05. 薬局を探せ
今回は燃料補給の話。この旅で一番有名なエピソードです。
「………そうだ。」
◇
運転中に何かに気付いたらしいベルタ、オイゲンに質問する。
「出発するときさ、燃料タンクに燃料どれくらい入ってた?」
「……見てない。」
「そっか、ちょっと一度見てみようか。」
ベルタが車を道路脇に寄せて停める。
「オイゲン、燃料タンクの蓋を開けて、ちょっと覗いてみて。」
オイゲン、燃料タンクの中を覗いて報告。
「半分以下だよ。」
「半分ないかー。」
◇
ベルタ達は今、ハイデルベルクの市街地を抜けて、ヌスロッホという町の手前あたりにいる。今、周りは葡萄畑しかない。燃料はどこまで持つか分からないが、次の町、ヌスロッホで早めの調達をしたいところだ。
「リヒャルト、ナビで検索して薬局を探して!」
ごめん間違えたやり直し。
「リヒャルト、次の町にさしかかったらスピードを落とすから、とにかく薬局の看板を探して!オイゲンもね。あと知ってそうな人が通りかかったら、つかまえて訊くわよ!」
昔は大変だったのである。
◇
パン・パン・パン・パン・パン・パン………………
街道沿いに長閑なエンジン音が響く。パテント・モトールヴァーゲンの駆動系はベルト駆動だが、変速比は結構高いようで、アイドリングの間は連続した音なのだが、走り始めるとこんな感じの間の空いた音になる。
ちなみに、変速機は前進と後退が一段ずつしかない。この前進が一段しかない変速機のせいで、ベルタ達は後で大変な思いをするのだが、その話はまた後で。
◇
やがて、ヌスロッホの町に入る。
ハイデルベルクほど大きな町ではないが、どこかに薬局くらいあるだろう。
オイゲンとリヒャルト、目を皿のようにして薬局の看板を探す。
ところで、なんで薬局なのか。
この「ベンツ・パテントモトールヴァーゲン」の燃料は、「リグロイン」と呼ばれる石油精製物。今で言う「ベンジン」のことだと思ってもらえばいい。炭素数5~10のきわめて揮発しやすい油で、その揮発性と高い引火性から、空気と混合させて火花放電で燃やす内燃機関の燃料にするには、ぴったりだったのである。ガソリンにかなり近い代物だ。
だが、このリグロイン、当時はもちろんガソリンスタンドなんかなかったから、別の所で調達するしかなかった。それが薬局だったのである。
なんで薬局でそんなものが売られていたのか。それは、衣類の染み抜き剤として使われていたからである。ベンジンで染み抜きって、今でもやりますよね。
◇
市街地に入ってから、三人とも目を皿にして薬局の看板を探す。
だが、ない。仕方がない。通りがかりの人をつかまえて訊いてみる。
「薬局かあー。このあたりにはないねえ。」
「えー。」
「あ、でもヴィースロッホまで行けば、大きな薬局が一軒あるよ。リグロインくらいあるんじゃないかな。」
「ほんと?」
「その車で行けば、すぐじゃないかな。」
教えてくれた親切な通りがかりの人にお礼を言って、ついでに「学生のキス」をひとつ差し上げて、三人はヴィースロッホを目指す。
「広場が目印だからね、では気をつけて!」
◇
パン・パン・パン・パン・パン・パン………………
また、市街地が途切れる。ちょっと不安になるが、道は一本道なので迷うことはない。
やがて、ヴィースロッホの町が見えてきた。ヌスロッホよりちょっと大きいかな。親切な通りがかりの人が言ったとおり、そんなに時間はかからなかった。「大きな薬局」もすぐに見つかった。
ベルタ、薬局の前に車を停めると、店内に駆け込む。二人の息子も付いてくる。もちろん荷物持ちのためだ。
「リグロインあります?」
「ありますよ、いかほどご入用ですか?」
「店にあるだけ全部ちょうだい。」
「……………。」
この台詞、一度でいいから言ってみたいものである。
◇
薬局の前で燃料タンクに給油していると、先ほどの店員が外に出てきた。
「これがリグロインで走るんですか?」
「すごいでしょ、『ベンツ・パテントモトールヴァーゲン』っていうの。」
「へえ……で、どちらからいらしたんですか?」
「マンハイムよ。」
「これからどちらへ?」
「プフォルツハイムまで。」
「……そりゃあ大変だ!」
マンハイムからプフォルツハイムまでと聞いて改めて驚く店員に、何度もお礼を言って、薬局を後にする。
このヴィースロッホの薬局は現存していて、今でも営業している。
薬局の建物には「世界初のガソリンスタンド」と書かれたプレートが掲げられ、その近くには、ベンツ・パテントモトールヴァーゲンに乗ったベルタ達を象ったモニュメントが置かれている。
「帰りにも寄って下さいね!リグロイン沢山仕入れときますよ!」
◇
ベルタが運転したパテント・モトールヴァーゲン試作3号は、その後分解されて次の試作車の部品取りに使われたため現存しないが、パテント・モトールヴァーゲンはレプリカが作られて動態保存されている。そのレプリカで実証してみたところ、燃費は10km/ℓほどだったそうだ。もちろん現代の車にはとてもかなわないが、思ったよりは悪くない数値だ。
だが、燃料タンクは小さく、見た所5ℓ程度しか入らないように見える。仮に5ℓだとすると、航続距離は50kmである。マンハイムからベルタの実家のあるプフォルツハイムまでは106kmだから、必要な燃料は10.6ℓ。計算上は一度の給油ではぎりぎり足らず、二度の給油が必要なことになる。
もちろん当時はそんな燃費計算なんかしていなかっただろうから、ベルタ達は薬局であるだけのリグロインを買い込み、また途中で薬局を見つけるたびに追加購入していたらしい。座席の足元には、ぎっちりとリグロインの瓶が並んでいたことだろう。
◇
「この車にはトランクスぺースが必要ね。」
と、ベルタが言ったかどうかは定かでない。




