第一章 受信できない夜
巨大なパラボラアンテナは、空から何かを聞き取ろうとしているように見えた。
直径四十五メートル。数字なら知っていたし、写真も動画も何度となく見ている。けれど、野辺山宇宙電波観測所の敷地に立ち、見上げなければ全体を視界に収められない白い皿を前にすると、知識は急に頼りなくなった。
八月六日、午後四時四十二分。
私は腕時計を確かめ、受付でもらった見学者用の案内を二つ折りにした。閉場まで、あと十八分。観測所内では携帯の電源を切るよう求められているため、鞄の中は久しぶりに静かだった。
パラボラアンテナは音を立てず、わずかずつ向きを変えている。
何万光年も離れた場所で生まれた電波を拾う装置のそばで、人間の連絡だけが途切れている。その状態を心地よいと思う一方、電源を入れた途端に指導教員からの着信が並んでいたらどうしよう、とも考えてしまう。
結局、私は白い皿をもう一枚だけ撮影した。
観測所を出て駐車場へ戻る。夏の高原は、日向と日陰で季節が一つ違うようだった。日差しを浴びた腕は熱いのに、建物の陰へ入ると半袖では頼りない。遠くには濃い緑の畑が広がり、その向こうで八ヶ岳の稜線が雲を受け止めていた。
レンタカーの後部座席には、全天カメラ、三脚、夜空輝度計、予備バッテリー、ノートパソコン、それから八日分の着替えが積んである。人一人の生活より、観測機材のほうが場所を取っていた。
携帯の電源を入れると、通知は三件だけだった。
一件は母から送られてきた、実家の猫が冷感マットを使わないという報告。もう一件は研究室の先輩からの天気予報。最後の一件は、小野寺先生からだった。
『臼田の比較測定、予定どおり七日二十一時。美ヶ原は霧が出やすいので無理をしないこと。データより安全優先』
わかっています、と返信しかけて、やめた。
書けば、わかっていない人の返事に見える。代わりに『承知しました。野辺山の下見を終えました』と送り、運転席へ乗り込んだ。
予定表では、十七時に出発。国道沿いのコンビニで夕食を買い、今夜は南牧村のペンションに宿泊する。日没後に周辺の予備測定を一本取り、翌朝、国道141号を北上して佐久へ向かう。
余裕はある。少なくとも、その時点ではそうだった。
駐車場を出て十分ほど走ったところで、右前方から鈍い音がした。
何かを踏んだ感触より先に、ハンドルがわずかに右へ引かれる。後続車はいない。路肩の広くなった場所を見つけ、速度を落として停車した。
エンジンを止めても、胸の内側だけが走り続けている。
外へ出ると、右前輪が目に見えて沈んでいた。タイヤの側面が裂け、ホイールの縁にも傷がある。少し前、対向車を避けたときに路肩へ寄りすぎたのだろう。音楽も流していなかったのに、どこで傷つけたのか思い出せない。
「そういうこと……」
声にすると、故障が確定した。
レンタカー会社へ電話し、保険の番号を伝え、ロードサービスへ位置情報を送る。担当者の声は丁寧だったが、到着まで二時間以上かかるという見込みを縮めてはくれなかった。スペアタイヤは搭載されておらず、応急修理剤も側面の亀裂には使えない。車両は最寄りの提携工場へ搬送され、代替車については改めて連絡するとのことだった。
通話を終えた時刻は、十七時二十八分。
日没まではまだある。気温も危険なほど低くない。飲料水は二リットル。携帯の電波も入る。私は一つずつ確認し、問題を小さな枠に収めようとした。
それでも、臼田の測定は明日の夜だ。代替車が午前中に用意されなければ、機材を運べない。路線バスと鉄道だけで回れる場所ではなく、以降の美ヶ原、乗鞍、飛騨、木曽の予定にも連鎖する。
小野寺先生へ連絡する文章を考えていると、後ろから車が近づいてきた。
