第二章 父の地図
目を覚ますと、隣のベッドはもう空だった。
正確には、百瀬さんの身体だけがなかった。掛け布団は端まで揃えて畳まれ、枕元に置いてあったはずの眼鏡も、充電器も、腕時計も消えている。床には開いた旅行鞄があり、中では衣類が四角く区切られていた。
寝坊したのかと思って携帯を見る。午前六時十二分。目覚ましは六時半に設定していた。
窓の外から、金属の脚を開く音がした。
カーテンを少しめくると、庭の端で百瀬さんが三脚を立てている。昨日と同じ薄いグレーのパーカーを羽織り、髪は低い位置でまとめていた。曇った空へカメラを向けては、ノートに何かを書き込んでいる。
星が見えない朝にも仕事があるらしい。
私は音を立てないよう着替え、洗面所で顔を洗った。鏡に映る自分は、旅へ出て二日目というより、締め切り前の木曜日に近い。髪を結び直してから、一階へ下りた。
玄関を出ると、空気が冷たい。昨夜の雨が草に残り、踏むたび靴の縁が濡れた。
「おはよう」
声をかけると、百瀬さんはカメラから顔を離した。
「起こしましたか」
「ううん。三脚の音はしたけど」
「すみません」
「責めてない。何を撮ってるの?」
「空です」
「それは見ればわかる」
「雲量の記録です。昨夜は測定できなかったので、参考として残します」
液晶画面には、薄い灰色の空と白樺の梢が映っている。きれいとは言いにくい写真だった。
「これも研究に使えるの?」
「直接は使えません。観測できなかった理由を残すだけです」
「失敗の証拠?」
「欠測の記録です」
「同じことじゃないんだ」
「違います。測れなかったのか、測らなかったのかも区別できるので」
言いながら、百瀬さんは三脚の脚を一本ずつ縮めた。昨日、路肩で自分の車が運ばれていくのを見ていた人とは思えない。予定が崩れたときに強いのではなく、崩れた部分を記録へ変えているのだろう。
「朝食、七時半だよね」
「はい。その前に、レンタカー会社から連絡が来る予定です」
「朝から忙しいね」
「宮坂さんは?」
「何もない。起きて、ご飯を食べて、臼田へ行く」
「何時に出ますか」
「八時半くらい」
「くらい」
百瀬さんは、その二文字を不確定要素として聞き取ったらしい。
「八時二十分から四十分のあいだ」
「幅が広がりました」
「旅行だから」
私は三脚のケースを持った。昨日より軽い。中身を抜いたから当たり前なのに、少し騙された気分になる。
「これ、玄関へ運ぶね」
「自分で持てます」
「知ってる。でも、私もそっちへ戻るから」
百瀬さんは一瞬だけ迷い、それから手を離した。
「お願いします」
昨日は、何か一つ受け取るたびに支払い方法を探していた。ひと晩で私を信用したとは思わない。ただ、断るために使う時間が惜しくなっただけかもしれない。
それでも、頼られるのは悪くなかった。
朝食の最中に、レンタカー会社から連絡が入った。
右前輪だけでなくホイールにも交換が必要で、車はそのまま工場へ預ける。代替車は小諸で十五時以降なら用意できる可能性があるが、確約はできない。百瀬さんはパンもコーヒーも手つかずのまま、担当者の説明を最後まで聞いた。
「では、いったん契約を終了できますか。以降の移動手段はこちらで手配します」
向かいに座る私は、危うく味噌汁をこぼしかけた。この宿の朝食は和洋折衷で、パンの横に味噌汁がある。
「違約金と、車両の返却については」
百瀬さんが確認を重ねる。しばらくして通話を終えると、今度は大学へ電話をかけた。
「小野寺先生、おはようございます。今、お時間よろしいでしょうか」
声が一段だけ硬くなる。
事情を説明し、今日の臼田までは同宿者の車へ同乗できること、その後の移動手段は現地で検討することを伝えていた。私については「身元と連絡先は確認します」と付け加える。
確認される側としては、少し複雑だった。
「はい。無理はしません。位置情報は共有します。機材もすべて無事です」
最後にもう一度謝ってから、電話を切った。
「怒られた?」
「いいえ。怪我がなくてよかったと言われました」
「なら、そんな顔をしなくても」
「先生の研究費で借りた車です」
「保険に入ってたんでしょ」
「入っていれば壊していいわけではありません」
「それはそうだけど、壊そうとしたわけでもない」
