第三章 霧の測定値
冬子さんは、八時二十九分に来た。
ホテルの玄関前で待っていた私は、濃紺のレガシィが角を曲がるのを見て腕時計を確かめた。遅れていないのに確認したのは、彼女の時間感覚を知りたかったからかもしれない。
車は私の前へ静かに停まり、助手席の窓が下がる。
「おはよう。五分待たせる機会を失った」
「まだ一分あります」
「八時半集合でしょ」
「そうでした」
後部ドアを開けると、昨夜車内へ残した機材は元の位置にあった。固定ベルトも緩んでいない。私が旅行鞄を載せているあいだ、冬子さんは助手席にあった赤色灯を差し出した。
「忘れ物」
「すみません。気づきませんでした」
「研究機材じゃないの?」
「市販品です。なくても予備があります」
「そう言われると、急に大事にされてない感じがする」
「物に感情はありません」
「うちの車の前で、それを言わないで」
昨日より会話の速度が速い。
車へ乗り込むと、カップホルダーに温かい缶コーヒーが一本置かれていた。
「これは?」
「昨日のお返しのお返し。無糖でよかったよね」
「お返しを続けると、終わらなくなります」
「困ったね」
「今日、私が何も返さなければ終わります」
「そういうところは潔いんだ」
缶には手書きの付箋が貼ってあり、『熱いので注意』と書かれている。私は付箋を剥がし、手帳の後ろへ挟んだ。
「捨てないの?」
「粘着面がほかの物につくので、一時的に保管しただけです」
「はいはい」
冬子さんが笑い、車を発進させる。
私は缶を両手で持った。まだ開けてもいないのに、掌から胸のあたりまで温まった気がした。
今日の目的地は美ヶ原高原。午前中に佐久を出て、国道142号を西へ向かう。午後は高原内の測定点を確認し、日没後、二時間おきに三回測定する予定だった。
「行程表、少し変えました」
膝の上でファイルを開く。
「もう?」
「昨夜、研究室から連絡がありました。美ヶ原の麓でも比較用のデータが必要になったので、途中で一か所寄ります」
「どのくらい?」
「設置と測定で四十分。移動を含めて一時間見てください」
「わかった」
「地図の場所へ寄る時間は確保します」
「父の印は逃げないから大丈夫」
「ですが、条件に入っています」
「契約を守る人だなあ」
「守れない条件なら、最初から合意しません」
冬子さんは前を見たまま、口元を緩めた。
「それ、恋人に言ったら安心されそうだね」
「なぜ恋人が出てくるんですか」
「たとえば、の話」
「契約と恋愛は違います」
「どこが?」
「恋愛は、条件をすべて事前に決められません」
「経験者だ」
「冬子さんもでしょう」
「さあ」
問い返す前に、ナビが右折を案内した。
冬子さんはウインカーを出し、会話ごと曲がるようにハンドルを切った。
国道142号へ入ると、道は緩やかな上りになった。山と畑の間を進み、町並みが途切れては、また現れる。窓を少し開けると、草の匂いを含んだ風が入ってきた。
オーディオから、昨日と同じ女性歌手の曲が流れている。
「このCD、お父さまのですか」
「うん。ほかのにする?」
「いいえ。昨日から同じものなので、気になっただけです」
「父は好きなCDをずっと入れっぱなしにする人だったの。私も、その癖だけ残った」
「曲もお好きなんですか」
「嫌いじゃない。でも、自分で選んだのか、車で繰り返し聞いたから好きになったのか、わからなくて」
「好きになった理由は、重要ですか」
「遥さんの研究には、ならなそうだね」
「そうではなくて。今好きなら、それでいいのでは」
「昨日、自分が星を好きかわからないって言ってた人が言う?」
正面から返され、缶コーヒーのプルタブへ指をかけたまま止まった。
「だから考えています」
「研究みたいに?」
「それ以外の方法を知りません」
プルタブを開ける。小さな音のあと、コーヒーの香りが広がった。
