子犬がお使いのお駄賃を一緒に食べたい相手
小さな谷と城壁に囲まれた町の中を子犬が一人で駆けて行く。小脇に抱えた籠の中身をひっくり返さないように気を付けながらも軽い足取りで、すれ違う人と挨拶を交わし、谷から引いた用水脇の小道を通り、斜面を曲がりくねる道を駆け上がって、よく手入れされた薬草畑の横を抜ける。薬草畑の先のいつも子供達が手習いをしている木陰には、今日はまだ誰もいなかった。木陰の傍にある一軒家に向かって子犬は呼びかける。
「先生、薬取りに来たよ!」
そのままの勢いで戸を開けると、先生と呼ばれたその人は振り向いて、黙って片眉を上げた。それを見て子犬は、今日は兄が先生と会うのについて来たのでも手習いに混ざりに来たのでもなく、曲がりなりにも屋敷の使いとして来たのを思い出す。
「来ました」
姿勢を正して言い直す。けれど先生の上がった眉が戻ると、すぐいつもの調子になる。
「あとこれ食べてって」
屋敷の台所当番から預かった籠を先生の前の机に置く。
「待ちなさい」
先生は頷いて言葉少なに言うと、徐に立ち上がって薬部屋へ向かう。しばらくして戻って来ると肩掛け鞄を子犬に渡した。
「まず頼まれていた補充分の置き薬」
子犬は鞄を受け取って、走るのに邪魔にならないよう肩紐を短く結んでから肩に掛ける。これは台所に、と料理に使う香草を片手に持たせる。それから、と子犬の空いた片手に丸く艶やかな杏をひとつ手渡した。
「お駄賃だよ」
「ありがとう!」
子犬は歯を見せて笑う。
「あと二個ちょうだい」
「うむ。遠慮がない」
そう言いながらも庭に出て、食べ頃をもぎながら考える。ひとつは自分でひとつは兄で、もうひとつはさて、誰にあげるやら。鞄を下げ片手に香草の束を抱えた子犬に
「落とさんようにな」
と注意しながら手渡すと
「大丈夫!」
子犬はいつも着ている兄の服の袖に杏を入れて袖口をぎゅっと握り、得意げな顔をする。
「成る程」
またね、と身軽に駆けて行く子犬の後ろ姿を見ながら、ご機嫌だな、と先生は思った。
屋敷でお使いに出る子犬を見送ったあと、兄は幼馴染の仕事の補佐に戻る。普段の仕事にお祭りの支度も加わって、なかなかやる事が多かった。幼馴染は椅子の上で伸びをして兄に言った。
「やれ。夏の気配も近付いて来たけれど、あの子にはどうやら春が来てるねえ?」
「そうか、どの子かな」
兄が身を乗り出して聞くと、幼馴染はきな臭い顔をして睨んだ。
「君は自覚がないのか」
「自覚はあるよ」
口元に笑みを残しながらも真っ直ぐに幼馴染を見る。
「でも君は耳が早いから、何か知ってるのかと思って」
幼馴染は口をへの字に曲げる。
「生憎と聞かないねえ」
「じゃあまだか。あいつに可愛い子が出来るのを楽しみにしてるんだけどな」
「お父さんかい」
「うん。それも良いな」
本気にしたように頷く。
「若過ぎるだろ」
幼馴染が半ば呆れて笑うと兄も一緒に笑う。それから幼馴染に言った。
「あいつが必要とするなら何だって良いんだよ。お父さんでもお兄ちゃんでも恋人でも」
幼馴染は苦笑いをする。
「君はなあ。包容力があり過ぎると言うか甲斐性が服着て歩いてるって言うか。心が広いんだけど広過ぎて迷子になりそうだよ」
「迷子は困るな」
「うん」
部屋の戸は開きっぱなしで屋敷内のどこからか活気のある声がする。窓の外は眩しく晴れていて、もう高くなった日差しは部屋には差し込まない。幼馴染がふと嘆息する間だけ部屋の中に静寂があった。
「あのさ、道が分かっていれば迷子じゃないと思うよね。でも一歩も踏み出すことが出来なければ、それは迷子のままじゃないのかな」
兄はじっと幼馴染の言葉を聞く。
「君はあの子に道を示そうとしてるよね。それはあの子にも伝わってると思う。でも、あの子が見ているのは君だけなんだよ。少なくとも今はね」
兄は頷いて心から言った。
「ありがとう。あいつの事を思ってくれて」
「まあね」
幼馴染はやや尊大な態度をしてみせてから笑う。
「この国みんなの面倒を見るのが我が家の務めなんだから。君の事もね」
廊下から軽い足音して子犬が戻って来た。外套がわりの兄の服の袖がやけに膨らんでいる。握っていた袖口を離すと、幼馴染の机に丸々とした杏の実が三個転がり出た。
「これ貰った」
子犬が得意げに言う。
「やあ、おいしそうだ」
幼馴染はそう言って一番色と形が良い物を子犬の前に置く。次に良い物を兄が幼馴染の前に置いた。残り一つを手に取って香りを嗅いで笑う。
「丁度良いね。一休みにしようか」