百瀬さんは冷めかけたコーヒーを飲んだ。
「宮坂さんの車には、絶対に傷をつけません」
「助手席に座っているだけで傷をつけたら、むしろ才能だよ」
「荷物の積み下ろしもあります」
「そこまで心配なら、毛布を敷こう。父も望遠鏡を積むときはそうしてた」
「望遠鏡を?」
「大きなものじゃない。三脚ごと肩に担げるくらいの」
「屈折式ですか、反射式ですか」
「そこから先はわからないなあ。白くて、長かった」
「屈折式かもしれません」
「好きなだけで、詳しくはなかったのかも」
「好きなら詳しくならなければいけない、ということはありません」
昨日の夜、自分のことには答えられなかった人が、父のことは迷わず肯定した。
私は味噌汁を飲む。少し冷めても、塩気は変わらない。
八時三十七分、私たちはペンションを出た。
荷室には昨夜より丁寧に毛布を敷き、観測機材をベルトで固定した。百瀬さんは固定部分を二度引いて確認したあと、助手席に乗り込む。足元の道路地図は、私がドアポケットへ移した。
エンジンをかけると、いつもの低い回転音に、金属を細く擦るような高い音が一瞬だけ混じった。私は送風を切り、窓を開けて耳を澄ませる。音はすぐに消え、始動時に点いた警告灯もすべて消灯した。もう一度は聞こえない。それでも、時刻と走行距離と「始動直後、細い音」とだけ携帯へ残した。長く乗っていると、故障の名前より先に、いつもと違うという感覚だけが届く。
「昨日、車種を聞きましたよね」
私が画面を伏せるのを待って、百瀬さんが言った。
「うん」
「名前までは聞いていませんでした」
「スバルのレガシィ。ツーリングワゴン。二〇〇四年式の二・〇i」
「覚えました」
「試験には出ないよ」
「人の車を預かるなら、知っておくべきかと」
「預けてない」
「同乗するなら、です」
言い直し方が律儀で、笑ってしまう。
国道141号へ出ると、朝の光が畑を横切っていた。野辺山駅の周辺を離れ、道は緩やかに下っていく。青い空が見え始め、八ヶ岳の裾が昨日より近い。
百瀬さんは膝にノートを置き、走行時刻と天候を書き込んでいる。
「車酔いしない?」
「今のところは」
「下を見続けると酔うよ」
「必要な記録なので」
「酔っても続ける?」
「一度やめて、回復してから再開します」
「根性じゃなくて手順で解決するんだね」
「根性は再現できません」
正論なのだろうけれど、言葉の形がおかしい。
「音楽、かけてもいい?」
「どうぞ。運転する人が決めてください」
「その言い方、教習所みたい」
センターコンソールには、父が残したCDが十枚ほど入っている。ケースの背は日に焼け、文字の色が薄い。私はいちばん上の一枚をオーディオへ差し込んだ。
ピアノの前奏に続き、昔の女性歌手の声が流れる。父がよく運転中に聴いていた曲だった。タイトルは覚えているのに、歌詞を意識して聞いたことはない。
「古いですね」
百瀬さんが言う。
「正直だなあ」
「悪いという意味ではありません。母も聴きます」
「お母さまはいくつ?」
「五十二です」
「うちの母と近い」
「宮坂さんは二十五?」
「そう。百瀬さんは?」
「二十三です」
「年下だったんだ」
「二歳だけです」
「急に敬語をやめろとは言わないよ」
「その心配はしていません」
助手席から返ってくる言葉は素っ気ないのに、声には昨日より角がない。
南牧村から小海町へ入り、道沿いの家が少しずつ増えていく。百瀬さんは窓の外とノートを交互に見ていた。
「光害の測定は、暗い場所だけでやるの?」
「いいえ。暗い場所と明るい場所を同じ条件で測り、比較します。街灯の種類や数、雲量、湿度も記録します」
「晴れていればいいわけじゃない?」
「雲があると、地上の光を反射して空が明るくなる場合があります。都市部では特に」
「雲って、星を隠すだけじゃないんだね」
「隠したうえで、街の光を戻してきます」
「働きすぎだ」
小学生の頃、秩父まで来て一面の曇り空だった夜、私は後席で「何も見えない」と文句を言った。父はフロントガラスを指し、『雲まで見に来たってことにしよう。帰りにアイスを買えば、旅行としては勝ちだ』と言った。母に『判定が甘い』と笑われても、『次があるほうが得だろ』と譲らなかった。あの人は、失敗へ勝手に続きの予定を足すのが得意だった。