「冬子さんは、好きなものをどうやって決めるんですか」
「決めたことはない。気づいたら、やめられなくなってる」
「車も?」
「車も」
「人も?」
今度は冬子さんの返事が遅れた。
「人は、やめたことがある」
声に笑いはなかった。
私は窓の外へ目を移した。これ以上聞けば、彼女が避けた場所へ踏み込む。出会って二日も経っていない私には、その権利がない。
「コーヒー、熱くありませんでした」
「話を変えるのが下手だね」
「付箋ほどではなかった、という報告です」
「冷めたのかな」
「ちょうどよかったです」
「それならよかった」
車内へ、曲の間奏が流れる。互いに黙っても、昨日ほど気まずくなかった。
和田宿近くの小さな駐車場で停車し、最初の比較測定を行った。標高、気温、湿度、周辺光源の位置を記録する。日中なので夜空輝度は測れないが、街灯の形式と設置間隔、観測点からの遮蔽物を確認し、日没後に戻る必要があるか判断する。
冬子さんは邪魔をしない距離に立ち、道路地図を開いていた。
「この近くにも印がある」
呼ばれて覗くと、青い線の脇に『峠。冬子は酔う』と書かれている。
「何歳の頃ですか」
「たぶん小学生。父が近道だと言って、曲がる道へ入るたびに酔ってた」
「今日も酔いますか」
「運転していると平気」
「代わりましょうか」
「遥さん、一昨日タイヤを壊したばかりだよね」
「運転技術が原因と決まったわけではありません」
「私の車で検証しないで」
断られるとは思っていた。私は周辺写真を撮り、車へ戻る。
「運転者限定なし、二十一歳以上補償の保険には入ってる。でも、今日は私が運転する」
「保険の問題ではない?」
「父以外に運転させたことが、ほとんどないので」
「今は冬子さんの車でしょう」
昨夜、彼女が自分でそう言っていた。
冬子さんは地図を閉じ、助手席の足元へ置く。
「そうなんだけどね」
その返事を、私は覚えておくことにした。
美ヶ原高原へ近づくにつれ、道の両側から白樺が迫ってきた。カーブを抜けるたび視界が開き、その向こうにまた山が重なる。空は晴れているのに、稜線の上では雲が速く流れていた。
正午過ぎ、道の駅で昼食を取る。冬子さんは山賊焼き定食、私は蕎麦を選んだ。
「昨日も蕎麦だったよ」
食券を買ったあとで言われる。
「問題ありますか」
「ない。好きなのかなと思って」
「短時間で食べられて、胃に重くないので」
「理由から入るんだね」
「おいしいとも思っています」
「先にそっちを言えばいいのに」
窓際の席からは、駐車場のレガシィが見えた。新しいSUVやミニバンに囲まれると、車高の低い濃紺の車体は一世代前の形だとわかる。直線と曲線の境目が控えめで、目立とうとしていない。
「冬子さんは、なぜステーションワゴンが減ったと思いますか」
「急にどうしたの?」
「周りに同じ形の車が少ないので」
「背が高い車のほうが、広く感じるからじゃない? 乗り降りもしやすいし」
「では、次も同じ形を選びます?」
冬子さんの箸が止まった。
「次の車?」
「今の車を乗り換えるときです」
「考えてない」
「まだ乗れるから?」
「まだ、乗っているから」
微妙な違いだった。
私は質問を重ねず、蕎麦をすすった。昨夜から、父親や車の話には見えない境界線がある。その位置を知ろうとして、かえって何度も踏みかけている。
「遥さんは、次の研究をもう考えてるの?」
「修士論文のあとは、という意味ですか」
「今の研究が終わったあと」
「博士課程へ進むか、民間企業へ就職するかは決めていません」
「決めてないこともあるんだ」
「たくさんあります」
「意外」
「決まっていることだけ話すから、そう見えるのでは」
冬子さんは山賊焼きを切り分けながら、納得したようにうなずいた。
「じゃあ、車のことを聞いたのは、自分の次を考えたくなったから?」
「そこまでは」
「今のところ?」
