久しぶりに子犬が兄と二人で出掛ける話
「しばらくお使い係を借りても良いかな」
屋敷の幼馴染の仕事部屋で、兄は仕事の手をふと止めて幼馴染に尋ねた。
「ん?」
幼馴染も手を止めて顔を上げる。兄の隣で幼馴染からのお使いの指示を待っていた子犬がきょとんとした顔で自分を指す。
「俺?何で?」
疑問と期待の混ざった声で兄に聞く。兄は子犬に「教えたい事があるんだよ」と笑いかける。それから幼馴染に言った。
「この谷の冬は長く夏は短いだろう。今の季節の事をこいつに教えておきたいんだ。こっちも忙しいだろうから、長くは掛からないようにするよ」
ふうん、と幼馴染は少し考える。兄が自分に出来得る限りの事を子犬に教えたがっているのは知っていた。これから子犬がこの国に来て初めての夏になる。だから教えたい事が山ほどあるのだろう。
「分かった、調整するよ。うちの兄弟にも伝えておく」
「ありがとう。頼むよ」
「で、休むのはお使い係だけで良いのかい?それなら君の仕事は積んでおくよ?」
悪戯そうに言う幼馴染に、兄は「よしなに」と慇懃に言って笑う。
子犬の休みはまとめてではなく、一日二日置きに分けて何度かもらえる事になった。寝る支度をしながら「明日は早く出るよ」と兄が言う。
「どこに行くの?」
「まずは谷を歩いてみよう。とっときの場所にも行くよ」
それを聞いて子犬は嬉しさで顔を真っ赤にする。この間、子犬が兄と二人でとっときの場所へ行きたいと言った事を兄が叶えてくれたからだ。「ありがとう!」と両腕で兄に抱き付く。そのまま赤い顔を兄の胸に埋めてぴょんぴょんと跳ねた。
横になってからも子犬は興奮が収まらなかった。
「どうしよう、眠れないかも」
「そんなに楽しみか」
兄は可笑しそうに笑って子犬の頭を撫でる。
「目を閉じてごらん」と囁くように言って、子犬の胸の辺りを軽く叩きながら子守歌を歌い始めた。子犬は言われたように目を閉じてはまた開けて、まだ無理、と言う顔をしていたけれど、次第に瞼が下りてきてやがて寝息を立て始めた。
翌朝、子犬は思い切り元気に目を覚ます。
外仕事の時と同じように台所でその日の食事の包みを受け取って屋敷を出る。ちょうど同じ時間に放牧に出掛ける羊の群れと城壁まで一緒に歩く。それから二人で城壁沿いに歩き、谷と城壁がぶつかる場所へ向かう。
「見回りの時はこうしてたね」
城壁に触れてそう言うと、子犬は上に飛び乗って歩く。少し行くと今度は反対側の道沿いに並んで咲く花に駆け寄った。
「前は緑の葉っぱだけだったのに」
行ったり来たりする子犬に兄は笑って相槌を打つ。畑に差し掛かると畑仕事の人達に手を振った。「育ったね」「おう。また手伝いに来てくれよ」と声を交わす。
谷には緩やかな斜面にある林へ薪を取りに行く道や、谷に住む獣を狩る猟師の通る狭い道もある。けれどそれ以外の道とは言えないような道の見つけ方、歩き方を兄は子犬に教えていた。とっときの場所もそんな道なき道を行った先にあった。それは小さな岩棚で、そこからは谷と城壁に囲まれた町と、谷を下ったその先へ広がるこの国を一望する事が出来た。普通の人なら足がすくむような急な斜面を、子犬と兄はわずかな足場を確かめながら進む。
「着いた、っと」
子犬は軽く息を吐いて、兄とぴったり並んでとっときの場所に立つ。背にした岩肌は冷んやりとして、けれど日差しは前に来た時より眩しく感じた。匂いも町の音の聞こえ方も前と少し違って感じる。空気が濃いのかな、と子犬は思った。一巡り景色を見渡して、景色を眺めている兄を見上げる。
ここに着くまでは、子犬は兄にたくさん話を聞いて欲しいと思っていた。この頃の子犬は友達や町の人達と過ごす時間が増えていた。それはとても楽しい事だけれど、その楽しかった事を兄にも全部話したかった。けれど寝る前に話そうとしてもいつも時間が足りなくて、話し終わる前に眠くなってしまう。けれど今日ならきっとたくさん話が出来る。そう思っていたけれど兄の横顔を見上げて、今は良いやと子犬は思う。兄の視線を追ってゆっくりと、風の運ぶ音を聞きながら、谷と城壁に囲まれた町を眺めた。
兄が子犬の名前を呼ぶ。
「楽しいか?」
「うん!」
子犬は嬉しそうに少し頬を赤くして笑う。
「それは良かった」
兄も目を細める。
「お前にこの季節の事を教えてたいと言ったね。それは俺の言葉じゃなくて、お前自身に体験して欲しい事なんだ。これから一緒に谷を歩くよ。お前自身で見て聞いて、感じて欲しい」
「うん」
兄の言葉を噛み締めるように子犬は頷いた。それから正面を向いて大きく息を吸った。
人ひとりどころか人半分の幅も無いような狭い足場でも、子犬は身軽に兄について行く。やがて斜面が緩やかになり、やや歩き易い場所へ出る。先を歩いていた兄が立ち止まって子犬を振り返る。子犬は大きな一歩でそれに並ぶ。見上げる子犬と視線を合わせて兄が手を差し延べる。子犬はその腕に抱き付くように手を繋いだ。




