第四章 雨の乗鞍
朝、廊下へ出ると、向かいの部屋の前に遥さんが立っていた。
右手に機材ケース、左肩に旅行鞄。私が昨夜貸したウインドブレーカーを着ている。袖口は一度折られていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「集合は七時半です」
腕時計を見る。七時二十七分。
「まだ三分ある」
「冬子さんが先に出る可能性を考えました」
「私の部屋、向かいだよ」
「ノックすればよかったですか」
「そうじゃなくて。そこまで先回りしなくても、置いていかないよ」
言ったあと、遥さんの視線が少し下がった。
「わかっています」
「ならいいけど」
機材ケースを受け取ろうとすると、彼女は首を振る。
「今日は私が持ちます。昨日は手伝ってもらったので」
「契約では、重いものは二人で」
「これは六・二キロです」
「数字を言えば軽くなる?」
「十一・八キロのケースよりは」
「比べる相手が重すぎる」
結局、取っ手の片側を持った。廊下の幅では二人並べず、前後になって階段を下りる。遥さんが上、私が下。途中で彼女の鞄が背中に当たり、二人とも動けなくなった。
「一度戻る?」
「このまま行けます」
「階段でその判断は危ない」
「冬子さんが手を離さなければ」
「急に責任が重いな」
笑うと、遥さんの足元からも小さな息が漏れた。
昨日、毛布の下で手が触れたことには、どちらも触れなかった。触れないと決めたわけではない。ただ、言葉にすれば意図が生まれる。偶然だった時間を、どちらかの気持ちへ変えてしまうのが怖かった。
私の車の荷室に機材を収める。遥さんは固定ベルトを確認したあと、ウインドブレーカーのポケットから赤いライトを出した。
「今日は忘れません」
「もう車に置いておけば?」
「私物です」
「じゃあ、私が同じものを買う。室内灯を消し忘れた罰として」
「罰は必要ありません。昨日、解決しました」
「遥さんの中では?」
「冬子さんの中では、まだですか」
まっすぐ聞かれ、私は考えた。
強い声で叱られたことより、そのあと真面目に謝られたことのほうが残っている。傷つけた事実を小さくせず、自分の意図だけで逃げなかった。
「もう解決してる」
「なら、罰も不要です」
「わかった。欲しくなったら自分用に買う」
「それなら止めません」
話が終わると、遥さんは助手席へ乗った。
私が運転席へ回るまでの数秒に、胸が妙に落ち着いた。昨日決めた条件が、もう一つ実際の約束になったからだろう。
山を下り、松本市街へ入ったのは十時前だった。
高原では雲の切れ間が見えていたのに、平地へ近づくにつれて空が暗くなる。カーラジオは午後から大雨になると繰り返していた。
最初に家電量販店へ寄り、遥さんが予備バッテリーと防水の延長コードを買う。次にアウトドア用品店へ回り、私は薄手の上着を探した。
「本当に買うんですか」
ハンガーをめくっていると、遥さんが横に立った。
「予備を貸したので」
「返します」
「似合ってるからいい」
「昨日も言っていましたが、私は服の似合う、似合わないがよくわかりません」
「鏡、見た?」
「着られることは確認しました」
「機能しか見てない」
遥さんが試着室横の姿見へ向かう。私もついていくと、鏡の中に二人が並んだ。
紺色の上着は、彼女の白いシャツと黒いパンツに馴染んでいる。袖だけが少し長い。私はその袖口をもう一度折り、左右の幅を揃えた。
「これでいい」
顔を上げると、鏡越しに目が合った。
遥さんは動かなかった。私の指も、彼女の手首に触れたまま止まる。
「どうしたの?」
「近かったので」
言われて、半歩下がった。
「ごめんなさい」
「嫌だとは言っていません」
「そういう言い方、困るな」
「なぜ?」
「わからないなら、そのままでいて」
私は急いで別の棚へ移った。背中に視線を感じたが、振り返らない。