「お父さまは、どこで星を見ていたんですか」
「近所の河川敷とか、秩父の山。休みが取れると長野まで」
「埼玉にお住まいなんですね」
「川越。父もずっと」
「今も?」
「父は、九年前に亡くなった」
百瀬さんはすぐには何も言わなかった。
気の毒そうな声も、形だけのお悔やみもない。その沈黙は、思ったより楽だった。
「昨日、聞きましたね。すみません」
「一度聞いたことを確認しただけでしょ」
「はい。でも、亡くなった時期までは」
「私が高校二年のとき。病気だった」
「車は、それからずっと宮坂さんが?」
「免許を取ったのが十八だったから、それまでは母が置いてた。二十歳のときに名義を変えて、今は私の車」
最後の言葉が、自分の口の中で少し引っかかった。
私の車。書類上は間違いない。税金も保険料も車検代も私が払う。それなのに誰かへ説明するときは、必ず父の車と言ってしまう。
「大切に乗っているんですね」
「お金をかけてるだけ」
「それを大切にしていると言うのでは」
「研究機材も同じ?」
「研究費から出ています」
「またお金の話になった」
百瀬さんが口元を少し動かす。笑ったのだとわかるまで、昨日より短い時間で済んだ。
佐久穂町の道の駅で休憩した。
駐車場の隅へ車を停め、私はタイヤを一周見る。百瀬さんも降りてきて、同じように車体の周りを回った。
「何を確認しているんですか」
「空気が抜けてないか、何か垂れてないか。それくらい」
「私も覚えたほうがいいですか」
「レンタカーなら、警告灯がついたら安全な場所に停めて連絡すれば大丈夫」
「宮坂さんは詳しくないと言っていましたが、十分詳しいように見えます」
「長く乗っていれば、いつもと違うかどうかだけはわかる。直す方法は知らない」
ボンネットには、空の青が歪んで映っていた。塗装の小さな剥がれを指先でなぞりかけ、やめる。
売ると決めてから、傷が増えた気がする。本当に増えたのではなく、見ないふりができなくなっただけだろう。
「宮坂さん」
百瀬さんが自動販売機の前から呼んだ。
「昨日の麦茶のお返しです。どちらがいいですか」
右手に無糖の缶コーヒー、左手にカフェオレを持っている。
「甘いほう」
「わかりました」
「値札、つけた?」
「一本百四十円です」
「本当につけるんだ」
「冗談です」
缶を受け取ると、冷たさが掌へ移った。
百瀬さんは無糖のコーヒーを開け、ベンチへ座る。私も隣へ腰を下ろした。少し間を空けたつもりなのに、細いベンチでは肩が近い。
「この先、臼田まで送っていただいたあとですが」
「もう決めた?」
「代替車は断りました。契約を終了できるそうです」
「その後の移動は?」
「公共交通機関とタクシーを組み合わせます。機材の一部は宅配便で研究室へ返し、測定地点も減らします」
現実的な案なのだろう。けれど、口にする百瀬さんの指は缶を強く握っている。
「減らすと、研究に影響する?」
「不足分は別の日程で補います」
「いつ?」
「まだ決めていません」
「珍しい」
「何がですか」
「百瀬さんが、決まっていないことをそのまま言うの」
彼女は缶の飲み口を見た。
「今は、そう答えるしかありません」
私は車へ目を向けた。
後ろには二人分の荷物が積まれている。助手席には彼女のノート。ひと晩だけのはずだった同乗者が、もう車内の景色を少し変えていた。
父の地図を辿る旅へ、知らない人を入れるつもりはなかった。むしろ、誰にも入ってほしくなかった。だから地図を見つけてから何年も行かないままにした場所を、一人で回る計画にした。
けれど、父の印と百瀬さんの行き先は重なっている。
偶然を運命と呼ぶ趣味はない。ただ、利用できる偶然を無視するほど意固地でもないつもりだった。
「臼田で、地図を見てもらえる?」
「お父さまの地図を?」
「星の名前らしいメモがいくつかあるの。私にはわからなくて」
「もちろんです」
返事があまりに早く、私のほうが戸惑った。
「その代わり、とは言わないけど。百瀬さんのこの先の予定も、もう一度見せて」
「わかりました」
「まだ乗せると決めたわけじゃないよ」
「承知しています」
「でも、断ったわけでもない」
「それも承知しています」
「ずるいなあ」
「何がでしょう」
