08.坂道
さて。
ベルタの実家があるプフォルツハイムは、南ドイツの小都市で、市街地の標高は二百数十メートルくらい。山あいとまではいかないが、丘陵に囲まれた街である。ちなみに、南側にはシュバルツバルトの森があり、その奥にはアルプスが控える。山岳地帯の入り口みたいな所にある街なのである。埼玉県でいうと、飯能とか秩父あたりの感じだろうか。
目的地はそんなところ。
ということは、これから上り坂が増えていくことになる。それはもう避けられない運命だ。
◇
まあ、そうは言っても、いきなり急な上り坂になるわけではない。最初は緩い上りが続く。ベンツ・パテントモトールヴァーゲンは、緩い上り坂なら問題なく登ってゆく。
だが、そのうち小さな峠が現れ始める。峠の上りは、流石にそんなに緩くはない。それでも、三人を乗せたベンツ・パテントモトールヴァーゲンは健気に坂を登ってゆく。
そして、限界が訪れる。
幾つ目かの小さな峠の坂の途中で、勾配に負けてエンジンが止まった。ベルタ、運転席横のレバーを素早く後ろ(ブレーキ側)に引いてブレーキを掛け、車を停める。
「オイゲン、リヒャルト、降りて車を押してくれる?」
こんな時のために、男の子二人を連れてきたのだ。オイゲン達もそれはわかっているから、すぐに降りて車の後ろに回る。
二人の息子がエンジンをかけ直す。
ベルタ、二人の息子が車を支えている間に、レバーを素早く前(前進側)に倒して動力を繋ぐ。
「押して!」
プーリーに掛かったベルトが滑ることで一時的に半クラッチ状態となり、車はなんとか発進する。操作方法は現代のそれとちょっと違うが、坂道発進である。多分世界初の。
うまくいった。
オイゲン達には悪いが、そのまま押してもらう。
だが結局。
坂がきつくてそこからスピードを乗せられなければ、すぐにエンジンは止まってしまう。駆動ベルトの滑りは一瞬であり、現代のマニュアル車の半クラッチのように、ある程度滑らせながら発進出来るような構造にはなっていない。
坂が緩ければなんとかスピードを乗せられるが、そうなったらそうなったで、今度はひとが追いつけない速度になってしまうので、車を押していたオイゲン達は置いてけぼりにするしかなくなる。ギアが1段しかないから融通がきかないのである。
駄目じゃんカール!
坂を登れる低速ギアと、坂道発進が出来る容量の大きなクラッチが必要ね。
それがないと、少なくともプフォルツハイムでは実用にならない。あとスロットルも手元で調整できないと坂道で発進出来ない。
取り敢えず、急坂はもうエンジン切って押すしかなさそう。
◇
やがて峠の頂上に着くと、ベルタは二人を乗せて、今度は坂を降り始める。
前に書いた通り、エンジンの圧縮比は2程度だから、今の車と違ってエンジンブレーキはごく弱い。したがってブレーキだけが頼りなのだが、この車のブレーキというのが、木のブロックを車輪の鉄製の踏面に押し付けるだけの、なんとも頼りない代物だ。
結局これも、坂道で連続して使うことは想定されていないのだ。
ベルタ、ブレーキを掛けながら慎重にゆっくりと坂を下る。ブレーキの木のブロックが音を立てて軋む。あんまり気持ちのいいものではない。
◇
そうこうするうちに、次の峠が見えてきた。
さっきの峠よりも勾配がきつい。
「リヒャルト!あんた運転席に座って舵を取って!」
坂の少し手前で車を止めると、ベルタは一番体重の軽いリヒャルトに運転を代わらせた。
そして、ベルタとオイゲンが後ろから押す。
そして、峠の頂上まで車を押した。
そしてまた、頼りないブレーキを掛けながら峠を降る。平坦路にたどり着いたらエンジンをかけて、三人乗ってまた走る。
こんな事を繰り返しながら、少しずつプフォルツハイムに近づいてゆく。
そして、市街地までもうひと上り、というところまで来た時。
「なにしてんすか〜?」
オイゲンやリヒャルトと同じくらいの年頃の男の子数人に、声をかけられた。
◇
渡りに船、とばかりにベルタは男の子たちに事情を説明して、車を押してもらった。そして、車は無事に市街地のある台地に上がることが出来た。
ベルタは、お礼に男の子達に少しばかりのお小遣いと、袋に残っていた「学生のキス」をあげた。ついでに名前の由来も説明して。
「プフォルツハイムに着いたーーー!!」
◇
そこからしばらく走って、車は無事ベルタの実家にたどり着いた。
マンハイムから106km。
これにて、往路終了である。駅伝か。
いや、駅伝くらいきつかったかもね。