新しい上着は、明るい灰色を選んだ。父なら汚れが目立つと言っただろう。だから選んだわけではない。ただ、濃紺の車内にはそのくらい明るい色があってもいいと思った。
同じ建物の書店にも寄った。旅行用品の棚にあった二〇二六年版の道路地図を手に取ると、遥さんが私と古い地図を見比べる。
「買い替えるんですか」
「父の地図は、道を調べるには古いから。新しい道は新しい地図で見る」
「使い分ける?」
「そのつもり」
そう答えて買ったものの、透明な包装は外さず、後部座席のポケットへ差し込んだ。どちらの地図を何のために使うのか、まだ自分でも決め切れていなかった。
書店の会計を終えたところで、母から電話がかかってきた。
「ごめん、少し外すね」
遥さんへ断り、店の軒下へ出る。雨がぽつぽつと舗装を濡らし始めていた。
「もしもし」
『旅行中にごめん。今、大丈夫?』
「うん。どうしたの」
『車の見積もり。前に話した買い取りの人、十四日なら来られるって。帰った次の日だけど、平気?』
ガラス越しに、遥さんが電池売り場の案内を見ている。こちらの声は聞こえないはずだった。
「大丈夫。夕方にしてもらって」
『本当に売るのね』
「そのために行ってるんでしょう」
『冬子が決めたなら、反対しないけど』
「お母さんは、前から売ったほうがいいって言ってたじゃない」
『維持が大変なら、って言ったの。お父さんの車だから手放すとか、手放さないとか、そういう決め方をしなくていいのよ』
雨粒が増え、駐車場の車の屋根を細かく叩く。
「わかってる」
『わかってない声に聞こえる』
「旅行中だから、帰ってから話そう」
『そうね。気をつけて』
「うん」
通話を切り、しばらく画面を見た。
次の車検を通すには四十万円以上かかる。今後、別の部品が壊れない保証もない。燃費も、安全装備も、新しい車にはかなわない。売る理由はいくらでも並べられる。
それでも、査定の日を決めるだけで喉の奥が狭くなる。
「冬子さん」
ガラス戸が開き、遥さんが顔を出した。
「雨、強くなります。車へ戻りませんか」
「今行く」
「何かありました?」
「母から。留守の確認」
嘘ではない。ただ、本当の用件を省いただけだ。
遥さんは一度私を見たが、問い直さなかった。
昼食は、遥さんが約束どおり払った。
松本市内の洋食店で、私はオムライス、遥さんはまた蕎麦を選びかけたが、店になかったのでハンバーグにした。
「昨日の山賊焼きと、少し重なります」
メニューを閉じながら、真剣な顔で言う。
「肉という分類なら」
「二日続けて胃に重いものです」
「若いんだから大丈夫」
「二歳しか違わない」
「私は胃が丈夫なの」
料理が来ると、遥さんは付け合わせの野菜から食べ始めた。規則でもあるのかと思ったが、最後にはソースまでパンで拭っていた。
「おいしかった?」
「はい。昨日より具体的な感想が必要ですか」
「聞いただけ」
「肉がやわらかく、ソースの酸味も」
「もう大丈夫。ごめんなさい」
私が止めると、遥さんは不服そうに水を飲んだ。
「冬子さんは、自分から聞いたことを途中で止めますね」
「相手が思ったより真面目に答えるから」
「質問した以上、答えを聞くべきでは」
「その理屈、覚えておく」
「何に使うんですか」
「今度、聞きにくいことを聞くとき」
遥さんの手が、グラスの上で止まる。
「今、聞きますか」
「まだいい」
「また先送りですね」
「冷却時間」
「何も熱くなっていません」
「これからなるかもしれない」
何を聞くつもりか、自分でも決めていなかった。昨日の車内で「人はやめたことがある」と答えたとき、遥さんは追及しなかった。だから私も、彼女が恋人の話を出した理由を聞かずにいる。
聞けば、互いの境界線がまた一つ見える。
見えた境界を、越えたくなるかもしれない。
国道158号を西へ向かう頃には、本降りになっていた。
