兄が子犬を俺の弟と言う話
子犬が兄に拾われて小さな谷と古い城壁に囲まれたこの町にやって来たのは、町が冬籠りに入る少し前の事だった。
町は周囲の放牧地とそこに点在する村を含む小さな国の中心で、街道筋から外れている為にそこに人々が暮らしているとは外からは気付かない、取り残されたような場所だった。町にある屋敷の一族が代々国を治め、家畜の放牧を主な生業として、本格的な冬になると牧草を求めて男達は家畜を連れて遠くの放牧地を回る。彼らはひと冬の間、ほとんど町へは戻らない。どの群れをどこの牧草地へ連れて行くかは重要で、冬になる前に幾つかの集団が国境の警戒も兼ねて、何日も見回りをして決める。兄はその一員で、子犬を拾ったのはその帰り道での事だった。
町に着いた子犬は兄の幼馴染をはじめ親しい人達に紹介され、歓迎された。子犬は人懐っこく、会ったばかりの兄の幼馴染たちを気に入った様子だった。それから子犬は兄と一緒に、兄が仕える屋敷の一室で暮らす事になった。
数日後。子犬の希望もあって、子犬は兄と同じく屋敷の奉公人となる事になった。奉公人となれば、働く代わりに生活を保証される。台帳に記録してもらう為に、子犬は兄と一緒に幼馴染の仕事部屋へ赴く。子犬が兄と並んで部屋の真ん中に立つと、幼馴染は机に向かい台帳を広げて、親しげな笑顔で子犬に尋ねる。
「では改めて。君の名前を教えておくれ」
子犬は背筋を伸ばして、兄に教えられた通りに名乗る。
この辺りの国では名字と言うものが無い。改まった場では、自分の名前と親の名前を合わせて「誰某の子何某」という風に名乗る。子犬は今、兄の弟と名乗った。親の名に限らず、祖父母の名前を名乗る事も稀にある。けれど兄弟を名乗る例は幼馴染もちょっと聞いた事が無かった。
幼馴染はその名を丁寧な書体で台帳に記す。
「良い名前だね」
顔を上げて子犬にそう笑い掛けると、子犬はぱっと明るい顔になり「兄いが付けてくれた」と答えて、隣の兄を見上げて頬を赤くして笑う。幼馴染は感慨深げに頷いて兄に言う。
「君の弟か」
「そう。俺の弟だよ」
兄は笑って答えると隣に立つ子犬の頭をぽんぽんと優しく叩く。よく跳ねる子犬の赤い髪がぴょこぴょこと揺れる。兄の笑顔はいつもと同じようで、いつもより温かく見えた。
「君が俺の、と言うのは珍しいな」
「そうかも知れないね」
「そうとも。幼馴染として喜ばしいよ」
ふふふ、と含み笑いをしながら、兄が屈託無くそんな言い方をするのを聞くのは、彼の親兄弟がまだ生きていた頃以来じゃないかと思った。
「もう一つ。歳は?」と聞かれ、子犬はまた姿勢正しく答える。それは大人と子供の間の曖昧な年頃で、働き始める子もいるし、まだ年下達と駆け回って遊んでいる子もいる。成長の早かった兄はこの歳の頃には既に大人と同等に働いて、毎年冬は遠い放牧地へと出掛けていた。幼馴染は名前の下に歳とその他日付などの必要事項を記す。それからペンを置き、手を組んで子犬に柔かに言った。
「これで正式に、君もこの屋敷の奉公人だ。よろしく頼むよ」
子犬は「はい」と元気良く答える。幼馴染は頼もしいな、と思って笑う。それから兄に視線を移す。
「君、この冬は町に残るんだってね」
「うん。久し振りにね」
「じゃあ、君に教育係を頼もう。そう言う事で、仕事や必要な事の諸々はお兄ちゃんに教えてもらいなさい」
子犬は良い返事する。
「それから。お兄ちゃんの事で困った事があったら、ここにおいで。こいつも連れて来て良いから」
子犬は驚いた顔で「兄い、困った事する?」と兄を見上げる。兄は悪戯そうに笑って「そうだな。会いたい時があれば」と答える。
「何だそれは。わざわざ困り事を作る気か」
幼馴染は苦い顔をして二人を見る。
「君も多忙だし、用も無いのに来たら悪いから」
そう言って兄が笑うと、子犬も笑って幼馴染に「また会いに来るね」と言った。