低く、乾いたエンジン音だった。濃紺のステーションワゴンが私の車を追い越し、二十メートルほど先でブレーキランプを光らせる。車はゆっくり後退し、十分な距離を空けて停まった。
運転席から女性が降りてきた。
白い半袖のシャツに、色の薄いジーンズ。肩につく長さの髪を後ろでひとつに束ねている。私より少し背が高く見えたが、足元が登山靴だったからかもしれない。
「大丈夫?」
最初に車を見て、それから私を見る。助けを必要としている人間が私だと確認する順序だった。
「ロードサービスは呼びました。二時間くらいかかるそうです」
「二時間」
彼女は空を見上げた。山の端に溜まっていた雲が、さっきより広がっている。
「この先、暗くなると路肩が見えにくいんだ。発炎筒か三角表示板、ある?」
「後ろに」
「出そう。手伝う」
「でも」
「車は直せないよ」
私の懸念を誤解したらしい。彼女は両手を軽く上げた。
「古い車に乗ってるだけで、整備士じゃないから。ただ、待ってるあいだに後ろから突っ込まれないようにはできる」
言い方がおかしくて、緊張がほんの少しだけ緩んだ。
レンタカーの荷室から三角表示板を取り出し、彼女と一緒に設置する。反射板の角度を確認すると、彼女は自分の車から黄色い安全ベストまで持ってきた。
「ずいぶん用意がいいんですね」
「車のほうが用意させるの。いつ何が起きてもおかしくないから」
「壊れやすいんですか」
「本人の前で聞く?」
彼女が濃紺の車を振り返る。冗談なのだと気づくまで、一拍かかった。
「すみません」
「謝らなくていいよ。私も、ときどき同じことを本人に聞いてるから」
近くで見ると、車の塗装には細かな傷がいくつもあった。車体は低すぎず、高すぎない。ルーフレールのついた長い屋根。後ろの窓越しに、毛布と小さなクーラーボックスが見える。左後ろのバンパーには、磨いても消えなかったらしい白い擦り傷が残っていた。
彼女は私をガードレールの内側へ促し、自分も少し離れて立った。
「旅行?」
「調査です」
「何の?」
「夜空の明るさを測っています」
「夜空って、暗いものじゃないの?」
よく聞かれる質問だった。私は鞄から説明用の写真を出そうとして、手を止める。この人は単に会話を続けようとしているだけで、研究発表を聞きたいわけではない。
「場所によって違います。街灯や建物の明かりが空気中で散乱すると、星が見えにくくなるので」
「なるほど。暗さにも明るさがある」
「はい」
「変な言葉だね」
否定ではなく、面白がっている声だった。
彼女はガードレールに寄りかからず、少し前に立っていた。通る車が速度を落とすたび、視線でその動きを追う。私一人なら、携帯ばかり見ていただろう。
「あの、もう大丈夫です。二時間もかかるので」
「知ってる。さっき聞いた」
「そうではなくて、待っていただく必要は」
「私が勝手に待つのも駄目?」
「駄目ではありませんが、予定があるでしょう」
「今日の予定は、暗くなる前に宿へ着くことだけ。もう半分失敗してるから、十分くらい増えても変わらない」
「二時間です」
「そこは正確なんだ」
彼女は笑った。口元だけでなく、目尻が先にほどける笑い方だった。
風が強くなり、ガードレールの下の草が一斉に伏せた。彼女は自分の車へ戻ると、銀色の水筒と紙コップを二つ持ってきた。
「麦茶。何も入ってないよ」
「そこまで疑っていません」
「初対面の人から飲み物をもらうときは、少しくらい疑ったほうがいいよ」
「では、先に飲んでください」
「正しいけど、かわいくないなあ」
彼女は自分のコップへ注ぎ、一口飲んでから水筒を私へ差し出した。受け取った麦茶はよく冷えていて、紙コップの薄い側面がすぐに湿る。
「旅行中は水筒を持ち歩くんですか」
