名前
その日の城壁の見回りを終えて、子犬と兄は取っときの場所へ行く。城壁と小さな谷に囲まれた町と、谷から広がる放牧地からなるこの国を一望出来る場所。切り立った谷の岩肌を山羊のように渡り歩いて辿り着く、兄と子犬だけが知っている場所だった。
眼下の町に暮らすのは、この小さな谷と城壁の跡を見つけて住み着いた人達の子孫だった。城壁を直して背後の山脈からの湧き水が流れる谷の中に町を作り、周囲の放牧地で家畜を育てた。けれどいつ誰が何の為にここに城壁を作り、どんな人々が暮らしていたのか確かな事は分からなかった。
「ここは何かを守る砦だったのかも知れないね」
兄は子犬に語る。大昔に作られて置き忘れられた場所。今もこうして存在して人々が暮らす事が出来るのは、人間にとっては長い時間だったとしても、この谷とそれを囲む山脈にとってはあっと言う間の出来事だったからかも知れない。
そんな兄の話に子犬はじっと耳を傾ける。兄は知っている事を惜しげなく丁寧に教えてくれて、子犬はそれが嬉しかった。
「俺はこの国が好きなんだよ」
兄は子犬を振り返ってそう言うと、子犬の名前を呼んで穏やかに笑い掛ける。
子犬の名前は、兄が子犬を拾った日に兄が付けたものだった。この辺りの国では名字と言うものが無い。普段は自分の名前だけで、改まった場では、誰某の子何某、と言う風に自分の名前と親の名前を合わせて名乗る。兄は今は亡き父の名を名乗っていた。
「お前は俺の弟だと名乗るんだよ」
一緒に帰る道すがら、兄は子犬にそう教えた。
町が見えて来ると、城壁の近くで羊の世話をする老人がいた。兄の幼馴染から話を聞いて、二人の帰りを待っていた親父殿だった。兄は子犬を連れて行き自分の弟だと紹介して、子犬は兄に教わった通りに正しく名乗った。それを聞いて老人はからからと笑った。
「成る程。弟を欲しがっていると聞いたが、既にそうだと言う事か」
そして子犬は善良である事を誓い、この国の人間になった。
子犬は赤い髪を撫でられて、兄の笑顔に応える。
「俺も、好き」
この上なく嬉しそうに笑った。