松本の市街地を抜けると、道は梓川に沿って山の中へ入る。トンネルを出るたび雨の濃さが変わり、ワイパーの速度を一段上げた。
助手席の遥さんは、ナビと道路標識を見比べている。昨日までより、座り方が少し深い。背もたれへ身体を預け、借りた上着の袖から指先だけを出していた。
「眠ければ寝ていいよ」
「起きています」
「寝てても、ナビはしゃべる」
「助手席の仕事を放棄できません」
「契約には入れてない」
「昨日、向いていると言われたので」
褒めたことを覚えているらしい。
「じゃあ、眠くなるまで頼むね」
「冬子さんは、眠くありませんか」
「大丈夫。二時間ごとに休む」
「それもお父さまの習慣?」
「そう。父は一時間半くらいで煙草を吸いたくなって、休憩してた」
「車内では?」
「母に禁止されてたから外だけ。病気が見つかる三年前にやめた」
「肺の病気だったんですか」
「膵臓癌」
言葉が、ワイパーの往復の間へ落ちた。
「見つかったときには、手術できなかった。十か月くらい」
「そうだったんですね」
「今でも、煙草をやめたのにって思うの。やめたから病気にならないわけじゃないのに」
「何か一つ、理由が欲しかった?」
「たぶん。理由があれば、そこだけ責められるから」
「誰を?」
「父でも、煙草でも。運が悪かった、よりは相手がいるでしょ」
遥さんは何も言わず、フロントガラスの向こうを見ていた。
奈川渡ダムの手前で休憩する。雨は弱まらず、私たちは車から降りなかった。眼下に見えるはずの水面も、白い雨の向こうに隠れている。
エンジンを止めると、屋根を打つ雨音が急に大きくなった。遥さんはダッシュボードの時計と自分の腕時計を見比べる。
「この時計、三分遅れています」
「知ってる」
「直さないんですか」
「父が三分進めようとして、反対に遅らせたの。それからずっと」
設定を終えた父は表示を見て、『三分進めたつもりだったんだけどな』と首を傾げた。母が『車に乗っていなくても方向を間違えるのね』と言うと、『三分なら引き返せる』と笑った。その場では翌日に直す話になり、翌日には三人とも忘れた。思い出したときには、遅れた表示ごと父の失敗になっていた。
「設定し直せるでしょう」
「直すと、父の失敗を一つ消すみたいで」
「不便では?」
「車の時計は三分足して見ればいいだけ」
「毎回計算するほうを選ぶんだ」
遥さんは呆れたように言ったが、時計へもう一度視線を戻した。
父の痕跡と呼べるものは、車内のあちこちにある。左後ろの擦り傷、ダッシュボードの傷、遅れた時計。後席の布には、幼い私が使ったチャイルドシートの脚の跡も残っていた。
直せなかったのではない。直さないことを選んできた。
「冬子さん」
「何?」
「その地図、見てもいい?」
敬語を外した声は、雨音の中でも聞き取りやすい。
私はドアポケットから道路地図を出し、遥さんへ渡した。奈川渡ダムのあたりにも青い丸がある。ページの間から、一枚の写真が滑り落ちた。
十五歳の私と両親が、レガシィの前に並んでいる。セルフタイマーで撮ったらしく、父の身体だけが少し斜めだ。母は笑っているが、私はイヤホンを首へ掛け、面倒そうな顔で横を向いていた。
「これが、前に来たとき?」
「そう。たぶん、この近く」
「冬子さん、髪が長い」
「そこ?」
「今と印象が違うから」
「高校を卒業するときに切った」
「似合ってる」
何気なく言われ、返事を忘れた。
「今の長さが、という意味です」
「わかってる」
「なら、どうして黙るの」
「急だったから」
「私と同じことを言うんですね」
一昨日、初めて名前で呼んだときの彼女の返事だ。
「遥さんは、写真を撮らないの?」
「記録用なら撮ります」
「自分の写真」
「ほとんどありません」
「旅行なのに?」
「調査です」
「今のところは、でしょ」