「父がそうしてたから。自動販売機のない場所へ行きたがる人だったの」
「天文がお好きだった人、というのは、お父さまですか」
「うん」
短く答え、彼女は道路の先を見た。まだ話したくないのだとわかる。私は麦茶を飲み、質問を別の方向へ向けた。
「あの車は、何年式ですか」
「二〇〇四年。私が三歳のときからある」
「ずっとご家族で?」
「今は私の名義。二十二年も経つと、家族なのか大型の家電なのかわからなくなるね」
「家電より、維持費がかかりそうです」
「ものすごく現実的なことを言うね」
「研究費も、維持費との戦いなので」
「星を見るにもお金がかかる?」
「望遠鏡そのものより、設置する場所、温度を保つ設備、観測したデータを保存する装置、人件費。見えない部分ほどかかります」
「車と同じだ」
彼女は納得したようにうなずいた。
「外から見えるのはボディだけ。でも、乗り続けるためのお金は、だいたい外から見えないところへ消える」
「それでも乗り続けるんですね」
「今のところは」
返事の最後だけが、風に削られた。
遠くで雷が鳴る。音が届くまでの時間から距離を測りかけ、私はやめた。すべてを数字にする必要はない。そう思った直後、次の雷まで何秒だったかを無意識に数えている自分に気づく。
「雨が来るかもしれません」
「その前に荷物だけ移せるよう、まとめておこうか」
「まだ車は搬送されると決まったわけでは」
「タイヤの横が切れて、ホイールも傷ついてる。あの応急剤じゃ無理だよ」
「車は直せないのでは?」
「直せないのと、見てわからないのは別」
少し得意げに言ったあと、彼女はすぐ真顔へ戻った。
「父の車で、同じことを一度やった。無理に走って、修理代を増やしたの。だから、これは経験。専門知識じゃない」
「失敗も役に立つんですね」
「役に立たないと、失敗したままだから」
その言葉だけ、彼女は私ではなく自分に向けているようだった。
大粒の雨が二つ、三つと路面に黒い跡をつける。私たちはレンタカーの荷物を後部座席の中央へ寄せ、濡らしたくない機材ケースに防水カバーをかけた。作業が終わる頃には雨脚が細くなり、空の端だけが黄白色に明るかった。
ロードサービスの到着予定を確認すると、あと五十分。
知らない人と路肩に立っていた時間は、予定表の上なら空白だった。ところが実際には、麦茶の温度や古い車の年式や、答えの途切れ方が残っている。測定していない時間にも、記録されるものがあるらしい。
「私、宮坂冬子。怪しい人じゃないって説明する材料には、あまりならないけど」
「百瀬遥です」
「百瀬さん。今夜の宿は?」
ペンションの名前を告げると、冬子さんは小さく目を見開いた。
「同じ」
「え」
「星の庭、だよね。私もそこ。だったら本当に待てる」
偶然という言葉は、確率を計算していないときに便利だ。
私は彼女の顔と、彼女の車と、携帯に表示した予約票を順番に見た。冬子さんは自分の画面も見せてくれる。宿泊日と宿名、予約者名が確かに一致していた。
「車が搬送されたあと、乗っていく?」
「そこまでしていただくわけには」
「歩くほうが危ないよ。タクシーも、すぐには来ないと思うし」
「料金は払います」
「タクシーじゃないから要らない」
「では、ガソリン代を」
「五キロくらいだよ」
「距離の問題ではなくて」
「百瀬さん、いつもこうなの?」
「どういう意味でしょう」
「借りを作らないように、受け取ったものへすぐ値札をつける」
初対面の人に言われる筋合いはない。そう思ったのに、反論は遅れた。
冬子さんは私の表情を見て、眉を下げた。
「ごめん。今のは言いすぎた。仕事で進行表ばかり見てるから、人の段取りにも口を出す癖があって」
「進行表?」