「決めてないのに、少しうれしそう」
百瀬さんは反論せず、缶コーヒーを飲んだ。耳の上だけが、日差しのせいではなく赤く見えた。
昼は、国道から少し入った蕎麦屋へ寄った。
父の地図に、小さな星印と『胡桃』の二文字があったからだ。店の名前までは書かれていない。近くに三軒ある蕎麦屋のうち、駐車場へ入りやすいところを選んだだけなので、父が訪れた店かどうかはわからなかった。
「手掛かりが曖昧ですね」
暖簾をくぐりながら、百瀬さんが言う。
「父は誰かに読ませるつもりで書いてないから」
「それなら、地図を旅程として使うのは難しくありませんか」
「だから今、適当に選んだ」
「それでいいんですか」
「同じ店に入ることより、同じ土地で胡桃蕎麦を食べるほうが大事かもしれない」
「かもしれない、が多いですね」
「本人に聞けないから」
店内は、遅い昼食を取る客が二組だけだった。私たちは窓際の座敷へ座り、胡桃だれのざる蕎麦を二つ頼んだ。
百瀬さんは箸袋を右側へ揃え、紙のおしぼりを細長く畳む。几帳面なのだと思って見ていると、運ばれてきた蕎麦を一口すすった直後、目を丸くした。
「甘い」
「嫌い?」
「いいえ。予想していなかっただけです」
「胡桃だれって、初めて?」
「はい」
もう一口食べ、今度は先ほどよりゆっくり噛む。表情はほとんど変わらないのに、箸の進み方だけが速くなった。
「おいしいなら、そう言っていいよ」
「おいしいです」
「報告書みたい」
「ほかにどう言えば」
「たとえば、もう一枚食べたいとか」
「量が足りなければ追加します」
「そうじゃなくて」
笑うと、百瀬さんは少し不満そうに私を見た。
「宮坂さんは、人が食べているところをよく見ますね」
「ごめん」
「責めてはいません。昨日、私が展示ではなく宮坂さんを見ていたのと同じなので」
「まだ展示を見てないでしょ」
「では、昨日、路肩で」
「あれは観察される側だったんだ」
「知らない人の車に乗るか判断する必要がありました」
「判定結果は?」
「今のところ、危険性は低いです」
「今のところ」
百瀬さんが私の言葉を使った。偶然かもしれないが、少しうれしい。
食後、私はレジの横に積まれた店の案内を一枚もらった。裏に今日の日付を書き、道路地図の佐久のページへ挟む。
「記録するんですね」
「百瀬先生を見習って」
「私は先生ではありません」
「じゃあ、遥さん」
初めて名前で呼ぶと、彼女は靴を履く手を止めた。
「急だった?」
「いいえ。条件の確認より前だったので」
「名前を呼ぶのにも契約が要る?」
「心の準備は要ります」
「それなら、次から予告する」
「余計に構えます」
店の外へ出ると、白い雲が高く上がっていた。私は地図へ挟んだ案内が落ちないよう、表紙をしっかり閉じる。
父と同じ店でなくてもいいと思ったのは、これが初めてだった。
同じ味を確かめることより、百瀬さんが予想外の甘さに目を丸くしたことのほうが、今日の記憶としては鮮明だった。
昼食のあとは臼田の市街地で翌日以降の水と行動食を買い、それぞれが予約していた宿へ大きな荷物を置いた。観測機材だけは車に残し、少し休んでから、うすだスタードームへ向かった。着いたのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。
山の斜面を上った先に、白いドームを載せた建物がある。駐車場からは佐久の市街地が見下ろせた。昼の名残があるうちは、谷に並ぶ家も道路もはっきりしている。
百瀬さんの測定は二十一時からなので、それまで館内を見学することにした。
受付を済ませ、展示を見て回る。私は壁に並んだ星雲の写真より、子ども向けの星座クイズに時間を使った。百瀬さんは説明板を読むのが速い。内容を知っているから飛ばしているのかと思えば、細かな誤植の前でだけ止まる。
「仕事の癖で気になる?」
「宮坂さんも見つけましたか」
「私は印刷会社だから」
「言われるまで気づきませんでした」
「じゃあ、何を見てたの?」
「宮坂さんが、どこで止まるのか」
「展示じゃなくて私を観察してた?」
「待っているあいだ、ほかにすることがなかったので」
悪びれもせず言う。
この人は、人へ興味がないように見えて、ときどき急に近くを見る。望遠鏡の焦点が合うみたいに、視線の距離が変わる。