「その言い方を使えば、何でも先送りできますね」
「便利でしょ」
彼女は一切れを私の皿へ置いた。
「頼んでいません」
「蕎麦だけじゃ、夜まで持たないよ」
「山賊焼きは胃に重いです」
「半分じゃなくて一切れ。受け取ったものへ値札をつけない練習」
返そうとしたが、箸でつまんだものを相手の皿へ戻すのは行儀が悪い。私は食べることにした。
「どう?」
「おいしいです」
「報告書」
「一切れで、それ以上の感想を求めないでください」
冬子さんが笑う。
最初の日より、その笑い方を近く感じるようになっていた。
午後、高原の駐車場へ車を置き、歩いて美しの塔まで向かった。
標高二千メートル近い台地には、低い草原が広がっている。放牧された牛が遠くで草を食み、遊歩道の両側を柵が区切っていた。風が絶えず吹き、雲の影が地面を渡っていく。
「寒くない?」
冬子さんが聞く。
「大丈夫です」
「腕、鳥肌が立ってるけど」
「生理的反応です」
「寒いってことだよね」
彼女は背負っていたリュックから薄手のウインドブレーカーを出した。
「着て」
「冬子さんのでは」
「私は着てる」
「予備まで?」
「山の上を甘く見た人へ貸すため」
「最初から私が借りると予想していたんですか」
「一昨日、半袖で路肩に立っていたので」
反論できず、借りる。袖が少し長く、手の甲まで隠れた。洗剤と、かすかに車内と同じ匂いがする。
美しの塔の中にある鐘を、子どもが鳴らしていた。澄んだ音が風に乗り、草原へ広がる。冬子さんは塔を見上げ、道路地図のコピーを確認した。
「父の印、ここ」
「何と書いてありますか」
「『霧の鐘』。そのままだね」
「霧が出たときに位置を知らせるための鐘だそうです」
「知ってるの?」
「さっき案内板で読みました」
「天文以外も読むんだ」
「文字があれば読みます」
冬子さんは塔へ近づき、子どもたちが離れるのを待ってから鐘を鳴らした。
思ったより大きな音だった。金属の響きが身体の中を通り、遠ざかっていく。
「父も鳴らしたのかな」
「地図に書くくらいですから」
「写真はないの。ここへ来たって話も聞いたことがない」
「一人で来たのかもしれません」
「それとも、来たかっただけかも」
青い丸には、日付がなかった。
父親が実際に訪れた場所と、訪れようとした場所。その区別がつかないことを、冬子さんは気にしているらしい。
「どちらでも、ここを選んだことは同じです」
「選んだだけで?」
「行かなかった場所も、その人の一部だと思います」
「研究者が、測れないことを言う」
「仮説です」
「便利な言葉を持ってるなあ」
冬子さんはもう一度鐘を見上げた。
その横顔を写真に収めたいと思い、私はカメラへ手を伸ばしかけた。しかし、研究用のカメラで撮るのは違う気がする。携帯を出す前に、彼女はこちらを向いた。
「戻りましょうか。雲が増えてきた」
私は何も撮らず、うなずいた。
日没後の測定は、最初からうまくいかなかった。
高原の端にある許可された観測場所へ機材を設置した時点で、空の半分を霧が覆っていた。湿度は九十二パーセント。風向きも安定しない。雲が街明かりを反射する影響を記録するには意味があるが、暗天時の基準値としては使いにくい。
私は三脚の水平を合わせ、全天カメラを固定する。冬子さんには車内で待ってもらい、外へ出る必要があるときは赤色灯を使うよう頼んだ。
第一回の測定を始めて十分ほど経った頃、背後が白く明るくなった。
レガシィの運転席側のドアが開き、室内灯が点いたのだ。冬子さんはすぐに気づいて閉めたが、全天カメラの一枚には明かりが入った。
「冬子さん!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「ごめんなさい。携帯を取ろうとして」
「照明は点けないでくださいと言いました」
