お祭りの日が近い事
小さな谷と古い城壁に囲まれた町では春から夏へ、季節が急ぎ移り変わっていた。空の色も放牧地の草の色も濃くなり、人々は作物を実らせ家畜を肥やす為に忙しい。太陽が空に輝く時間が長くなり、お祭りの日が近付いていた。いつもは遠方に散らばって放牧している小さな村の人達も、家畜の群れごと町の近くへ移動して来る。交易の為に国境を越えて街道沿いの街へと遠出している者達も、珍しい物や話を持ち帰って来る。兄も去年までその一人だった。けれど今年は子犬と一緒に町に残り、幼馴染の補佐として屋敷の中で働いていた。
子犬にとっては初めてのお祭りだ。新年を迎える祭事も初めてだったけれど、厄を祓い一年の無事を祈る厳かなもの。これから迎える夏のお祭りは、とにかく賑やかなものになる。一番良い服で着飾って、娘達は髪に花を編む。腕自慢が料理とお菓子を振る舞って、大人も子供達も、日が沈まない明るい夜を歌って踊る。誰もがその日を心待ちにしていた。子犬もまだ知らないお祭りが楽しみで仕方ない。弾き語りの青年ら楽器を弾ける仲間が仕事の合間に練習しているのを見ればその輪に入り、町の料理上手のおかみさん達にどんなご馳走を作るか聞いて回る。娘達の髪を飾るため、町角で育てられる花も盛りを迎える。
今日の子犬は、一際鮮やかな花壇の世話を手伝っていた。いつも身に付けている兄の服を腰に巻き、中に一枚だけ着ていた長袖もいっぱいに袖捲りして、慣れた手付きで土を弄る。
「良い手付きだねえ」
派手な前掛けを付けた花壇の持ち主が子犬の手際を褒める。
「先生の薬草畑、よく手伝ってるから」
「ああ、あそこも良い所だねえ」
「でも先生、こう言う花は育てないんだよね」
「そこまで手が回らないのもあるだろうけど」
花壇の持ち主が笑う。
「先生の畑の子はね、みんなお行儀が良いんだよ」
「うん。分かる」
「でもね。花飾りに使う子は個性があった方が良いんだよ。同じ花でも大きい小さい、色が濃い薄いみたいにね」
「へえ」
「お祭りが楽しみだねえ」
「うん」
太陽が頭上高くに来ているのに気付いて、子犬は「もう戻らないと」と立ち上がって軽く土を払うと、「ありがとさん」の声を背中に受けて走り出す。坂道の多い町を駆け抜けて、屋敷の勝手口を通り、奉公人達の出入り口である台所へ「ただいま」の声と一緒に飛び込む。
「おかえり。まったくお茶の時間には正確だねえ」
竈の前の台所当番はそう笑って、子犬の格好に「おや」と驚いたような顔をする。
「その格好、何だかいつもより大人っぽく見えるね」
「ん。まあね」
腕を組んで澄ました顔をする子犬に、台所当番は軽く吹き出す。
「いつもは大きなお兄ちゃんのおさがり着てるからね。あれ、服に着られてて可愛いらしいんだよね」
「何だよそれ」
一転して不満いっぱいの子犬に、台所当番は笑って言う。
「どっちも似合ってるって事だよ。さあさあ、これからお使いの報告に行くんだろ。ついでにお茶を運んでおくれ」
まだ文句を言いたげな子犬にお茶一式を乗せたお盆を持たせて、早く行ったとばかりに手を振った。台所を追い出された子犬は納得いかない顔で幼馴染の仕事部屋に向かう。可愛らしいは不本意だけれど、似合ってるなら悪くないかと思う。それとお盆の上のお茶と焼き菓子の良い匂いに段々と顔が綻んでいく。足取りも軽く、開け放しの仕事部屋へ入る。
「ただいま!」
「おかえり」
元気良く戻って来た子犬に兄が笑顔を返す。
「ご苦労さん」
幼馴染も机から顔を上げる。
「やあ。今日は随分と涼しげだ」
「うん。さっきまで花壇を手伝ってたから」
ちゃんと手は洗ったよ、と言いながらお盆を机に置いて手を見せる。伸ばした剥き出しの腕には細いながらも筋肉が付き、いつもは厚手の兄の服に包まれていた肩もしっかりしているのに気付いて、幼馴染はここに来たばかりの子犬の姿を思い出して感慨深くなって子犬をじっと見つめる。その視線に子犬は少し照れたように「なに?」と尋ねる。
「いやあ。君も大きくなったなあと思って」
幼馴染がしみじみ言うと、子犬は満面の笑みで頷く。
「毎日会ってると気付かないもんだ」
そう言いながら立ち上がり、子犬と並んで背比べをする。
「もうすぐ追い付かれるんじゃないか?」
「任せてよ」
「よし。そのうちお兄ちゃんも追い越してやりなさい」
「ん、うん?」
子犬はさすがに難しいのではと首を傾げて兄を見る。兄は面白そうに二人を見て笑っている。
「いや。今はこうだけどね。こいつの方が小さかった頃もあるんだから」
「あったね」
幼馴染に指を差されて兄は楽しそうに頷いて、二人の前に立つ。並ぶと子犬と幼馴染は兄を見上げる羽目になる。幼馴染はむっとして、兄を睨んで言う。
「あのね、歳はこっちが上なんだからね。もっと敬い給えよ」
「うん。尊敬しているよ」
声はいつも通りに穏やかで、深く誠実な響きがあった。口元には楽しげな笑みを浮かべながら幼馴染へ向ける視線は真っ直ぐで、隣で見上げていた子犬はその表情に一瞬目を奪われる。幼馴染は尊大な態度で「宜しい」と言ってみせる。兄が抱く幼馴染への思いとそれを鷹揚に受け止める幼馴染の姿と、その二人と一緒に自分がいる事が子犬は嬉しかった。
「さて、報告頼むよ」
幼馴染に促され、子犬は姿勢を正してお使いの報告を済ますと、今日見てきた町の様子を話し出す。幼馴染は面白そうに相槌を打ち、その隣で兄はにこやかに、まだ湯気の立つお茶と焼き菓子をそれぞれの前に並べる。




