子犬が兄を呼ぶ時の事
兄が子犬を呼ぶと、子犬はいつでも何処にいても、飛び跳ねるように兄の目の前に駆け寄って来て返事をする。すぐ側にいる時も同じ勢いで、名前を呼ばれると赤い髪を跳ねさせて振り向いて兄を見上げて笑う。
一方で、子犬が兄に呼び掛けるのは兄の隣か目の前にいる時で、それは兄が子犬を拾った日から変わらなかった。
この町に来て最初の冬の間、子犬はいつも兄の隣にいた。子犬が兄を見上げて、兄がそれに柔らかく笑って答えると、控えめに、けれど嬉しそうに子犬も笑った。
放牧地で羊を追う時、兄は子犬から目を離さなかったけれど、子犬も兄からそう離れる事はなく、だから声を張らなくても聞こえる距離なのに、子犬はほんの数歩でも駆け寄って目の前に立ってから「兄い」と言った。
兄は、子犬にはまだ触れられない部分があると思っている。子犬が未だに一言も話さない兄と出会う前の事、独りぼっちでいた頃と生まれ故郷に関連する事だ。
子犬が必ずすぐ目の前で兄を呼ぶ理由を、兄は子犬に確かめてはいない。けれどきっと、兄が答えてくれるかを呼ぶ前に確かめたいのだろう。その根底には呼び掛けても答えが返って来なかった記憶があるんだろう。触れるほど近く、吐息や体温さえ感じられるほど近くならば答えてくれると確信できるから、子犬は必ず兄の目の前で兄を呼ぶ。
次第に子犬はたくさん兄を呼ぶようになった。兄はいつも変わらずに、優しい目をして子犬に答えた。
今日もやっぱり子犬は兄の目の前で兄を呼ぶ。嬉しそうに駆け寄って、ほとんど真上を向くように兄の顔を見上げて、とびっきりの笑顔を兄だけに真っ直ぐに向ける。