「消したつもりだった。荷室だけじゃなく、前も連動してたみたいで」
「設定を確認してからにしてください。今のデータは使えません」
「本当にごめんなさい」
「謝っても、測定時間は戻りません」
言った瞬間、霧より冷たい沈黙が降りた。
冬子さんは開けかけたドアを静かに閉じた。窓越しの顔は暗く、見えない。
私はカメラを確認する。影響を受けたのは一枚だけで、前後のデータは残っている。再測定もできる。致命的な失敗ではなかった。
それでも、研究室から届いた追加依頼、崩れた移動計画、湿度の上がり続ける空が、たった一つの明かりへまとめて押し寄せた。
私は測定を止め、車へ戻った。
助手席のドアを開けても、室内灯は点かない。冬子さんが手動で切り替えたらしい。
「冬子さん」
「次は開けない。必要なもの、先に全部出しておく」
「そうではなくて」
「機材、壊してないよね」
「はい」
「データは?」
「一枚だけ除外します。再測定できます」
「じゃあ、『使えない』は一枚だけ?」
「そうです」
冬子さんは前を向いたまま、ハンドルの下へ視線を落とした。
「それ、先に言ってほしかった」
「すみません」
「私が悪いのはわかってる。言われたのに確認しなかった。でも、遥さんの研究を全部駄目にしたみたいに言われると、怖い」
「そこまでの意味では」
「言葉って、意味を説明する前に届くんだよ」
返す言葉がなかった。
私は正しい指示を出し、正しい事実を伝えたつもりだった。しかし、声の強さまでは測っていない。
「申し訳ありません。焦っていました」
「私に?」
「いいえ。予定が崩れることに」
「なら、私はたまたま近くにいただけ?」
「そうなります」
「正直だね」
「嘘をつく場面ではないので」
冬子さんは小さく息を吐いた。怒っているのか、呆れているのか判別できない。
「次の道の駅まで黙って考える、だったよね」
「ここは道の駅ではありません」
「じゃあ、霧が晴れるまで」
「それでは測定が先になります」
「本当に、こういうときまで予定どおりなんだ」
ようやく、彼女が笑った。わずかに苦い声だったが、拒絶ではない。
「私、外で待つ。赤いライトを持って。必要なことがあったら言って」
「寒いです」
「上着、二枚ある」
「一枚は私が借りています」
「そうだった。返してもらおうかな」
私は袖を見た。
「測定が終わるまで貸してください」
「値札をつけるよ」
「いくらですか」
「さっきの言い方を、もう一度ちゃんと謝る」
「それなら、今払えます」
私は冬子さんのほうへ身体を向けた。
「明かりを点けたことではなく、私が焦っていたことまで冬子さんのせいにする言い方をしました。ごめんなさい。データは取り直せます。研究を全部駄目にしたわけでもありません」
冬子さんはしばらく私を見たあと、うなずいた。
「受け取った」
「上着は?」
「測定が終わるまで貸す」
交渉が成立したらしい。
二回目の測定を始める頃、霧はさらに濃くなった。
車から二十メートル離れると、尾灯の反射板さえ見えにくい。美しの塔の鐘はここまで聞こえない。風が湿った空気を運び、前髪に細かな水滴がついた。
冬子さんは約束どおり赤色灯を使い、測定時刻を読み上げる。私は機材の操作に集中した。
「二十一時四十分」
「記録しました。次、三分後です」
「了解」
敬語と短い返事が混ざっている。仕事の同僚のようでもあり、何かの訓練中のようでもあった。
「二十一時四十三分」
「値、二十・六一」
「いい数字?」
「一回では判断できません」
「そう答えると思った」
「では、なぜ聞くんですか」
「会話がないと、霧に置いていかれそうだから。それに、数字の読み方は知りたい」
「数字が大きいほど、明るい?」
「反対。使っている単位では、数値が大きいほど暗い空です。ただ、今は霧が動いているから、この一回だけを晴天時の値とは比べられない」
「暗さを測るのに、大きいほうが暗いんだ」