遥さんが小さく息を吐く。笑ったのか、諦めたのか。
「じゃあ、一枚撮る?」
私が聞くと、彼女は雨に濡れた窓を見た。
「ここで?」
「外へ出なくても、車内で」
「何の記録ですか」
「同行を決めてから、二日目の記録」
「中途半端ですね」
「次にいつ撮りたくなるかわからないから」
携帯をダッシュボードへ立て、タイマーを設定した。二人が画面へ入るよう角度を調整すると、肩を寄せなければならない。
「もう少しこっち」
「近くありませんか」
「入らないから」
遥さんの肩が私の腕に触れる。画面の中で、彼女だけがカメラを見て、私は彼女の横顔を見ていた。シャッター音が鳴る。
「失敗した」
「撮り直しますか」
写真を確認する。私は驚いた顔をしていて、遥さんは少しだけ笑っていた。
「このままでいい」
「冬子さん、目線が違います」
「欠測の記録」
「使い方が違う」
「撮り直さなかった理由を残すの」
写真を保存し、父の古い一枚を地図へ戻す。
父と撮った最後の旅行写真のそばに、遥さんと撮った最初の写真が携帯の中へ加わった。その意味を考える前に、私は画面を伏せた。
「昨日の質問、今してもいいですか」
遥さんが言った。
「私が聞く側だったんだけど」
「では、先にどうぞ」
逃げ道を塞がれた。
「遥さん、恋人いたことある?」
「あります」
予想していたのに、胸の奥が少し沈んだ。
「今は?」
「いません。大学四年のときに別れました」
「女性?」
「はい」
それ以上でも、それ以下でもない声だった。
「冬子さんは?」
「私も。大学のとき、一人だけ」
「『人はやめたことがある』と言っていた人ですか」
「よく覚えてるね」
「昨日のことなので」
「半年くらいで振られた。私より車のほうが大事なんでしょ、って」
「そうだったんですか」
「否定できなかった。約束してた日に車の調子が悪くなって、整備工場へ行ったの。別の日にも似たことがあって」
「故障したまま出かけるのは危険です」
「遥さんは、そう言うと思った」
「ただ、相手が傷ついたこととは別です」
こちらの逃げ道を作ったあと、きちんと塞ぎ直す。
「遥さんは、なぜ別れたの?」
「似ています。私といると、予定表の中へ入れられたように感じると言われました」
「どういう意味?」
「会う日も、行く場所も、帰る時間も先に決めていました。相手が悩みを話したときは、解決策を考えた。彼女は、一緒に困ってほしかったそうです」
「一緒に困る」
「私には、よくわかりませんでした。困っているなら解決したほうがいいと思って」
「今は?」
「少しはわかります。たぶん」
「何があったの?」
遥さんが私を見る。
「三日前、路肩で冬子さんが二時間待ったので」
「あれは、解決にはならなかったね」
「はい。でも、一人で待つより楽でした」
胸の奥へ沈んだものが、別の形で浮かんできた。
雨の中、ワイパーが一度往復する。遥さんの横顔が、濡れたガラス越しの光に照らされた。
「名前で呼ぶのも慣れたし、遥さんも敬語、少しやめない?」
口から出てから、自分でも唐突だと思った。
「少し、とは?」
「急に全部は難しそうだから。できるところだけ」
「規則が曖昧です」
「会話に規則を作らない練習」
遥さんは考えている。こういうとき、本当に頭の中で条件を整理している顔になる。
「わかった」
短い言葉が、いつもより近く聞こえた。
「今の、練習?」
「そう。まだ慣れないけど」
「十分。遥さん」
「名前に『さん』は残すんですね」
「そこは、今のところ」
「便利に使っています」
二人で笑った。
大雨は変わらないのに、車内の空気だけが少し軽くなる。
乗鞍高原へ着いたのは、午後四時半だった。
標高が上がるにつれ気温は下がり、雨粒が細かくなる。森の中に点在する宿や店の看板が、ワイパーの向こうを流れていった。
