先生の所へ行く話
子犬は読書の時間が好きだった。と言っても自分が読書するのではなく、兄が読書をしている時間が好きだった。それは二人きりの時だったから存分に兄の隣を独占できる。でも兄の邪魔はしたくないので、ただ隣に座って持たれているだけだった。兄は子犬の肩に手を回して、時々手遊びの様に子犬の頭を撫でる。そんな風に片手間に撫でられるのも子犬は好きだった。
兄はふと本から顔を上げて、自分の隣で何もしてないのに楽しげな子犬に聞く。
「お前も何か読もうか」
「読まない」
にこにこと応えてから、本を読めるようになろうと言われていた事を思い出す。子犬は渋い顔をして小さく唸る。
「向いてないよ」
「うん」
確かにこの部屋に子犬に向いている本は無い。分厚い本か古い言葉や専門用語で書かれた本ばかりで、気軽に読めそうな物では無かった。
子犬は決して物覚えが悪い訳ではない。この国の言葉もすぐに話せるようになったし、兄が語って聞かせる物語や広間でみんなで歌う歌も一度聞けば大体覚えてしまう。耳で聞いた事を覚えるのは得意なようだった。ただ兄としては、もう少し読み書きにも慣れて欲しかった。少し考えて、しょっぱい顔をしている子犬を撫でて言った。
「先生の所へ行ってみようか」
「みんなが通ってる手習いの?」
「先生の本業はお医者だよ」
兄の言う通り、先生は医者だった。人間と家畜と、頼まれれば時々農作物も診る。口数は多くなく、怒っているのも笑ってるのも殆ど誰も見たことが無い。いつも淡々としていて若いのか年配なのかよく分からない。取っ付きにくく感じるけれど、実際はとても面倒見の良い人だった。
先生の家には薬草畑があって、他にも香草や果樹など色々と育てていた。香草は各家庭でも庭先に植えてあるけれど、先生の育てている物は特に香りが良い。なので料理好きのおかみさん達から分けて欲しいとよく頼まれる。それでおかみさん達と話すのは家族の健康の事より料理の話題が多かった。
先生の育てる果樹も出来が良い。実れば当然のように子供達が狙う。先生は駄目とは言わず、おやつにあげる代わりに畑の手伝いをさせた。畑の世話を教えるついでに計算や読み書きを教えていたら、いつの間にか手習いの先生と呼ばれるようになってしまった。
何が本業か分からなくなる時があるけれど、先生はあくまで医者だった。
兄は手習いには通わなかったけれど、先生の家にある医学の手引書や調合された薬に興味を持ってよく出入りしていた。手引書は代々の持ち主の手で細かく書き込みがしてあって、兄はその書き込みまで読み込んでは先生に質問したりしていた。とても熱心だったので医者になりたいかと聞くと、そうでは無いと言う。
「医者もなりたい物の一つですが」
「お前さんなら、どんな物でもなりたい物になれるだろうな」
特に残念な素振りは見せずに淡々と言った。
先生の家の本棚にはその他にも、遠出した兄が持ち帰った本や、手習いを教える為の子供向けの易しい本も置いてあった。その中に子犬が一人で読める本がありそうだった。
数日後、子犬と兄は手土産を持って先生の所へ向かう。お菓子作りの得意なおかみさんに頼んで作ってもらった物で、お祝い事などでみんなで料理を持ち寄れば一番に無くなってしまう焼き菓子だった。子犬は甘い匂いのする籠を頭に乗せて、おまけにもらったのを満面の笑みでかじっていた。
先生の家と畑は谷の奥の方にあった。小さな川沿いの坂道を上がって行くと、畑の端の木陰で授業をしている所だった。子供達はみんな子犬の友達かその兄弟達で、子犬と兄がやって来るのに気付くと駆け寄って来た。
「何しに来たの?」
「お前も通うの?」