「印刷会社で、納期を守らせる仕事をしてる。つまり、普段は私のほうが時間にうるさいの。旅行中くらい、適当な人になりたくて」
「それなら、二時間も待つのは」
「適当でしょ」
今度は、私も少し笑えた。
ロードサービスの積載車が到着したのは、十九時十六分だった。
空はほとんど暗く、三角表示板がヘッドライトを受けるたび赤く浮いた。作業員がタイヤとホイールを確かめ、レンタカー会社と電話で話しているあいだ、私は後部座席の荷物をレガシィへ移した。
「重い」
全天カメラのケースを持ち上げた冬子さんが、率直に言った。
「十一・八キロあります。私が持ちます」
「先に言ってよ。意地で持っちゃった」
「下ろしてください」
「もうここまで来たから」
彼女は荷室まで運び、毛布の横へ慎重に置いた。三脚と輝度計のケースも収めると、レガシィの荷室は急に研究室の倉庫らしくなる。
積載車の作業員から書類を受け取り、車内に忘れ物がないか確認した。レンタカーが荷台へ引き上げられていく。壊れたのはタイヤとホイールだけなのに、車全体が回収される光景は、自分の計画を丸ごと持っていかれるようだった。
「代わりの車、どうなった?」
「明日の午後以降なら、小諸で用意できるかもしれないそうです。確定ではありません」
「明日はどこへ?」
「臼田です。夜九時から比較測定があって」
「臼田」
冬子さんの声が変わった。
「うすだスタードーム?」
「その近くです。ご存じなんですか」
「明日、行くつもりだった」
また偶然だった。
けれど、二度続いた偶然は、私を安心させるより警戒させる。
「天文がお好きなんですか」
「好きだった人を知ってる」
それだけ答えると、冬子さんは荷室を閉めた。
走り去る積載車を見送る。赤い尾灯が曲がり角の向こうへ消えると、周囲にはレガシィと私たちだけが残された。雲が厚く、空には一つも星が見えない。
「乗って。宿には連絡しておいた。夕食、少し遅らせてもらえるって」
「連絡までしてくださったんですか」
「私も食べ損ねたくなかったから」
助手席のドアを開けると、車内には紙と布が日に焼けた匂いがした。古いが、汚れてはいない。ダッシュボードには小さな傷があり、エアコンの表示は橙色。キーを回すと、針の並んだメーターが淡く光った。
冬子さんはエンジンが落ち着くまで数秒待ってから、シフトレバーを動かした。
「シート、狭くない?」
「大丈夫です」
「足元の地図、邪魔なら後ろへ」
厚い道路地図が、助手席の足元に置かれていた。表紙の角が丸まり、透明なカバーの内側に古いレシートが挟まっている。
「使っているんですね、紙の地図」
「道はナビで見る。これは別のもの」
「別?」
「昔の予定表みたいなもの」
聞き返す前に、車が動き出した。
ハンドルを握る冬子さんの手つきは静かだった。発進も減速も、同乗者に意識させない。私は荷室から聞こえるケースの音を気にして振り返る。
「固定が足りなかった?」
「たぶん三脚です。次に停められる場所で確認します」
「今、停める?」
「急がなくて大丈夫です」
「さっきまで分刻みだった人が」
「計画はもう崩れていますから」
「崩れると急に強いんだね」
強いのではない。立て直し方がまだ見つからないだけだ。
暗い国道を、ヘッドライトが切り取っていく。フロントガラスの内側には、ナビ画面の薄い光が映っていた。空を測るためにここまで来たのに、私が見ているのは道路と計器ばかりだった。
ペンション〈星の庭〉は、白樺林の奥にあった。
木造二階建ての小さな宿で、玄関先の看板には星座が手描きされている。到着は十九時四十分。オーナー夫婦は食堂に夕食を残してくれていたが、私の予約に問題が生じていた。
「お車のこと、大変でしたね。それで、お部屋なんですけど」