遥さんの宿は観光センター近く、私の宿はそこから車で十分ほど離れている。先に彼女を降ろすつもりだったが、今夜の測定場所を確認したいというので、一の瀬方面へ回った。
「この雨では、無理じゃない?」
「現地の状況だけ見ます」
「欠測の記録?」
「そう」
敬語を外した声は、まだ少し硬い。
駐車場へ着くと、雨は横殴りになった。遥さんはレインウェアを着込み、機材を持たずに外へ出る。私も傘を差して追ったが、風に煽られて役に立たない。
「車で待っていて!」
雨音に負けないよう叫ぶ。
「すぐ戻るから」
「一人で転んだら困る!」
「危ないところまでは行かない」
言い争っている間にも、二人とも濡れていく。
「じゃあ一緒に行く」
私は傘を畳み、遥さんの横へ並んだ。
「なぜ」
「一緒に困る練習」
彼女は一瞬、呆れた顔をした。そのあと、雨の中で笑った。
「風邪をひいても、解決しないよ」
「戻ってから考える」
遊歩道の入口まで進み、周辺の街灯と樹木の位置を確かめる。地面には水が流れ、池のようになっていた。夜までに止む可能性は低い。
遥さんは携帯で数枚撮影し、時刻を記録した。
「終わり。戻ろう」
「了解」
走って車へ戻る。ドアを閉めた途端、二人の荒い息と雨音だけになった。
遥さんの髪から水が滴り、頬へ張りついている。私は後部座席のタオルを取り、頭へかぶせた。
「拭いて」
「冬子さんも」
「私は短いから平気」
「平気な人は、そんなに肩をすくめない」
「見てたの?」
「目の前なので」
自分の髪を拭くようにタオルを動かし、途中で手が止まった。
遥さんが、されるまま座っている。
「ごめん。自分でできるよね」
「できます」
「じゃあ」
「でも、続けてもらっても構わない」
昨日と同じ、困る言い方だった。
「そういうの、誰にでも言う?」
「何を?」
「嫌じゃないならいい、みたいなこと」
「誰にでもは言いません。嫌な人には、やめてくださいと言います」
「それなら、いいけど」
よくない。何がよくないのか、言葉にはしたくなかった。
私は髪の水気だけを軽く取り、タオルを渡した。
彼女の頭から手を離したあとも、指に濡れた髪の感触が残っていた。
観測は中止になった。
遥さんは宿へ連絡したあと、私の泊まるロッジの食堂で夕食を取ることにした。彼女の宿は素泊まりで、雨の中を移動し直すより安全だった。
食堂の窓を、大粒の雨が叩いている。夕食後も弱まる気配がなく、私たちは共有ラウンジのストーブ近くへ座った。八月なのに火が入っており、濡れた靴下から湿った匂いがする。
ロッジの主人が温めた牛乳を二つ出してくれた。遥さんは砂糖を入れず、私は角砂糖を二個落とした。
「甘すぎない?」
「胡桃だれよりは」
「あれはおいしかった」
「今、自分から言ったね」
「学習したので」
遥さんは両手でカップを包み、窓の外を見た。
「冬子さんは、ここへ来たことがある?」
「一度だけ。父と母と、私で」
「地図の印は、そのとき?」
「たぶん。私が十五歳の夏」
父が亡くなる一年ほど前だ。
あの頃の私は、父と一緒に出かけることを子どもっぽいと思っていた。母に言われて仕方なく後部座席へ乗り、イヤホンで音楽を聴き、話しかけられても短くしか答えなかった。
「ペルセウス座流星群を見るって来たの。でも、三日間ずっと曇り。最終日は今夜みたいな雨だった」
「残念だったね」
「父は、また来ればいいって。私が免許を取ったら、帰りは運転させてやるって言った」
「それで、地図の最後が阿智?」
「乗鞍よりもっと暗い場所を探したみたい。病気が見つかって、行けなかったけど」
カップの中で、溶け残った砂糖がわずかに揺れている。
「最後の旅行だと知っていたら、イヤホンを外したのに」
言うつもりのなかった言葉だった。
遥さんは、すぐには慰めなかった。火のはぜる音を一度聞いてから、静かに口を開く。
「知らなかったんだから、外せないよ」
「でも」
