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兄の想い人

子犬は兄が自分にくれた兄の服をとても気に入っている。拾われた日に簡素な肌着姿だった自分に兄が着せてくれた物で、そのまま子犬の物にしてくれた事も嬉しいし、兄と親しいあの女の人が丈を直してくれたのも嬉しかった。大きさが全然合わないのだから、着る物の無かった子犬に仮に着せただけのはずだった。だから子犬も兄に返すつもりで、けれどほんの少し手放し難く思った。二人はそれに気付いて、当たり前のように子犬の物としてくれた。だから子犬にとって嬉しい思いが詰まった宝物だった。

子犬が初めて屋敷に着いた時、兄と親しい人達が既に出迎えに集まっていた。あの女の人はその一人だった。足が悪いようで、ぎこちなく屈んで子犬と視線を合わせて「よく来たね」と笑ってくれた。子犬はこの人が姉になる人かと期待したけれど、どうもそうではないらしい。子犬はがっかりしたけれど、理由をあれこれと詮索するほど無作法でも無かった。この国で暮らす内に子犬は、例え周囲がどんな見方や呼び方をしても、あの二人の絆は変わらないものだと気付く。だから子犬はそれで満足する事にした。


その人は屋敷の自室で、針を持つ手を休めてふと物思う。夏が近いので、昼の仕事が終わってからもまだ窓辺は十分明るかった。手元にあるのは作りかけの子犬のよそゆき。お祭りの日のために兄が仕立てを頼んだ物だった。屋敷の働き手の衣食住は全て屋敷で面倒をみている。国全体が貧しかった時期は最低限の事しか出来なかったけれど、近年は余裕がある。よそゆきだって用意してやれるのに、兄は自分の蓄えから誂えてやりたいと言った。余程あの子が可愛いんだな、と思う。そう言う自分もあまり兄の事は言えなかった。本来ならお針子の仕事だから任せておけば良いのに、少しだけ手伝いたいと言ってこんな事をしている。子犬に合わせて兄の服の丈を直した時もそうだった。お針子に頼んでも良かったけれど、これくらいなら出来るからと夜なべをしてしまった。そうして直した服を渡した時の子犬の感激した様子は、夜なべした甲斐があるものだった。

そんな事もあってか、子犬は自分をとても慕ってくれていた。もし子犬が弟だったら、と考える。もう弟妹も兄姉もいて賑やかだけど、全く毛色が違うから楽しいだろうなと思う。兄の事も思う。兄が身寄りを亡くした時、屋敷の養子になる話もあった。つまり自分の弟になる可能性があった。結局、本人が他の身寄りのない者達のように奉公人になる道を選んだけれど。あいつも弟になれば良かったのに、そうしたら子犬も弟だったのにな。そんな他愛もない空想をして苦笑いする。けれど子犬の事を考えていると楽しかった。

お祭りの日が待ち遠しくなる。あの子がこれを着たらきっと似合うよ、背が伸びるのを見越して大きめに作っているけど丁度合うと良いな、お祭りでは誰と一緒に踊るだろうか、と色々な思いが浮かぶ。そう言えば去年の兄は、子犬の年頃とそれより小さな女の子達に囲まれて、その全員の相手をしていたな、と思い出し笑いをする。

兄はそんな風に子供達の憧れだった。子供だけではなく兄を知る誰もが好意を抱いているし、何なら家畜達もとても懐いている。家畜小屋に住みつく猫にもよく戯れつかれて、一日中頭に乗せている時もあった。

ならば年頃の娘達はと言うと、少々事情が違っていた。兄の本来の仕事はこの国を離れ、遠くの街や国境へ行く事だった。そうして他の街へ行く若者の中には行ったきり帰って来ない者もいた。そんな可能性のある相手と良い仲になる事を年頃の娘達はためらっていた。そうでなくても普段は一緒にいられないのだ。だからと言って遠出について行きたいかと言うと、それは難しい話だった。この国は小さいけれど暮らすのに不自由は無く、退屈だけれど穏やかな日々が続く。そもそも遠出には危険が伴う。だからほとんどの人達がこの国から離れる気は無かった。

子犬が来てからは兄は遠出の仕事を休んでこの町にいる。このままずっとそうなら良いのにと、兄を慕う子供達をはじめ少なくない人が思っているのを知っていた。その気持ちも良く分かった。でもさ、と谷に囲まれた町を窓から眺めながら、胸の内で兄に語り掛けた。

子供の頃から言ってたじゃないか、まだ誰も知らない遠くの世界をこの目で見に行くんだって。君なら出来るだろ、やって見せてくれよ。

「そうしたら」と一人笑いながら呟く。「たまには帰って来て、話を聞かせておくれよ」


長かった日も谷を囲む山々に遮られて陰り、針を持つ手元が見えなくなってくる。今日はこの辺にしようと縫い掛けの子犬のよそゆきを丁寧に畳む。机に手をついてぎこちなく立ち上がり、子供の頃の話の続きを思い出す。まだ少年だった兄が、遠くの世界を見に行く夢を語ってくれた時の事だ。それは彼にとっては夢想ではなく、確たる計画の様だった。その側に腰掛けて聞いていた自分を真っ直ぐに見ると、彼は言った。

「その景色を、君にも見せたいんだ」

「そっか、それは楽しそうだな」

笑って答える。それから自分も真っ直ぐに彼に向かって言った。

「でも、この国からは離れないよ。だって将来はこの国の人達の面倒を見るんだ。君も知ってるだろ、それが我が家の務めだから」

誘いを断られたはずなのに、彼は楽しそうに笑った。

「そう言うと思った。君は責任感が強いから」

「気持ちは嬉しいよ」

そう言い足すと、目を細めて「うん」と頷いた。その笑顔はどこか悪戯そうに見えた。


針仕事で固まった肩を伸ばす。いずれまた、兄は遠くへ行く日が来るはずだった。その時はきっと子犬が一緒について行くだろう。そうなったら嬉しいな、と笑顔を浮かべた。

2021.07.09 一部修正。

2021.10.31 一部修正。

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