女主人が申し訳なさそうに帳面を見る。
私は本来、近くの別館に泊まる予定だった。しかし夕方の落雷で別館の給湯設備と一部の電気系統が止まり、安全確認が済むまで客室を使えないという。周辺の宿も満室で、本館で空いているのは、冬子さんが一人で予約したツインルームのもう一床だけだった。
「私は構わないよ」
冬子さんが言った。
「百瀬さんが嫌でなければ」
初対面の相手と同室。警戒すべき状況ではある。けれど、彼女の身元は宿に登録されており、私のほうも研究室へ現在地を共有できる。何より、観測機材を積み直して今から遠方の空室を探すより、この宿が用意できる唯一の代替を受けるほうが現実的だった。
「お願いします。追加料金は私が」
「そこは宿と相談しよう」
「でも」
「値札をつけるの、明日にしない?」
女主人が私たちを見比べ、意味がわからないまま笑った。
夕食は、冷製の南瓜スープと、鶏肉の香草焼きだった。冬子さんは運転があるからとワインを断り、私も水にする。食堂には三組の家族がいたが、食べ終える頃には私たちだけになった。
「研究って、一人で回るんだね」
パンをちぎりながら、冬子さんが尋ねる。
「今回は観測というより現地測定なので。本来は一人でも問題ありません」
「本来は」
「今日は例外です」
「タイヤが?」
「宮坂さんもです」
言ってから、失礼だったかもしれないと思う。
彼女はナイフを止めたあと、声を立てずに笑った。
「確かに。知らない人に二時間付き合うのは、旅行中でも適当すぎた」
「なぜ停まったんですか」
「困っていたから」
「それだけですか」
「それ以外に、どんな理由が必要?」
問い返されて、私はスープへ視線を落とした。
困っている人を見かけた。だから停まった。それだけで行動できる人間を、私は信用していいのかわからない。理由が単純すぎると、かえって見えない部分が大きくなる。
「百瀬さんは、誰かが困っていても停まらない?」
「状況によります。安全に停車できる場所か、ほかに人がいるか、私で役に立てるか」
「全部考えているうちに通り過ぎそう」
「可能性はあります」
「正直だね」
冬子さんは最後の一切れのパンで、皿のソースを拭った。
「でも、私もいつも停まるわけじゃない。今日は、あの車にそうさせられたのかもしれない」
「車に?」
「父の車なの」
声の温度が、ほんの少し下がる。
「もう亡くなってるけど。父なら停まっただろうなと思ったから」
「そうだったんですね」
「これを言うと、いい話みたいになるでしょ」
冬子さんは自分の水のグラスを見た。
「本当は、いい話ばかりじゃないの。父は知らない人を助けて、約束の時間に遅れて、母によく怒られてた。私は今日、一人だから怒る人がいなかっただけ」
笑って終わらせる言葉に聞こえた。それ以上は聞かなかった。
部屋は二階の端にあり、木製のベッドが二つ並んでいた。窓際の小さな机には星座早見盤が置かれ、壁には夏の大三角の写真が掛かっている。
冬子さんは窓から遠いほうのベッドに荷物を置いた。
「窓側、どうぞ。空を見る人だから」
「曇っています」
「雲の観測もするんでしょ」
「専門外です」
「空なら何でもわかるわけじゃないんだ」
「車に乗る人が、すべての車を直せないのと同じです」
「さっきのを根に持ってる?」
「引用しただけです」
私が答えると、彼女はまた目尻から笑った。
交代で風呂を使い、濡れた髪を乾かす。冬子さんは旅行鞄から紺色の長袖シャツを出して羽織った。私はノートパソコンを開き、明日以降の予定を組み直す。
レンタカー会社から届いた連絡では、代替車を用意できる可能性があるのは明日の十五時以降。場所は小諸駅前だった。受け取りに向かえば、臼田の測定には間に合う。ただし、その後の宿へ着くのは深夜になる。