「十五歳の冬子さんは、そのあとのことを知らない。今の冬子さんが責めるのは、ずるいと思う」
「ずるい?」
「答えを知ってから問題を解くようなものだから」
「たとえが研究者だね」
「ほかの言い方を知らない」
遥さんはカップを置いた。
「私も、別れたあとなら何を言えばよかったかわかる。美緒が話しているとき、解決策を出さずに聞けばよかった。帰る時間を決める前に、もう少しいたいか聞けばよかった。でも、そのときの私は知らなかった」
「美緒さんっていうんだ」
「元恋人」
「まだ好き?」
遥さんは少し考えた。
「大切だった。でも、戻りたいとは思わない」
「どうして?」
「別れたあとにわかったことを、彼女で試すのは違うと思うから」
冷たいようで、誠実な答えだった。
「じゃあ、次の人にはできる?」
「次の人が、同じことを望むとは限らない」
「本当に慎重」
「冬子さんは?」
「何が?」
「次の人に、車より大事だと言える?」
温めた牛乳を飲んだのに、喉が冷えた。
「車と人を比べることが、もう間違ってると思う」
「答えになっていない」
「質問へ全部答えを求めるんだね」
「冬子さんが覚えておくと言ったので」
昼の言葉を返される。
「今はいない。比べる人」
「そう」
遥さんはそれ以上聞かなかった。
その短い返事が、安心にも落胆にも聞こえる。どちらなのか確かめたくなり、できなかった。
雨は夜十時を過ぎても続いた。私はレガシィで遥さんを彼女の宿まで送る。わずか十分の道なのに、暗さと水しぶきで遠く感じた。
玄関前へ着き、遥さんがシートベルトを外す。
「今日は、ありがとう」
「何に?」
「一緒に濡れたこと」
「役には立たなかったけど」
「一人より楽だった」
路肩で私がしたことと、同じ言葉だった。
「おやすみ、冬子さん」
「おやすみ、遥さん」
ドアが開く。遥さんは上着のフードをかぶり、雨の中へ走った。軒下へ入ると振り返り、こちらへ片手を上げる。
私も手を上げてから、車を出した。
宿へ戻る道で、助手席が空いていることが妙に気になった。
父がいなくなってから、ずっと空いていた席だ。ときどき母や友人を乗せても、誰の場所だと思ったこともない。遥さんが座ったのは三日だけ。それなのに、赤いライトも、ノートも、無糖のコーヒーもない車内は、何かを降ろし忘れたように見える。
気づいたら、やめられなくなっている。
朝、遥さんにそう話した。好きなものをどう決めるのかと聞かれて。
私はハンドルを握り直した。
ロッジの駐車場へ戻り、いつものように車の前を一周した。タイヤも、車体の下も異常はない。エンジンを止めたあとの金属が、冷えながら小さな音を立てている。
助手席に、遥さんの髪が一本落ちていた。
摘まんで外へ捨てようとし、指が止まる。取っておく理由はないし、捨てることへ意味を持たせるのもおかしい。私は結局、窓を少し開け、風へ放した。
部屋へ入ると、携帯にメッセージが届いた。
『今日はありがとう。濡れた上着は、部屋で乾かしています』
業務連絡のような文章だった。
『風邪ひかないでね』と入力し、さっき同じことを口にしたばかりだと気づいて消す。『今日はありがとう』では、遥さんの文をそのまま返すだけになる。迷った末に、『ちゃんと髪を乾かしてから寝てね』と送った。
すぐ既読がつく。
『冬子さんも。おやすみ』
たった二行を、私は三度読み返した。
紙の地図には父の字しか残っていない。けれど携帯には、数分前まで隣にいた人の言葉が届く。返事を待てる相手がいることを、ずいぶん長く忘れていた。
まだ三日だ。旅はあと四日で終わる。終わるものなら、深く考えなくてもいい。元の生活へ戻れば、助手席はまた空席になる。
そう言い聞かせた瞬間、自分が何を恐れているのか、はっきりわかってしまった。
私は、遥さんを好きになり始めている。
雨は強くなるばかりだった。




