第七話 神の言葉
あり得ない言葉。直人と環は互いに顔を見合わせる。二人の顔は蒼白で、眼には不安が滲んでいた。凍りついてしまったような彼らは、瞬き一つしない。されど、しばらくして二人は無理やりに笑みを浮かべた。
「……ちょっとしたトラブルだよな?」
「あ、当たり前だろう!」
二人は思考を集中して、もう一度ログアウトしようとした。されど、同じ内容のメッセージがまたも繰り返される。吹き抜ける冷たい風に、背筋が冷えた。彼らの頭の中を不吉な言葉がよぎる。だが、二人はそれを口にはしなかった。口にしてしまえば、より不安になるのは目に見えている。
ちょうど夕食時でキリが良かったのだろう。直人たちの他にも、なにやらログアウトできなくなったらしいプレイヤーの姿がちらほらとみられた。彼らは一様に凍りついたような笑顔を浮かべて、乾いた笑いをこぼす。何となく嫌な雰囲気が、街を漂っていった。
ログアウト出来ないプレイヤーたちは小説やアニメの影響か、ほとんどの人間が直人たちと同じ単語を思い付いた。だが、誰もそれを口にしようとはしない。まるでそれは、口にすることがタブーになっているかのようだった。しかし、その時。暗黙の了解を破って、一人の男が素っ頓狂な声を上げた。
「デ、デ、デスゲームだあああぁ!」
気弱そうな男は頭を抱ると、そのまま地面にうずくまる。彼の顔は蒼白で、身体はぶるぶると小刻みに震えていた。そのただならぬ様子に、近くにいたプレイヤーたちは彼に駆け寄る。彼らはどこかぎこちない笑みを浮かべると、口々に「心配ない」と男に声をかけた。だがその声はどこか弱弱しく、まるで自分に言い聞かせているようだ。
そうしていると、最初の男以外にも騒ぎだす連中が現れた。彼らはこの世の終わりが来たような絶望的な表情を浮かべ、道の端に座り込んだり叫びだしたりする。集団パニック、とでもいうべき状況。残された正常なプレイヤーたちは、彼らを何とか落ちつけるべく奔走する。そうでもしないと、自分たちまでおかしくなりそうだ。
皆が皆、心の奥底にただならぬ恐怖や不安を感じ、異様な雰囲気が街を漂い始めた。まるで戦時下だ。直人と環は用もないのにフラフラと動き回り、気分を落ち着かせようとする。その時――。
『御機嫌よう』
空から声が降ってきた。街中の人々は騒然として空を見上げる。すると、そこには異様な物体が浮かんでいた。
「石版……?」
それは巨大な黒い石の塊であった。闇に溶けるその滑らかな表面には、七つの眼と奇怪な文様が所狭しと刻み込まれている。文様は不気味に光ってうごめき、生きているかのようだ。
『我々はエッセネの末裔。旧き書の正当なる守り手である』
複数の人間が同時にしゃべっているかのような、重層的な声。それは確かに、この石版から降ってきているようだった。人間たちはみな、固唾を飲んで石板を見守る。
『約束の時が訪れた。穢れた我らは再び丘に血を流さねばならぬ。汝らは与えられし奇蹟を用い、迫りくる試練を超えよ。試練を超え至高天にたどり着いた時、汝らは御子となる。新たなる御子が流浪の民を一つにすれば、再び安息の時が来るであろう』
石板の言葉はほとんどのプレイヤーに理解されなかった。ほとんどの人間が、ぽかんとした顔で空を見上げる。だがご丁寧にも、一部の博識なプレイヤーたちがその意味を自然と口ずさんだ。
――デスゲームの始まりだ、と。
ささやきはまたたく間に伝播した。爆発する悲鳴、狂ったように暴れ始める人々。
辺りにはログアウトを求める悲痛な叫びがこだまし、街は混沌とした様相を呈する。正気を保てているプレイヤーなど一握りで、大多数のプレイヤーが途方もない混乱状態に陥った。だが、石板は無慈悲にもそんな彼らに言葉を投げかける。
『汝らは選ばれし覚醒者である。ゆえに、定められた運命から逃れることはかなわぬ。もし逃れたとしてもその先にあるのは煉獄のみ。そのことをよくよく心に留めておくべし』
石板は徐々に薄らいでいき、星空に溶けた。人々はもはや茫然自失として、騒ぐ元気すら残されていない。彼らの顔はみなうつろで、瞳に光がなかった。
『コード666が発動されました。プロテクト全解除、ユニークスキル解禁』
不意に響き渡った機械的な音声、それと同時に世界がクリアになった。プレイヤーたちを知らず知らずのうちに守っていた、衣服が取り払われたかのようだ。吹き抜ける夜風がなまめかしくなり、どこか人形のようだった身体が体温を帯びる。人々はそんな仮想世界で感じる生の感覚に、嫌悪を感じずにはいられなかった。
直人と環も例外ではなかった。二人は空を見上げて、石化したようになっている。その顔にあるのは悔しさか、悲しさか。そのどちらともとれない混沌とした感覚だった。二人は目じりが裂けそうなほど眼を見開き、瞬き一つしていない。
するとここで、唐突に環が崩れ落ちた。バサッという音とともに、華奢な身体が地面に落ちる。彼女の表情が一気にやるせない思いに沈んだ。
「すまない……。私がこんなゲームに誘ったから……!」
環は眼から涙を流すと、地面を殴り付けた。彼女の手から、光の粒ではなく紅の血が流れる。デジタルな光ではなく、温かく鉄臭い血がだ。そのことが何よりも雄弁に、事態の深刻さを彼女に訴えた。彼女は苦悶に顔をゆがめながら、より一層すすり泣くような声を上げる。するとここで、筋肉質な腕が地面を打ちすえる彼女の手を止めた。
「環のせいじゃない! 悪いのは運営の奴らだ!」
「直人……」
「今はそれより生き残ることが重要だ。……とりあえず、現状を確認しよう」
環の肩に手を掛けながら、ゆっくりと立ち上がる直人。その顔はいつになく険しかった。だが、生気を失ってはいない。彼の眼には強い意志が存在し、虚無感などひとかけらもなかった。彼は、現実を受け入れようとしているのだ。環はとっさに涙をぬぐい去ると、直人の方を強い意志のこもった眼で見つめ返す。こうして遊びだったゲームは終わり、生死をかけたデスゲームが始まった――