「恒星の等級も、数字が小さいほうが明るい。最初は混乱する」
「遥さんでも?」
「最初は。覚えたあとも、表へ入力するときは単位を確認する」
「間違えない人じゃなくて、確認する人なんだね」
そう言われると、自分が少し違うものに見えた。私は間違えないために手順を作ってきたつもりだった。冬子さんには、間違うことを知っているから確かめ続ける人に見えているらしい。
「今夜は、確認しても条件そのものが動いてる」
「だから私が時刻を読む?」
「うん。一人で空と時計を同時に追うより正確」
冬子さんは赤いライトをノートへ向け、次の欄へ線を引いた。
「では、共同観測者として、あと一分」
赤い光の向こうで、冬子さんの輪郭がぼやける。
私は次の測定までの三分間、彼女のそばへ移った。山の夜は、立っているだけで体温を奪う。借りた上着の袖に手を引っ込めると、冬子さんが笑った。
「寒いんじゃない?」
「寒い」
返事は、自分でも意外なほど早く出た。袖の中から指先を出すと、爪の色が薄くなっている。
「認めるんだ」
「戻りたくないから、言わなかった」
「測定が残ってるから?」
いちばん正確な答えを探した。霧は冷たく、機材のそばを離れる理由はいくつもある。それでも、次の時刻まで車内で待つという選択肢を、私は考えもしなかった。
「それだけなら、次の時刻まで車に戻れる」
冬子さんは何も言わず、赤いライトを持つ手を私の袖へ近づけた。触れはしなかった。赤い光だけが、指先の色を温かそうに変えた。
二人の声が、霧の中だけで届く。
次の時刻になり、私は測定器へ戻った。数値を記録し、全天カメラの曇りを確認する。レンズヒーターは作動している。雲量は多いが、霧が流れるたび、頭上に暗い穴が開いた。
その穴の奥に、星が一つ見えた。
「冬子さん、上」
私が指すと、彼女は赤色灯を消した。
「どれ?」
「真上より少し東。明るい星」
「見えた」
「ベガです」
「昨日も見た星?」
「はい」
霧が動き、ベガの周囲に小さな星が増える。ほんの数十秒だった。再び白い膜がかかり、光は消えた。
「今の、記録できた?」
「カメラには」
「遥さんは?」
「見ました」
「ならよかった」
冬子さんの声が近い。暗さに目が慣れると、赤色灯がなくても表情が少し見えた。頬に水滴がついている。
手を伸ばせば拭える距離だったが、私はポケットからタオルを出して渡した。
「風邪をひきます」
「遥さんも濡れてるよ」
「私はフードがあります」
「じゃあ半分」
冬子さんはタオルで自分の頬を拭き、乾いている側を私へ返した。
一枚を二人で使う必要はない。私の鞄には予備がある。それでも、別のものを出すのは、渡されたものを拒むように思えた。
私は同じタオルで額を押さえた。
二十三時を過ぎ、ようやく霧に切れ間が生まれた。
予定していた三回すべてとはいかなかったが、比較に使える連続データを確保できた。機材を片づけ、車へ戻る。暖房を入れると、冷えていた指先が痛んだ。
冬子さんは後部座席から大きな毛布を取り、半分を私の膝へ掛けた。残りを自分の脚に載せる。二人の間で、毛布が橋のようにつながった。
「今度は、いくらですか」
「何が?」
「毛布の値札」
「今日はもう、払ってもらった」
「謝罪だけで、上着と毛布は釣り合いません」
「じゃあ、缶コーヒーのお返しを放棄する」
「お返しのお返しでは?」
「何回目かわからなくなった」
冬子さんが笑い、私は毛布の端を少し彼女側へ戻した。
そのとき、毛布の下で指が触れた。
どちらもすぐには動かなかった。
偶然だと判断するには長く、意図的だと認めるには短い時間。冬子さんの小指が私の手の甲に触れ、エンジンの振動に合わせてかすかに揺れている。
「手、冷たいね」
彼女が言った。
「冬子さんもです」
「私は外に長くいたから」
「私もいました」
「そうだった」
