいほど空は暗い。湿度も美ヶ原より低く、観測条件としては、この旅でいちばん安定している。
二十一時三十七分だけ、値が二十・七四まで落ちた。同じ瞬間、北側の駐車場へ入った車のヘッドライトが草地を横切っている。全天画像の縁にも白い弧が残り、冬子さんのノートには時刻と方向が書かれていた。私は生データを消さず、その一回へ「一時光源あり」と印を付け、主比較から外す。測定器が変化を数字にし、彼女の記録が理由を与えた。
地上の光なら、こうして追える。それなのに、私の注意は何度も冬子さんへ向かった。彼女が少し離れた場所に立つ理由だけは、どの機材にも写らない。
彼女は空を見ている。青い地図のコピーを折り畳み、上着のポケットへしまう。父親が見たかった昼の星を知り、最後の車で夜の星を見ている。
売らないでほしいと思った。
けれど、それは車を残してほしいのか、私の座る場所を残してほしいのか、自分でもわからない。
「冬子さん」
「何?」
「今日は、星が好き?」
彼女は空を見たまま考えた。
「好き。父と見た星じゃないから」
「どういう意味?」
「今日の星は、今日ここにいる私が見てるでしょ」
「光は、ずっと前に出たものだけど」
「そういう話をしてるんじゃない」
「わかってる」
「本当に?」
「半分は」
二人とも、少し笑った。
張りつめていたものが、わずかに緩む。
「遥さんは?」
「何が?」
「今日は、星が好き?」
空を見上げる。
全天カメラのレンズには、私の目より多くの星が写っているだろう。輝度計は、空の暗さを数値に変える。けれど、私が今見ているものは、機材の中にはない。
「好きだと思う」
「思う、なんだ」
「まだ確かめている途中だから」
「旅が終わるまでに、わかるといいね」
「終わったあとでは駄目?」
冬子さんが私を見る。
「終わったら、元に戻るから」
「元とは?」
「私は会社へ行く。遥さんは大学へ戻る。車の助手席には機材も乗っていない。そういう生活」
「会わなくなるという意味?」
「この旅がなかったときと同じになる、という意味です」
言葉が、胸の内側へ硬く当たった。
私は冬子さんが好きなのかもしれない。
美緒と別れてから、誰かをそう思うことはなかった。だから判断の基準がない。冬子さんの手に触れたい。助手席から降りたくない。次の場所でも名前を呼ばれたい。それらを足せば、好きという答えになるのだろうか。
今なら聞けると思った。
冬子さんは、旅の外でも私に会いたいか。
「次の測定、何時?」
彼女が先に尋ねた。
「二十三時」
「それまで車で休む?」
「うん」
「旅が終わるまで、あと二日。体調を崩したら困るから」
あと二日という区切りが、二人の間へ置かれた。
私は機材を確認し、言いかけた言葉を飲み込んだ。
冬子さんが車を売るように、私たちも旅の終わりに互いを手放す。それが最初から決まっているのなら、今ここで名前をつけても、困らせるだけかもしれない。
レガシィへ戻る。冬子さんは運転席、私は助手席。毛布を広げても、今日は手が触れないよう、互いに端を持った。
フロントガラスの向こうには、数え切れない星がある。
昨日まで見えなかったものが見えているのに、見えたからこそ失いたくないものまで増えてしまった。