日が落ちる頃、職員の案内で観望室へ入った。直径六十センチの反射望遠鏡がドームの中央に据えられている。天井のスリットが開き、濃い青色の空が細長く現れた。
「天気、持ちそうですね」
職員が言う。
私は自分が願っていた以上に、ほっとしていた。
最初に見せてもらったのは、こと座のベガだった。接眼部を覗くと、白い光が思ったより鋭く目へ入る。父の小さな望遠鏡では、焦点を合わせるだけで時間がかかった。合ったと思った瞬間に私が筒へ触れ、星を視野から追い出す。父は怒らず、また最初から探した。
「見えますか」
後ろから百瀬さんの声がする。
「見えます。ちゃんと」
「ちゃんと?」
「昔は、もっと揺れてたから」
交代すると、百瀬さんはほんの数秒だけ覗いて離れた。
「もういいの?」
「ベガは研究室でも見ています」
「本物の星に、研究室もここもないでしょ」
「見える像には違いがあります」
「それでも、もう少し感動したら?」
「しています」
「顔に出ないなあ」
「宮坂さんは、出しすぎなのでは」
「そんなに?」
「今、子どもより覗いていました」
後ろで待っていた小学生が笑った。私は場所を譲り、耳まで熱くなるのを感じた。
次に望遠鏡が向いたのは、はくちょう座のアルビレオだった。
肉眼では一つにしか見えない光が、望遠鏡の中では二つに分かれる。片方は蜂蜜のような橙色、もう片方は淡い青。宝石に例えられることが多いと職員が説明する。
「二つに見える星」
私は思わず声にした。
「地図のメモですね」
百瀬さんも気づいた。
観望室を出たあと、休憩スペースの机に道路地図を広げる。臼田の青い丸の横には、確かに父の字で『二つに見える星』と書かれていた。
「アルビレオの可能性が高いと思います。夏に見やすい二重星で、色の対比も有名です」
「父もここで見たのかな」
「日付があります。二〇一五年八月」
「入院する二年前だ」
知らない父の二年が、地図の上に残っている。
その翌年、父は疲れたと言って横になることが増えた。けれど病気が見つかったのは冬だ。二〇一五年の夏、父が一人で長野まで来ていたことを私は知らなかった。
「お父さまは、宮坂さんに見せたかったのかもしれません」
「どうして?」
「メモを残しているから」
「自分が忘れないためかも」
「それもあります」
百瀬さんは否定しなかった。
「本人に聞けないことを、都合よく解釈したくないんですね」
「そういう言い方をすると、私がすごく難しい人みたい」
「違うんですか」
「初対面から失礼だよね、百瀬さん」
「昨日よりは、初対面ではありません」
地図の上で、父の線は臼田から西へ伸びていた。美ヶ原、乗鞍、飛騨、神岡、木曽。そして南へ下り、阿智村で終わっている。
百瀬さんの行程表を隣に置く。
重なる地名は六つ。日にちも、ほとんど同じ。彼女の予定では、八月十二日の夜に阿智村でペルセウス座流星群を観測する。私が予約した最後の宿も、阿智村だった。
「ここまで同じだと、少し怖いですね」
百瀬さんが言った。
「私も」
「でも、合理的ではあります。新月期に、比較的暗い観測地点を長野から岐阜へ回るなら」
「運命じゃなくて、合理性で説明できる?」
「はい」
「百瀬さんらしい答え」
私は青い線を指で辿った。
一人で行くと決めていた。父が見た景色の中へ、父を知らない人を入れたくなかったからだ。一方で、私一人ではメモの意味さえわからない。星座の略号も、観測に向く時刻も、父がなぜその場所を選んだのかも。
百瀬さんなら読める。
それだけではなかった。
昨日、路肩で一人立っていた彼女を見たとき、昔の自分を思い出した。病院の廊下で、何をすればいいかわからず、時計ばかり見ていた十六歳の私。誰かに停まってほしかったのかもしれない。誰でもよかったわけではないのに、誰がいいのかも言えなかった。
「百瀬さん」
「はい」
「阿智まで、一緒に行く?」
彼女の目が地図から私へ動いた。
「いいんですか」
「条件がある」
「聞きます」
「ガソリン代は半分。宿はそれぞれ自分の予約を使う。満室なら無理に同じところへ泊まらない。運転は基本的に私。疲れたら予定を変える」
「機材の積み下ろしは、私がします」
「重いものは二人で。車内で飲み物をこぼさない」