会話はそこで途切れた。
指を重ねる理由はない。離す理由ならいくつもあった。それなのに、暖房で車内が温まるまで、私たちは同じ場所へ手を置いたままだった。
宿へ向かう道で、冬子さんは速度を抑えて運転した。霧の中ではヘッドライトを上向きにせず、白線を追う。私はナビの曲がり角を読み上げたが、一度も間違えなかった。
「助手席、向いてるね」
「指示を読むだけです」
「それが助かるの。父は、地図を持たせると自分が行きたい道へ案内する人だったから」
「運転しているのは、お父さまですよね」
「それでも。道を間違えると、助手席のせいにしてた」
「理不尽です」
「理不尽だった」
過去形の声は穏やかだった。
今日一日で、私は冬子さんの父親について少しだけ知った。知らない人を助けて遅刻する。好きなCDを入れっぱなしにする。娘を峠道で酔わせ、道を間違えると助手席のせいにする。
いい父親だった、という一言では収まらない人だったらしい。
「明日は乗鞍だね」
「はい。松本で買い出しをしてから向かいます」
「雨の予報」
「知っています」
「観測、できないかもしれない」
「欠測の記録を残します」
「失敗の証拠じゃなくて?」
「違います」
宿の明かりが霧の向こうに見える。
山を下りたところにある小さな旅館へ着いたのは、日付が変わる少し前だった。私と冬子さんは別々に予約していたが、部屋は廊下を挟んだ向かいだった。
女将から鍵を受け取り、機材のうち湿気を嫌うものだけ私の部屋へ運ぶ。全天カメラのケースを開けると、外気との温度差で金具が薄く曇った。
「乾燥剤、足りる?」
冬子さんが戸口から覗く。
「はい。車内に残すより安全です」
「手伝うことは?」
「今日はもうありません。ありがとうございました」
「契約に入ってるから」
「まだ、機材の補助までは決めていません」
「追加料金?」
「明日の昼食を私が払います」
「また値札をつけた」
注意され、私は言い直した。
「では、明日の昼食を一緒に食べてください」
冬子さんは一度瞬きをしたあと、笑った。
「それなら受け取る」
借りていたウインドブレーカーを脱いで渡そうとすると、彼女は首を振った。
「明日も高いところへ行くから、持っていて」
「冬子さんの予備がなくなります」
「松本で買う。もともと少し大きかったし、遥さんのほうが似合う」
「服に、似合うという基準は必要ですか」
「必要。研究対象じゃないから」
理由になっていない。それでも私は上着を畳み、自分の鞄へ入れた。
「おやすみ、遥さん」
「おやすみなさい、冬子さん」
向かいの扉が閉まる。
部屋へ一人になると、さっきまで車内にあった音が急に遠くなった。ワイパーが霧の粒を払う音、ナビを読む自分の声、ハンドルを切るたび擦れる冬子さんの袖。静かなはずの旅館で、それらばかりが耳に残る。
私はノートパソコンを開き、今日の観測記録を整理した。除外する画像に印をつけ、測定値と時刻を照合する。観測補助者の欄は、いつもなら空白だ。
カーソルを置き、『宮坂冬子』と入力した。
研究上は、照明を管理し時刻を読み上げた協力者として、名前を残す必要がある。理由はそれだけだった。
保存したあと、もう一度ファイルを開く。
文字は同じ位置にあった。当たり前のことに安心してから、自分が何を確かめたかったのか考える。
測定していない時間にも、記録されるものがある。冬子さんが昨日言ったわけではない。私自身が路肩で思ったことだ。
今日の記録には、霧も、光も、失敗も残った。彼女の名前もある。
それで十分なはずなのに、毛布の下の温度だけが、どの欄にも入らなかった。
測定値には、時刻も湿度も雲量も記録される。けれど、指が触れていた時間はどこにも残らない。
記録されないことを、なかったことにしていいのか。
その問いに名前をつけるには、私たちはまだ二日しか一緒にいなかった。