「行けそう?」
冬子さんが隣のベッドから尋ねた。
「理論上は」
「危ない答えだね」
「十五時に小諸へ行き、手続きが三十分で終われば、臼田まで一時間程度です。そのあと測定して、美ヶ原へ」
「夜中に山へ上がるつもり?」
「宿は手前です」
「それでも、慣れない車だよね」
「ほかに方法がありません」
「私、明日、臼田へ行く」
画面から顔を上げる。
冬子さんはベッドの上に紙の道路地図を広げていた。青い線と丸印が、長野県のページにいくつも書き込まれている。野辺山、臼田、美ヶ原、乗鞍。私の予定表と同じ名前が並んでいた。
「これ、お父さまの?」
「うん。行った場所と、行きたかった場所」
「宮坂さんは、それを辿っているんですか」
「全部じゃない。八日で回れるところだけ」
彼女の指が、臼田の青い丸に触れる。横には小さな字で『二つに見える星』とあった。
「明日はここ。その次が美ヶ原」
「私もです」
「聞いた」
「いえ、その先も」
私は自分の行程表を回転させ、彼女へ向けた。
乗鞍、飛騨、神岡、木曽、阿智。順序までほぼ同じだった。
冬子さんは地図と画面を何度も見比べる。
「父、大学院生の予定を盗んだのかな」
「この地図は、何年のものですか」
「二〇一四年」
「私が大学院へ入る前です」
「冗談」
「わかっています」
「まだ慣れないな」
何に、と聞く前に、冬子さんは地図を閉じた。
「明日の朝、臼田まで乗っていかない? その先のことは、臼田で考える」
「でも、宮坂さんの旅でしょう」
「助手席は空いてる。荷室はもう空いてないけど」
壁の向こうで、子どもが走る音がした。すぐに大人の声が追いかけ、静かになる。
私は予定表を見た。車の受け取り、測定、移動、宿泊。数字を並べれば実行できそうに見える。しかし、今日の私は安全な路肩へ寄せるだけでタイヤを傷めた。明日、慣れない車で夜の山道を走れば、同じことが起きない保証はない。
「明日だけ、お願いします」
「わかった」
「ガソリン代と高速代は払います」
「高速、使わないよ」
「ではガソリン代を」
「それは明日決めよう」
「今決めたほうが」
「百瀬さん」
冬子さんは閉じた地図に手を載せたまま、私を見る。
「今日はもう、何も決めなくていいよ」
やわらかな声だった。
予定外の人と同じ部屋で、予定外の車に乗る約束をしている。何一つ、研究計画書にはない夜。それなのに、パンクした直後より呼吸がしやすくなっていることが、少し怖かった。
照明を消すと、カーテンの隙間が薄く白んだ。星ではなく、庭の外灯だった。
「宮坂さん」
「何?」
「お父さまは、天文がお好きだったんですか」
暗闇の向こうで、布団が擦れる。
「好きだった。詳しかったかは、私にはわからない」
「好きと詳しいは、別ですから」
「百瀬さんは、どっち?」
「詳しくなろうとしています」
「好きかどうかは?」
答えようとして、言葉が止まった。
研究を始めてから、星が好きかと聞かれたことは何度もある。そのたび、好きだから学んでいるのだと思ってきた。けれど私は今日、巨大なアンテナを前にしても閉場時刻を気にし、空より通知を心配し、星のない窓辺で翌日の測定値を考えている。
「わからなくなりました」
正直に言うと、冬子さんはしばらく黙っていた。
「じゃあ、確かめる旅だね」
「旅ではなく、調査です」
「今のところは」
寝返りの気配がして、それきり声は聞こえなくなった。
私は目を閉じた。
観測所のパラボラアンテナは、目に見えない電波を受け取る。雲に隠れて星が見えなくても、宇宙が沈黙したわけではない。
けれど、その夜の私は、隣のベッドにいる人の言葉さえ、まだどう受け取ればいいのかわからなかった。