「食べ物は?」
「匂いが残らないものなら」
「研究の測定時刻を優先してもらうことがあります」
「父の地図の場所にも寄る」
「はい」
「喧嘩したら?」
「原因を整理して、解決します」
「喧嘩をしたことがない人の答えだね」
「あります」
「あるんだ」
「その条件は、宮坂さんが決めてください」
「次の道の駅まで黙って考える。駄目なら、その次まで」
「それは解決ではなく、先送りでは」
「冷却時間」
百瀬さんは少し考え、行程表の余白へ条件を書き始めた。本当に契約書を作りそうな勢いだ。
「最後に一つ」
「まだありますか」
「百瀬さん、だと長いから。遥さんって呼んでもいい?」
ペン先が止まった。
「構いません」
「嫌ならいいよ」
「嫌ではありません。ただ、急だったので」
「私のことも冬子さんで。宮坂さんって呼ばれると、父まで振り返りそうだから」
言ったあと、胸の奥がかすかに痛んだ。父はもう、呼ばれても振り返らない。
百瀬さん――遥さんは、私の言葉を訂正もしなければ慰めもしなかった。
「わかりました。冬子さん」
名前が、まっすぐ届いた。
父の字が残る地図の上で、誰かが私だけを呼んでいる。
「じゃあ、よろしく。遥さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
握手をするような場面ではない。それなのに遥さんが手を差し出したので、私は笑いながら握った。
指先は、思っていたより冷たい。
「これ、必要?」
「合意したので」
「本当に契約みたい」
「条件を決めたのは冬子さんです」
「確かに」
握った手を離すと、掌にわずかな温度が残った。
二十一時前、私たちはスタードームから少し離れた測定地点へ移動した。市街地の明かりを比較用に記録するため、遥さんが地図上で指定していた場所だ。
「ここからは、車のライトを消してください。室内灯も、ドアを開けたときに点かない設定へ」
「消し方、わかる」
「念のためです」
駐車場の隅に車を停め、言われたとおり照明を切る。エンジンも止めると、聞こえるのは遠い車の音と虫の声だけになった。
遥さんは赤い光の小さなライトを額につけ、荷室から機材を下ろした。私も三脚を持とうとすると、置く向きと場所を細かく指定される。
「脚はここ。道路側へ出ないでください」
「はい、先生」
「先生ではありません」
「さっきも聞いた」
軽口を返しながら、彼女の手元を見る。輝度計を空へ向け、角度を確認し、時刻と湿度を記録する。三回測って数値のばらつきを確かめ、少し場所を変えてまた同じ手順。星を見るときとは違い、彼女はほとんど空を眺めなかった。
「きれいだね」
邪魔をしないよう小さな声で言う。
「何がですか」
「空」
遥さんが顔を上げた。街明かりの上に、夏の大三角が見える。さっき望遠鏡で見たベガも、その中にあった。
「冬子さんには、どう見えます?」
「どうって」
「明るいか、暗いか」
「昨日よりは、よく見える」
「それで十分です」
彼女は初めて測定器から手を離し、私と同じ方向を見た。
「数値は私が取ります。きれいかどうかまで、測定器に決めさせる必要はないので」
「研究者らしくないことも言うんだね」
「研究は、何でも決めてくれるものではありません」
その横顔は、望遠鏡を覗いていたときよりもやわらかかった。
測定を終え、機材を積み直したのは二十二時近い。遥さんの予約した宿の前へ車を着けると、彼女は助手席で明日の集合時刻を確認した。
「八時半でどうですか」
「八時二十分から四十分じゃなくて?」
「冬子さんが幅を持たせるので、中央を選びました」
「じゃあ八時半。遅れたら?」
「八時三十五分に連絡します」
「五分は待ってくれるんだ」
遥さんが車を降り、後部座席から小さな鞄だけを取る。観測機材は、明日の朝また積む手間を省くため、私の車へ残した。
「おやすみなさい、冬子さん」
「おやすみ。遥さん」
ホテルの自動ドアへ入る直前、彼女は一度振り返った。車を心配したのか、私を見たのかはわからない。
望遠鏡を通せば二つに見える星がある。
反対に、隣にいるのに一人だと思い込む人間もいる。
助手席には、遥さんが忘れた赤いライトが転がっていた。
明日から、あの席はもう空席ではない。