「ううん、見に来ただけ」
「と言う事で見学させて下さい」
そう言って兄が手土産の籠を先生に渡す。
「あと本をお借りしたくて」
「うん」
甘い匂いの籠を受け取った先生は中身を数える。期待の目で見る子供達に、一つずつだな、と言うと歓声が上がった。
手習いに来ている子供達は年もばらばらなので、先生はそれぞれに合わせて教えていた。本を探すのは全員が終わってからと言う事で、兄は先生と一緒に読み書きを見てやって、子犬はもう終わった子達と畑いじりをする。畑の隅には放牧地で見かける羊の好きな小さな花も咲いていた。子犬は隣の子に話し掛ける。
「これ、馬も好きだよね」
「そうだねー」
「でも人間が食べても美味しくないよね」
何気無く子犬が言うと、主に女の子から呆れた声が上がる。
「信じらんない」
「何でも食べてみるのやめない?」
「蜜だけ吸うなら分かるけど」
子犬はむっとして言い返す。
「何でもは食べないよ。それにこれ、兄いも食べてみたし」
一転して、兄に対する心配と戸惑いの声。
「大丈夫なの?」
「お腹壊さない?」
「どんな味したの?」
兄は、美味しくは無いけど害は無いから、と笑う。子犬は、分かっていたけど反応違くない?と横目で見ながら思う。そんなやり取りの中、少し離れて視線を外らせていた子が子犬を突いて、オレもちょっと味見した事ある、と小さな声で言いに来た。
「食べてみるよなー」
「ちょ、声大きい」
「あんた達のはただの食い意地でしょ」
わいわいと言い合う子犬と子供達に先生がいつもの淡々とした調子ながら厳しい声で、お前達、と呼び掛ける。
「不味いだけならまだ良いけどな。普段から毒があると教えている物には、間違っても手を出すんじゃないぞ」
「はーい」
「しませーん」
子供達と子犬は素直な返事をする。先生は一人一人の顔を見回して頷いて、最後に子供達を見て笑っている兄をじろりと見た。先生の眉間のしわが一瞬深くなったのに子犬は気付いて、思わず兄の顔をじっと見た。
授業が終わって子供達は焼き菓子を一つずつ貰い、せんせーまたねー、と手を振って帰って行く。子犬も一つ貰って、兄は子犬向けの本を借りて二人で並んで帰路に着く。道すがら子犬はにこにこと今日二個目の焼き菓子を食べる。食べ終わってから、ふと考えるような顔をして子犬は兄に尋ねる。
「兄い、何したの?」
「何の話かな?」
「さっき、毒がある物には手を出すなって言った後、先生が兄いのこと難しい顔で見てたよ」
兄は、ははは、と笑うと周りを伺って口元に指を当て、あまり大っぴらに言えないけど、と悪戯そうな笑みで子犬に話す。
炉端の昔語りで語られる、名誉の為に自ら命を絶った王の伝説があるだろ。
悲劇の王の命を奪った薬の調合方法と原料を先生の薬棚の奥に見つけたら、実際に作って伝説の味を知りたいと思うだろ?
「お前には真似して欲しく無いけど」
「真似できないよ」
子犬は困惑し切った顔で言う。兄が博識で、その裏にはこんな風に旺盛な好奇心と実体験がある事を子犬も分かってきていた。子犬自身も好奇心は強いけれど、本能的に危険と感じる事には手を出さない。兄も危険を感じる能力はあるはずだけど、知的好奇心がそれを上回るようだった。無茶をしても無謀な事はしないと兄を信頼しているけれど。兄から目を離しちゃダメかも知れない。そんな気持ちが芽生える。
「兄いのそう言うとこ心配だな」
「そうか」
兄は子犬に対して済まなく思うのと同時に、それ以上の嬉しさと、それだけでない感情が湧いて来る。
「あまり心配掛けない様にするよ」
足を止めて子犬と向かい合い、真っ直ぐに目を見て兄は言った。




